NO.509 あがなう(3)

”テキスト:レビ27:21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。
22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、
23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。
24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。
25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。
26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。
27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。
28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。
29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。
30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
31 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。
32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。
33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
34 以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。”
 

本日は、「あがなう(3)」として、このテーマをさらに見ていきたいと思います。
テキストを順に見ます。
 

”21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。”

その畑、すなわち、みことばがまかれ、育った教会なりクリスチャンであってもそれが、
ヨベルの年、終末の背教の日に敵に渡されるならそれは、聖絶された畑となることが書かれています。
聖絶ということばには、呪われたものというニュアンスがあります、
そうその背教の日に敵、反キリストに渡された教会は呪われた教会となる、呪われたクリスチャンになることが書かれているのです。

それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。」

その畑、教会は聖絶され、それは所有者である、主のもとに帰ることになります。
 
 
 



”22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、

 

「人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないもの」とは、何を意味しているのでしょう?
人とはキリストのことでしょうし、「その買った畑」とは、キリストがあがなった畑、教会と理解できます。「自分の所有の畑の一部でないもの」とは、要するにキリストにより、あがなわれた教会が、
キリストの所有を離れる、キリスト以外のものとして、離れていくそのことを語っています。
 

”23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。”

祭司が「ヨベルの年までの評価の総額を計算」することが書かれています。
終末の日において、ヨベルの年をもって象徴される私達が「評価される時」が来ます。
その時、私達が主の前に価値あるものであるなら、その価は払われます。
しかし、もしそうでないなら..。
 


24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。”

その畑、教会は、所有主である主のもとに帰ります。
そして主のもとにかえった畑には2つの運命があることを知りましょう。
以下のことばがその日、成就するはずです。

ルカ3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」”

ここには祝福と呪いが書かれており、このどちらかがヨベルの日にそれぞれの教会に
成就するはずです。

”25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。”

ここでは評価は全て「聖所のシェケル」という特別な貨幣により行われることが書かれています。
この世のシェケルではなく、「聖所のシェケル」なのです。ですから、その
日全てのクリスチャンは、神の前に評価され、価をはかられます。その評価基準は、
この世のものでなく、「聖所のシェケル」すなわち、神の評価であることを知りましょう。

この評価する、はかられることについて
思い出すのはダニエル書の以下の記述です。
 

”ダニエル5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。”

はかられ、評価され、かつ目方の足りない時、裁きが来ることを知りましょう。
もとのテキストに戻ります。
 
 

”26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。
27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。
28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。
29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。”
 

「聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。」と書かれています。私達はキリストによりあがなわれるものですが、ここでは何とあがなわれないことに
ついて書かれています。
すなわち、
呪われ、あがないから外され、殺される人々が終末の日に起きることが暗示されているのです。それは、終末の日、惑わしに入り、
自らあがないの血を拒絶する人々のことです。

"
30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。"
 

ここでは、木の「実」が主のものであり、聖なるものであることが書いてあります。
前記の聖絶とは対象的です。御霊の実のある人々は、終末の日においても、
主の聖なるものとなります。
 

"
31 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。
32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。
33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
34 以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。”

ここでは、羊や牛を買い戻す、あがなうことについて書いてあります。
私達は主によりあがなわれた羊です。

さて、上記に見たように、このレビ記においては、羊すなわち、クリスチャンをあがなう方、
キリスト及びヨベルの年にそのあがないが怪しくなる、捨て去られる、そのことについて書かれています。
この時に我々は入りつつあり、警戒が必要です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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