NO.491 世を用いすぎない

 

 

”テキスト:1コリント7:26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
27 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。
28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。
29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。
30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
32 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
34 心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。”

本日は「 世を用いすぎない」との題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。”

このテキストの箇所には、結婚していない人は結婚しないほうがよいとまで
書かれています。

結婚相手を見つけるのに力が入ったり、ラブソングまがいのミュージックがヒットしている
現状にとっては、このことばは、寝耳に水かもしれませんが、しかし、とりあえず、聖書の
語る言葉を見ていきたいと思います。

気をつけるべきことはこの箇所は、結婚は是か非かを論じているわけではないということです。
というより、ここでパウロが極端なことをいっているのは、「現在の危急のときには」すなわち、
終末の日の特殊状況においてはどうするか、こうした方がよいという「お勧め」です。
パウロは結婚に関して決して何も強制はしていません、しかし、こうした方がよいという推薦をしているのです。

「現在の危急のとき」とパウロがいわざるを得なかったさしせまった時がかつての日、教会時代の始めにありました。「アルフアでありオメガ」「始めであり終わり」と書かれているように、
始めに起きたことは、また教会時代の終わりに再現すると思われます。そして、
もうそろそろ、「現在の危急のとき」といわれたさしせまった時が迫りつつあるのかもしれません。
このパウロのことばをもう一度再考すべき時が来ているのかもしれないのです。

危急とのことばは、以下の「苦難」と同じことばです。
 

ルカ21:23「その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな<苦難>が臨み、この民に御怒りが臨むからです。」

これは、明らかに終末の日の苦難、艱難の日についての記述です。

ですから、ここでパウロがいっている時とは、
実は終末の艱難時代の特殊な状況の時について書かれている可能性があります。
これらの記述、男も女も結婚しないほうがいい、また妻を持つものは持たないようにとの
パウロのことばは、普通の日、一般的なクリスチャン生活全般に対してととると無理があるかもしれません。しかし、終末の日、艱難の日の特殊状況に関する警告と考えるなら、
それには、耳を傾けるべきことがらがあります。

男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。」

そのままの状態とは要するに何も新しいことを始めないということです。

たとえば新しく、結婚などをすると、いろいろと手間も時間もエネルギーもかかります。
結婚式場をさがす、出席者をきめる、そのための費用をかせぐこと、
そして新しくできた奥さんの親族とのつきあいを始めること等、数限り無くあります。
それらのことがらは、その人の関心をそらし、エネルギーを費やすことになります。
それを避けるため、パウロは、「男はそのままの状態にとどまるのがよい」と
語っているのです。

「結婚式をあげるなというのか?とんでもない!」という意見もあるかもしれませんが、
しかし、とりあえずは、パウロがどういっているのか、聖書はその危急の時に関してどう語っているのかに耳をかたむけてみましょう。
 

”27 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。
28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。"
 

ここで書かれているのは、結婚が是か非かという問題ではありません。
そうではなく、ポイントは、結婚をしたために、「その身に苦難を招く」様にならないようにという
危惧です。ここで使われている「苦難」ということばは、実は黙示録で大艱難に関して使われていることばと同じです。以下のことばです。

”黙示録2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな<患難>の中に投げ込もう。”

ですから、ここでいわれていることがらは、実は終末の日の大艱難に入るか入らないかという
大きな問題について語られている可能性があります。

その身に苦難を招くでしょう」

その<身>と訳されていることばは、他では「肉」とも訳されることばです。
ですからここでは、他でもない、肉とか霊に関して語られているのです。そう理解するなら、
ここで語られているのは、「肉」に関する問題であり、肉的になることにより、
苦難に入るということがらの問題なのです。

終末の日に、苦難、艱難に入るまた終末の日の誘惑に惑わされていくということと
我々が肉的であるかどうかは大いに関係があるのです。

”29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。”

妻のある者は妻のないようするようにと勧められています。妻があるのに、妻のない者のようにするとは、具体的にどうすればよいのでしょう?

それは、要するに奥さんをもっても独身時代と同じ様に主に仕えていくということでしょうか。
そんなことをいえば、女性や奥様がたに総スカンを食いそうですが、しかし、聖書が語っていることなので、とりあえずはその意味合いを考えてみなければなりません。

これは、結婚をするとわかることなのですが、奥さんをもらうということのもう一つの面は、独身のクリスチャンにとっては、
よくも悪くもこの世との接触が増えるようになることなのです。
しかし、それらに埋没してしまうことにはクリスチャンにとっては、みこころがないようです。

「時は縮まっています。」と書かれていますが、このことのいわんとしていることは、
もう時間は限られ、終末の最後の試みの日に我々は間もなく入っていく、そんな意味合いでしょうか。
特別な時、尋常でない時に入るので、いつもどおりゆっくり、どっぷり世にひたっている場合ではない、
そんな意味合いかと思います。

普通の時と、特別な時とは、区別されるべきです。危急の時、艱難の時と繰り返し、パウロがいっているこの特別な時に関しては、普通のクリスチャン生活における心構えとは、区別されるべきなのです。

ある中学生の男の子がテレビを見ていました。テレビでは、当時の人気のテレビ番組を流していました。
それは、氷点という番組です。その日、物語は、クライマックスを迎えており、可憐なヒロイン、
陽子が、自分の出生の秘密を知るというドラマテイックな展開になってきました。
ハラハラドキドキ、宿題があってもほっぽりなげて、家の手伝いもしないで、この時間だけは、
テレビを見ていたい、そんな状況です。

