No.494 このために遣わされている

テキスト:”ルカ4:42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」”
 

本日は、「このために遣わされている」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。”

かつての日、町の人々は、イエスを引き止めようとしました。
この町にいて欲しい、また我々のために尽くして欲しいということです。
このイエスこそ、病をいやし、悪霊を追い出しまた、命のみことばを持つ人なので、
是非、自分達とともにいて欲しいと願ったのです。

彼らの願いは、もっともと思われます。誰だって、自分を養う人、
またいやす人にそばにいて欲しいからです。
さて、町の人々の考えはよくわかるのですが、問題は、その働き人は
どうするかということです。

自分達のところにいて欲しいということは、今でいえば、働き人として、求められている、牧師として、
招聘があった、そんな風に理解できるのでしょうか。いて欲しいと言う以上、食べる食事も
住むところも生活費も負担してくれるのでしょう。
働き人としては、願ったり、かなったりということになるのでしょうか。
 

”43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」”

さて、その様な暖かい申し出に対して、イエスはなかばつれない様な返事をしています。
他のところへ行くと言っているのです。そしてイエスは結果として、この町の人々の申し出を受けるのではなく、この街を去り、他の街へ福音を伝えに行ってしまったのです。

何故彼はそうしたのか?人情味がないのか、野心にはやっていたのか。
そう答えた理由ははっきり明示されており、「わたしは、そのために遣わされたのですから。」と
書かれています。

要するに召しの問題なのです。主の召し、神より主に任された働きは、「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝える」ことであり、それを第一優先にしていたということなのです。

そんなわけで、この箇所からわかることは、こういうことでしょうか。それは、神により、
召された人には、神が与えた、遣わされたその目的、または主たる召し、働きがあるということなのです。そして、何はともあれ、我々はその第一の召し、働きを優先すべきだということです。

その様に主イエスはしておられ、我々もそうすべきなのです。

今の時代、神の働き人をはかる尺度は何でしょうか。
牧師であること、牧師なら、大きな教会堂があること、それから、たくさん
会員がいること、献金が多いこと、教団の偉い人であること、そんなことでしょうか。

その様な召しがありえるでしょうし、その人がある町の牧師になる様に主に遣わされており、
そう召されているなら、その様にすべきなのです。

しかし、違う召し、違う働きのため、主により遣わされている人もいるでしょう。
伝道者、預言者、いやしの働き等。

たとえば、ある人が預言者の召し、またそのために遣わされているなら、その働きを優先すべきです。
ある人がこの時代の預言者、すなわち、人々に方向を伝えるナビとして
召されているなら、またはこの時代への警告者として召されているなら、その働きを優先し、第一にすべきなのです。

それ以外の働きにもし、携わっていたとしてもそれは彼にとって第二義的なことであるべきです。

預言者が、よしんば牧会的なことに携わっていたとしても。それは、
彼の第一の召しでないなら、それをもって彼を「引き止める」べき、はかるべきではありません。

繰り返すようですが、要は、神が彼をどの様に「遣わされたのか」、どの様な働きに召したのか、それに尽きます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d61f4383017a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream