No.505 ヨベルの年(2)

テキスト:レビ25
20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、
21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。
23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。
25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、
27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。
28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。
29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。
30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。
31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。
32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。
33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。
34 しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。
35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。
36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。
37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。
38 わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。”
 
 

本日は、「ヨベルの年(2)」として、さらにこのテーマを見ていきたいと思います。
さて、突然ですがヨベルの年の一般的な認識はどういうものでしょうか。ヨベルとは、
解放の年、祝福の年という認識でしょうか。

しかし、その様な表面的な意味合いにとどまらず、このことばには隠された意味合いがあるように
思えます。ヨベルということばの意味合いが角笛であり、角笛は聖書の中で、警告、特に終末の
警告と関連して記されていることを考えると、このヨベルの年の記述には実は終末に関連して
隠されたメッセージがあることが推察できます。この面を見ていきたいと思っているのです。
テキストを順に見ます。

20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、
21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。”

神はヨベルの年に関して、「種をまかないこと」「刈り入れをしないこと」を命じました。
何故か?その理由は以前見たように、この7年目が特別な年、ろくでもないものがまかれ、
ろくでもないものが刈りとられる年となるからです。
この年こそ、冒涜と聖書曲解のトンデモナイ年になることを神は御存じです。そして、それゆえ
前もって種をまかないこと、収穫を集めないことを命じているのです。
しかし、何も蒔かず、刈りとらないなら、一体その年は何を食べればよいのか?とは、
もっともな疑問ですが、それに対して聖書は、6年目に豊かな祝福、刈り取りがあること、
それを7年目も食べろと語ります。
これをミレニアムになおしていうなら、6つ目のミレニアム迄に蒔かれた種、収穫は
安心して食べよ、しかし、7つ目のミレニアムになれば警戒せよ、角笛(ヨベル)を吹け、
ろくでもないパン、すなわち、メッセージや、ろくでもないリバイバルがあるので、
それを食べること、教理を受けることを避けよ、そう読み取れます。
そしてアダム以来7つ目のミレニアムとは西暦2001年以降の時をさすのです。
すなわち、これは今の時代について述べた預言と理解できます。

それで、我々はキリスト教書店で販売される、本、書籍、雑誌等また、
注解書、信仰書に関して、一つの原則を定めるべきと思われます。
すなわち、時代による区分です。20世紀以前のキリスト教信仰書は原則問題なさそう、
そして、21世紀以降、出てきた教理、器、働き人に関しては、みな眉に唾をつけて、
読むこと、吟味に吟味をし、原則として、そんなものを受けたり、信じたり、広めたりしないこと、
そういう区分が必要と思われるのです。

これは、世の中も同じです。私が子供の頃、すなわち、まだまだ6日目、6つ目のミレニアム
だった頃、食べ物に気をつけるなどということはあまり聞きませんでした。
もちろん、長い間外に置いて、腐ったり、いたんだりする物は別ですが。
しかし、今は遺伝子組み換え食品、狂牛病肉、添加物、着色剤等、あらゆる種類の
毒製品が食卓を襲っています。そのせいか、日本の死因の大きな部分は、ガンが占めています。
これらの食品汚染が、多くの人の体をむしばみ、癌をひき起こすことが想像されます。そうです、
もう何も気にせず出された物を食べる時代は過ぎ去りました。
食べ物には吟味が必要なのです。そして、それは、信仰の世界においても
同じくなのだということを知るべきです。
 


23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。認めなければならない。"
 

ここに書かれている「買い戻し」とは、あがないと同じことばです。
ですから、ここでは、土地の売買についての記事の様に見えますが、実際はクリスチャンのあがない
に関する記述であることを理解してください。

ですから、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。」とは、いいかえると、
クリスチャンは、あがないの権利、特権を売り払ってはいけないという意味合いを語っています。
クリスチャンが自分があがなわれたその特権を売り払う?穏やかではありませんが、
しかし、まさにこの箇所はそのあり得ないことがらについて語っているのです。
よく聖書を読むなら、実は聖書のここかしこに終末の冒涜の日に自分のあがないの
権利をないがしろにしたり、売り払う、捨て去る人々があらわれることを暗示する
箇所があります。
以下はその様な箇所です。
 

”ヘブル12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。”
 

”ヘブル10:
29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。”
 

それらの土地を売り払うことは、具体的にはどのように
実現するのでしょうか?
私の今の理解では、反キリストと契約を結び、それを誓うことによります。
以下の様に書かれています。
 

