NO. 492 カナンの地


”テキスト:レビ18:
3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。
4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。
5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。

24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、
25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。
26 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。
27 「「あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。「「
28 あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。
29 これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。
30 あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

本日は、カナンの地という題でメッセージしたいと思います。

レビ記18章から見ていきます。

”3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。”

かつてこれから約束の地に入ろうとするイスラエルの民に対して、
神は、その「カナンの地のならわしをまねて」はいけないことを語りました。
なぜなら、カナンの地は、不道徳、不品行、律法を守らない、道の乱れた地だからです。
さて、この地はその様な地なのですが、しかし、よく考えると不思議なことでもあります。
何故なら、カナンの地こそ、神の約束の地であり、ここに入るべく、神はこのイスラエルの民を導いたからです。

神の約束の地は、不品行、不道徳、どうしょうもない地である?不思議だが、
しかし、またそれはまぎれもない事実なのです。

さて、この一見おかしなことがらは、しかし、また未来の日、真のイスラエル、教会時代の
クリスチャンに対して教えることがあります。

それは、我々クリスチャンが住む地、そしてクリスチャンの回りの今の時代の世の人々は、やはり
カナンの地の人々の様に不品行、不道徳な人々だからです。

このレビ記18章によれば、カナンの地の人々は、同性愛、近親姦等あらゆる種類の不道徳を行っていたことがわかります。そして、それは今の私達が住む、世における現状でもあります。
今の時代では、同性愛等、不道徳なことがらが、もてはやされるようになっています。

そしてこのレビ記で語られているおしえは、この地の人々にならうということではなく、
「カナンの地のならわしをまねて」はいけないとのことなのです。すなわち、我々クリスチャンは、たとえ、
世の人々がどの様に不道徳になろうともそれにならってはいけないことがわかるのです。

「彼らの風習に従って歩んではならない。」

神は、カナンの地の風習にならって歩んではいけないことを語りました。
風習にならうとは、その生き方、ライフスタイル、価値観、信条にならうことですが、
そうしてはいけないと語られているのです。
しかし、悲しいかな今のキリスト教会においては、このことばは守られておらず、
徐々に教会は、この世にならうようになっています。この世の方法であるカウンセリング、心理学的アプローチ、積極的思考、ロックミュージック、魔術的なハリーポッター、ナルニヤ物語、ヤベツの祈り等が
取り入れられています。
目的、すなわち教会繁昌、人さえ増えればよいとばかりの教え、バーパスドリブン、
目的主導型教会なんていうトンデモナイ教会まで出現しています。
 


4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。
5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。”

神は自らのおきてに関して、「それを行なう人は、それによって生きる。」と語りました。
生きると語ったのです。
ひるがえって今のキリスト教会を見る時、名目はともかく、死んだ様な教会が多いのです。
愛や救いはたてまえであり、内実は内紛と憎しみと不信仰だったり...。
その理由は何故か?その理由はこのことばによれば、神のことばを行っていないからかもしれません。
カナンの地のならわし、この世のならわし、方法が教会を席巻していく時、教会は生きるのでなく、
死んでいくのでしょう。


24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、
25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。
26 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。”

「これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである」として、
カナンの地の不道徳の一つでも行わない様に命じられています。

ですから、教会においては、これらの汚れのその一つでも行うべきではないのです。
しかし、今の時代、教会を攻撃する人々は、カナンの地の風習、すなわち、不品行を
行わせるべく、あらゆる方法を用いていることを知るべきです。

同性愛はレビ記の中でも明確に罪として指摘されています。
しかし、狡猾な蛇の様な人々は、「子供相手の同性愛は罪だが、そうでないものは、
個人の嗜好の問題であり、自由だ、聖書もそれを禁じていない(?)」などとの
トンデモナイ珍説を披露して、クリスチャンを罪に引きづり込もうとしています。
またそんなトンデモナイ教えに共感してしまう、愚かな神学者もいるとかいないとかの話です。
同性愛を標榜する牧師まで出現したとかの噂も聞いています。

”27 「「あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。「「
28 あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。”

これらの回りの住民の汚れた習慣を神の民、イスラエルが取り入れる、その時、
その地は、イスラエルの民を「吐き出す」ことが書かれています。
さて、この様に書かれているのですが、果たしてその後、イスラエルの民はどうなったのか、
この教えを守り、吐き出されなかったのか、はたまた吐き出されたのか?

私達はこの国の歴史を知っています。イスラエルの国は、カナンの地の風習を徐々に受け入れるようになり、その結果、歴史の終わりにはこの約束の地から、「吐き出され」、他の地、アッシリア、バビロンへと移されてしまったのです。
 

さて、彼らはこの様に、その罪のゆえにその約束の地から「吐き出されて」しまったのですが、
しかし、このことは、また未来に関する預言でもあります。

終末の日にも「吐き出される」人々がいます、以下の通りです。

”黙示録3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを<吐き出そう>。

この教会はラオデキヤの教会であり、この教会の実態は、かつての日、カナンの地から
吐き出され、アッシリヤやバビロンに捕囚された神の民と同じものであることがわかります。
かつての日、約束の地から吐き出された人々は、神の約束、御国に入らない人々の型ですが、
ラオデキヤ教会こそ、まさしく、吐き出された、すなわち、約束の御国に入らない人々の
教会であることがわかるのです。

”29 これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。
30 あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」”
 

このカナンの地の風習に巻き込まれ、「これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうとそれを行なう者は、その民の間から断たれる」ことが書かれています。
これは、終末の日の我々、世の中が乱れ、カナンの地の様にあらゆる汚れに巻き込まれた
時代の我々に対して書かれたものであることを理解すべきです。

世の中がいかに乱れ、この世が不道徳になろうとも、「これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者」は、民から断たれる、すなわち、もうクリスチャンであると神からみなされなくなるのです。

そう惑わされてはいけないのです。同性愛、不品行を行うものは、
「誰であっても」牧師であっても神父であっても誰でも神の前から、
もう神の子、クリスチャンとみなされなくなるのです。
結果として、神の民に約束された天国へも、神からの祝福をも受けられなくなるのです。
そう神は語られているのです。

まとめますが、かつての日、不品行と反逆の民、カナンのまん中に住んでいた、旧約の神の民は、
不品行と神への反逆に歩む世の人のまん中に住む、新約の民、我々クリスチャンの型です。

そして、かつて神の民がまわりの民の風習を受け入れ、それに染まるとき、神が彼らから
離れていった様に今の新約の民がこの世のことがらを大いに受け入れているゆえに、
神は我々から離れつつあり、また私達は神の民とみなされつつあることを覚えましょう。

かつて、レビ記に書かれた警告と戒めは今、新約の神の民への警告として働き、
みことばに従わない者は外されつつあることを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
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