NO.518 雲に乗って来られる方(2)


”テキスト:出エジプト19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」
14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。
20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。
22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」
23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」
24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」
25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。”

本日は「雲に乗って来られる方(2)」としてこの件をもう少し見ていきたいと思います。
 

終わりの日、主が再臨することは私達がよく知っていることです。
しかし、主の再臨にはいくつかの面があるのですが、それらは全て解きあかされたようには思えません。
雲に乗って来るということで主が語られていること暗示していることを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿ってみます。
 

”12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。”

かつての日、旧約の主がその民の前で雲の中で降りてきたこのシナイ山の箇所は明らかに
キリストが雲の中で再臨する日の型です。
この箇所の中で語られている隠された再臨の奥義を見ていきたいと思っているのです。
さてここでは再臨に関連して、「山に触れること」について書かれています。
この山は、裁かれるべき教会の型と思われます。
黙示録で聖徒に対して、淫婦バビロンから出るよう勧められているように、
裁かれるべき教会、山に触れるべきではないのです。もしふれるなら、私達も裁きに巻き込まれます。
 

”13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」”

この山に触れる者、すなわち裁かれるべき終末の教会に触れるものは、「石で打ち殺されるか、刺し殺される」ことが書かれています。石は器のたとえであり、器崇拝の中で誤った教理を受け、倒されることが書かれているのです。また刺し殺されるは何度もいうように御霊の剣、みことばに関するたとえであり、
おかしな教理により信仰をくつがえされることを語ります。
 


14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。”
 

その日、モーセは民のところに降りてきて、民に神に会うためのそなえをさせました。
それは着物を洗うことです。「もしきよからずば誰も主にまみえることあたわず」と書いてあるように、
再臨の主に会うための必須準備は着物を洗い、白い衣を準備することです。
ここに書かれている山から下るモーセはまた、天から下られた神のひとり子キリストの型です。
キリストの来られたのも再臨の時、神の前に恥じることのない民を準備するためだったからです。
全てモーセのことばに従った民が正しく準備できたように今の時代もこのキリストのことばに正しく従うものは、しかるべき整えができます。
 


15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」”

ここでは主が雲の中に降りてくるのが3日目であり、その為に準備をすることが書かれています。
3日目は明らかにキリスト
の初臨から数えて3つ目のミレニアムのたとえであり、今の時代のことです。
今はまさにキリストの再臨のために準備するべき時なのです。愚かな花嫁のように
整えのない者であってはいけません。
 

「女に近づいてはならない。」

キリストの再臨の備えと関連して女に近付いてはならないことが書かれています。
女は教会のたとえであり、また黙示録に書かれた女、淫婦バビロンと関係があるように
思われます。

終末の日、主の来臨を待ち望む民の気をつけるべきことは、女、すなわち。冒涜の教会に触れないこと、影響されないことだということがわかります。
彼等の背教教理に影響されてはいけないのです。
 
 
 

”16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。”
 

「雷といなずまと密雲」は雨に関連したことがらです。雨、水は霊のこと、ですからこれは霊に関することなのです。神が雲の中に降りてくる、その3日目は、雷といなずまと密雲また、角笛の音があり、
恐ろし気な状況です。

これは何をあらわすものなのでしょうか?
ここで知るべきことはこの前後の記述を見てわかるように、この山はモーセが神から
律法を与えられた山だということです。
律法とは要するに神のことばのことです。そしてその律法を与えられた日、神は自らを恐ろしい存在として表しました。このことを通して語ることは?それは、神のことばは厳正なものであり、
それをないがしろにする者、あなどる者、行わない者に対して厳しい裁きがあることを語っているのです。

このことが語ること、暗示することはこのことです。すなわち、後の日、3日目、すなわち、
3つ目のミレニアムに再度来られる方、キリストの再臨の型がこの箇所で書かれているということです。
そして、キリストの再臨の時とはどういう時かというと、まままあの時でも、いいかげんな時でもなく、厳正な裁きの時、神のことば、キリストのことばを侮る人々に対して厳しい裁きが下る日だと語っていると思われるのです。
 


17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。
その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。”

この日、神が何と山の上に降りてこられました。恐るべきことが起きたのです。
そしてこの記述は明らかに終末の日の再臨に関する型であり、終わりの日にも神であるキリストがオリーブ山すなわち山の上に降りて来られます。
その日は裁きの時であり、キリストのことばを侮る者への裁きの時となるのです。
 

かまどは裁きと関係します。
以下の様にソドム、ゴモラの時の記述に書かれています。

”創世記19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。
28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。”

かまどはパン、みことばと関係しており、それは神のことばを侮る者を裁かれる時と関係しているのです。
 

”19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。
20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。”

かつての日、
神が山の上に降りて来た日に角笛が高くなり響いたことが書かれています。
キリストの再臨の時も同じです。キリストの再臨の時も角笛、すなわち、警告者の
声が高く鳴り響く時なのです。
欧米のキリスト教会も全ての人がだまされているわけではなく、小数の
だまされずに警告を発している人々がいます。それは、たとえば、Deception in the church
というサイトで見ることができます。日本においてもさらに小数ですが、しかし、
角笛を吹く人々がいます。


21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。
22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」”
 

ここでは、主が怒りを発しないために祭司も身をきよめなければならないことが書かれています。
身をきよめよとは、水で身をきよめること、具体的には聖霊により罪からきよめられることです。
そうでない時、主が怒りを発することが書かれています。
これは、かつての旧約の記事ではあるもののさらにまた後の日、キリストの再臨の時に関する
預言でもあります。
私達も主に会う時、その身をきよめないで会うなら主から怒りを受けることを覚えましょう。
今、私達がきよくなることはいかに大事なことでしょうか。
 

”23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」
24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」
25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。””
 

主が怒りを発することについて書いてあります。
主が下ってくることに関連して怒りについて書いてあるのです。
ですから、後の日、キリストの再臨とは、すなわち、神の裁きの時、怒りの時に
関することだと言うことを理解すべきなのです。

まとめますが、主の再臨についてあらゆるガセネタ、いつわりの教えが席巻していますが、
しかし、聖書は明らかにその日は神の怒りの日であると述べていることを述べましょう。
私達はこの神の前に立つようになるのです。

恐れをもって、主に仕えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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