”ダニエル9:
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

ですから決して反キリストと契約を堅く誓ってはいけないのです。
誓うことに関する以下の警告が聖書にあります。
 

”マタイ5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。”
 
 

さて、テキストに戻ります。
 

"

25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。”
 

買い戻しの権利のある親類とは誰でしょう?
ルツ記に書かれている「ルツと土地を買い戻したボアズ」に示されるように、
近い親類、すなわち、私達の兄弟であるキリストのことをさします。
私達自身また、私達が所有する永遠の土地もこの近い親類、キリストが来られ、買い取られた
すなわち、あがなわれたものなのです。
 

"
26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、
27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。"
 

ここでも、買い戻し(あがない)、自分の所有地に戻ることが語られています。
我々があがなわれること、また主の与えた約束の土地に帰る、すなわち、約束されたみ国に
住むことは神のみこころです。
 

”28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。”
 

もし、返す余裕がないと、ヨベルの年に土地は買い主の手に渡ることが書かれています。
買い主、あがない主は、キリストのことですから、その日、土地、約束の土地は
そのクリスチャンの手を離れてしまうことを語っているのです。
結果、そのクリスチャンは入るべきみ国に入れなくなるのでしょうか。
ヨベル、すなわち、角笛の時は、恐るべき、分離の時、揺るがしの時であることが
ここでも暗示されます。
 

”29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。
30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。
31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。”

ここでも、買い取る(あがない)、土地を得る、手放すことが書かれまたそれがヨベル
の年に行われることが書かれています。
繰り返していいますが、ヨベルは角笛、聖書的には終末の警告の時をさし、
その日、あがないを失ったり永遠の約束の地を失う人々が出ることが暗示されるのです。
 


32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。”

レビ人は、主に「つく」人々、今でいう弟子をさし、
彼等はいつでも「買い戻す」すなわち、あがないを受ける権利があります。

”33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。
(KJV:33 And if a man purchase of the Levites, then the house that was sold, and the city of his possession, shall go out in the year of jubile: for the houses of the cities of the Levites are their possession among the children of Israel.”:KJV訳:もし、ある人がレビ人の所有を買うなら、売られた家及び彼の所有の町は、ヨベル
の年に出ていくこと、何故なら、レビ人の町の家は、イスラエルの子らの中で、彼等の所有だからである)
 

この箇所は(この箇所だけではないのですが)、日本語の聖書を読んでも意味不明です。
英語のKJV訳で読むとはっきり意味がわかります。
いわんとしていることは、こうです。

もし、ある人がレビ人の所有を買うなら」

ある人とはキリストのことであり、彼が買う、すなわち、レビ人をあがなうなら、といっているのです。

「売られた家及び彼の所有の町は、ヨベル
の年に出ていくこと」

ヨベルの年にに出ていくことが書かれています。
ですから、ヨベル警告の年には出ていくこと、出ていく民にみこころがあるのかもしれません。
裁きが来らんとする教会から出ていき、またソドム、エジプトといわれるように
なった堕落した教会から出ていくことにみこころがあります。

何故なら、レビ人の町の家は、イスラエルの子らの中で、彼等の所有だからである」

我々クリスチャンの信仰生活は戦いになぞらえられ、また戦いとは領土を獲得することでもあります。
レビ人は信仰のよき戦いを戦い、永遠の所有、約束の地を所有した人々です。
たとえ、ヨベル、ゆるがしの時でもこれは彼等の手から離れないのです。
 


35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。
36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。”

兄弟が貧しくなり、暮らしが立たなくなる日について書かれています。
この日は後に来るようになるでしょう。

福音書には、こう書かれています。

”マタイ25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』”
 

なぜ、これらの兄弟達は飢え、渇き、裸また牢に入るのか?
それは、終末の日の全世界規模の背教と関係すると思われます。
背教に加担しない人々は、排斥するのです。

しかし、この日、これらの主につく兄弟達の排斥に加担せず、しかし、
神を恐れる人々にみこころがあります。
 

”38 わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。”
 

「エジプトの地から連れ出した」と書かれていますが、しかし、全世界規模の教会は、
エジプト、ソドム化します。「ソドムやエジプトと呼ばれる都」とは、その教会をさします。
しかし、神は主につく人々を終末の日にエジプト化した教会から連れ出します。

終末の日にみこころがあるのは、ヨベルの年においても土地を売り払わず、
そして、エジプト、ソドム化した教会からは一線を画す人々であることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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