しかし、突然特別なことが起きました。何と彼の住んでいる家が火事になってしまったのです。
一階から煙があがっています。「これは大変」それで、家族全員テレビはほっておいて、
水をかけて消火を始めました。

特殊な時とは、たとえていうなら、この様な状況でしょうか。
普通の時とは異なり、一般論が通用しないのです。
この場合でいうなら、テレビより、食事より何より、火事を消し止めることが大事です。
そうしないなら、家族全員焼出され、家も家具もお金もそれどころか、命さえ危ないからです。

「テレビくらい見てもいいではないか」という一般論的意見もあるかもしれませんが、それも
時と場合によるのです。火事の時には、テレビを見つづけるべきではありません。
その理由はいわずもがな、肝心の命の危険があるからです。

その様な特殊な状況では、一般論は通用しないのです。
そして同じ意味合いで、パウロは、この箇所で、特別な危急の時、困難、艱難の
時について語っているのです。それで我々もそのように読み取るべきなのです。

結婚したら妻を大事にする、妻のために時間もエネルギーも使う、それは一般論としては正しいのですが、
しかし、危急の時には、また話が変わってきます。たとえ、妻がいてもいなくても
祈りに専心しなければならない、家庭のことや、奥様のことばかりに時間を使えなくなる、
その様な時がありえるのです。
 

”30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。”

「泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように」とはどういう意味合いなのでしょう?
要するに、あまり、この世のことがらに感情移入するな、一喜一憂するなということでしょうか。

「買う者は所有しない者のようにしていなさい。」

私達はこの世において、必要に迫られて、世の物品を買いますが、しかし、そうだとしても
それにとらわれず、所有しないものの様にすべきなのでしょう。

たとえば、ある人はテレビを持っていますが、それを所有しないものの様にしています。
具体的には、テレビなど見ないということです。厳しい見方をするなら、
テレビはこの世のあらゆる不品行、悪い習慣、悪い情報、洗脳ニュースを持ち込むものであり、
私達は必要に応じてそれを買うかもしれませんが、それをいつも毎日見なければならない義務はありません。
また子供に見せなければならない義務があるわけでもありません。

日本では、もう何年かすると双方向通信の
デジタルテレビしか放映されなくなるとのことですが、この事実は、テレビという
不思議な製品の隠れた目的をあからさまに示すものです。
双方向とは要するにカメラが内蔵されたテレビ受像機を通して、各家庭の居間の話し声やら、家庭の状態を盗聴、盗撮し、そのデータを
送ることができるということです。

パソコンはその様な機械、双方向通信の機械であり、誰でも知っているように、
パソコン内のデータ、メール記録は世界のどこからでも盗聴、データ取得可能です。
要するにパソコン、携帯電話等は、盗聴、盗撮機なのであり、もとからその様に意図されて
製造されており、その様な目的で造られたものなのです。
電話やfaxも同じ意図があり、これらは、盗聴しやすく造られています。

ちょっと話がずれましたが、私達はテレビ、映画、マイカー等を必要に応じて買うかもしれませんが、
しかし、危急の時代においては、それらを所有しないものの様にすなわち、それらに振り回されないことを
語られていることを覚えましょう。


31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。”

ここでは、「世の富を用いる者」として世の中のお金に関してのみ語っているようですが、
KJVでは、富ということばなど入っていません。「世を用いる者は用いすぎないように」と訳されています。世を用いることに関して、警告されていることをとらえましょう。

私達は世のものを全く用いるなと語られているわけでは、ありません。
我々クリスチャンであっても必要最低限は世のものを用いるのです。しかし、
そこには、限界や節度があり、用いすぎないように、語られていることをしるべきです。

多くのクリスチャンの問題は、この世を大いに用い、その結果、本末転倒し、
ミイラとりがミイラになってしまうことです。

私達はこの世の仕事をして食べる糧を稼ぎますが、それのみに時間もエネルギーも全て使い果たされ、
礼拝にも出られなくなるようなら、それは「世を用い過ぎて」います。

クリスチャンであっても情報通になり、この世のファッションや トレンドやベストセラー本、はやりの映画、ヒット曲はもれなくチェックすべしなどという人もいるかもしれませんが、しかし、それは
どうなんでしょう。少し否、大部違うように思えます。
 

”32 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
34 心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。”

ここでは、主に喜ばれるため、主のために心を配ること、そして、
それをとどめることがらとして、妻や夫のため、世のことに心を配ることが書かれています。
そしてパウロの結論、思いは、主のために心を配るほうが、好ましいということです。

夫をかえりみるなというのか、妻をかえりみるなというのかなどと反論せずにこのことは
聖書に書かれているので、少しは私達も考えてみたいのです。

このことが終末に関連して記されていることを覚えておいてください。
私達が、主のことに心を配るかどうかそれともこの世の心づかいで流されてしまうかということと、それと終末の日、私達がずれてしまうこととは、関係があるのです。
ルカ書には以下の様に、この世の煩いと、その日、終末の日がわなの様にのぞむこととは
関係があることを書いてあります。
 

”ルカ21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や<この世の煩い>のために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。”

この世の煩いにふける人にとって、その日がわなになるとは、具体的に
どの様になるのかはこれらの記事ではわかりません。

しかし、詳しいことはわからないとしても明らかに聖書は終末の日、この世に深くかかずりあわないこと、
そのことに徹底しないとその人にとって、その日がわなの様に来ることを語っています。
このことを心にとめていきましょう。

テレビ、映画、この世の雑誌、本、会合、仕事、この世の交わり、etc...
これらの全てのこの世のことがらに関して、「世を用い過ぎない」ことを学びましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d6271163017a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream