No.510 カナンの地について

テキスト:レビ18:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。
3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。
4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。
5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。”

本日はカナンの地という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。

”1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。
3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。”
 

かつての日、出エジプトしたイスラエルの民がめざし、神が約束の地として与えた地は
カナンの地であることは私達のよく知っていることです。
そうではあるのですが、しかし、あらためてこの地、神が約束の地として与えた
カナンの地について考えるとどうにも不思議なことがあります。

それは、このカナンの地は不品行と汚れに満ちた地であるということです。
よりによってというか、神はとんでもない不品行に満ちた民のいる地をわざわざその民に
約束の地として与えたのです。

このことはよく考えると不思議です。
たとえばあなたが自分の愛する息子や娘を都会のアパートなどに住まわせるとします。親であるあなたが、
上京して一緒に子供の住むところをさがすとして、どうするでしょう。
わざわざ回りの環境が最悪の所にアパートを見つけたりはしません。
バー、キャバレーやら、不品行の店が並ぶ街の一角にわざわざ子供の住まいを探したりはしません。
また、右隣はやくざ、左隣は売春婦の住む部屋をわざわざ探したりはしません。
逆に町もアパートも住みやすく、道徳的にもまともなところを探さないでしょうか?

しかるにこのイスラエルの民が勇躍約束の地として入っていった土地は不品行と
道徳崩壊の地だったのです。これは何故なのでしょう?

私の今の理解では、この状況は後の日、新約のイスラエル、クリスチャンの歩む環境の
たとえと理解できます。

新約の私達クリスチャンも神の与えた地において生活をし、クリスチャン生活を営むものですが、
しかしその環境は、無菌、衛生管理のすばらしい環境というより、往々にして
この世のまっただなかに住むようになるものなのです。

それでは、我々はそれらの中に 入っているので、その回りに合わせるべきなのでしょうか?

教会は回りに合わせ、大いにそのトレンドを受け入れるべきでは無いのです。

時代の流行やトレンドは変わるとしても神のことばがひょこひょこ変わるわけでは
ありませんので、堅くみことばに立つべきです。
 

酒に酔ってこの世のばか騒ぎに加わったり、今の時代の不品行なトレンドに加わることは、
まさに「カナンの地のならわしをまね」ることなので、私達はそれから身をさけるべきなのです。
 

また、人を傷つけることばを平気でいったり、万引きしたり、お金をちよろまかしたり、
不品行な行いに入ることが今の時代の習慣であったとしても、「彼らの風習に従って歩んではならない。」と書いてあるので、私達はそれを避けるべきなのです。
 


4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。
5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。”
 

私達は神の教えを守るべきなのですが、それを
全く無菌の状態で守れと言うより、罪と汚辱と偽りと不道徳の地、そのまん中で、
神の教えを守るように言われているのです。
カナンの地のまん中にいたイスラエル人はまさにそのような状況であり、
今の悪い時代に生きる私達もまさしくそのような状況なのです。

何で今の様な時代に生まれたのか、右も左も不品行、神の教えを守らない世で
キリストのことばに堅く立つのはむずかしい、そんな意見があるかもしれません。
しかし、これが聖書の中で一貫として流れる方法なのだということを知りましょう。

「試みを経た石」ということばが聖書にはあります。
クリスチャン生活の一面をあらわすことばは、試練やら、試みを受けるやら、サバイバル
やらということばであることを知りましょう。

私達が信仰を持ち、神を知った、それはそれで素晴らしいのですが、
しかし、それは信仰生活のスタートに過ぎず、まだ海のものとも山のものともいえません。
尊いのは「滅びに至る広い道」を歩まず、狭い門、狭い道を通って永遠の命へ
達することです。何故なら、多くの人が途中で滅びに至る道へ消えていくからです。

同じようにスタートをしても残るもの、永遠の命を獲得するものは少ない:
明らかに聖書はそう主張しています。だから、試練に耐え、サバイバルし、
残るものが幸いなのです。
種まきのたとえでも全ての種が残り、永遠の命に達するとは語っているようには見えません。
逆に4つの種のうち、たった1つの種しか、実を結ばないことを明らかにこのたとえは
述べます。
他の種、道ばたや石地やいばらの地に落ちた種は脱落し、サバイバルせず、
試練、試験を通らず脱落したことを語るのです。
そして、尊いのは試練、試みを受け、なおかつ最後まで、残るものなのです。

「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。」と神がいう時、その
ことばは、よりによって、道徳的には最悪な民のまっただ中で語られ、
全く神のことばなど守らない民のどまんなかでそう命じられたことをよくよく理解すべきです。

それで今の私達も聖書の教えを不品行と不道徳が吹きすさぶこの世のまっただ中で行うよう
召されていることを理解するのです。

聖書は明らかにこのようなパターン、試練や誘惑のまっただ中で神のことばを守ることに
ついて語っています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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