NO.490 雲に乗って来られる方


テキスト:
”出エジプト19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。
2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。
3 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。
9 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。
10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。”
 

本日は「雲に乗って来られる方」という題でメッセージしたいと思います。
主イエスが再臨するということは、キリスト教の中心教理です。
それでこのこと、再臨に関しては誰でも知っているわけですが、問題は、
主が何をしに戻ってこられるのかということです。

私は何をいいたいのか?説明します。
「今日の3時に人が来るよ」と母親がいったとして、その人がどの様な人なのかどうかにより、
我々が取るべき対応が異なります。

その人が息子のお見合いの相手なら、すこし家をきれいにして、
嫌われない様に気をつける必要があります。

しかしそれが要りもしない、高額商品のセールスマンなら、
下手なすきを見せない様に、口車に乗らない様、心の準備が必要です。

来る人により、またその訪問の目的によりそれを迎える我我の対応も異なるのです。
主の再臨があることは重々わかるとして、その再臨についてもう少し詳しい記述、説明が
聖書にはないのでしょうか?
 

私はあると思います。主の再臨に関してはことさらの様に、「雲に乗って来る」
ことが描かれています。それで、私的解釈(その部分のみからの解釈)をせず、雲にかんする
記述に注目していくなら、主の再臨の予表と思われる記事があります。
上記テキスト箇所がそうです。

この箇所をテキストに沿って見ていきたいと思います。

”1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。
2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。”

エジプトを出たイスラエルの民はこの地で、山に来臨する方、神なる方に見えることができました。
エジプトの民はこの世についたクリスチャンの
型と思われます。彼らは神にまみえることができませんでした。
再度はっきりいいますが、今日クリスチャンといわれる全ての人が再臨の主に見えるとは
限らないと思われます。
逆に多くの人がエジプトの惑わしに入っていくでしょう。
テレビを通し、映画を通し、この世の本を通し、多くの惑わしが入ります。
主に堅くつく人々はそれらを拒絶し、惑わしから逃れます。
 
 

”3 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。”

「わしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た」と書かれています。
わしは鳥の一種ですから、鳩の様に聖霊のたとえでしょうか。
その日、多くの惑わし教理、惑わしの教師から免れ、正しい道を見い出す人の特徴は、鷲の翼に乗せられた人、すなわち、聖霊の導きによるのだということを知りましょう。

”5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」”

「わたしの宝となる」とありますが、主が再臨するその目的の一つは宝を集めるためであることを知りましょう。それは、あのたとえ、「宝が畑にあるのを見つけた人が、喜びいさんで、自分の持ち物を売り払って畑を買い取った」話を思い出させます。私の理解ではこの人こそ、神なる主イエスのことであり、
宝なる人々を得るために、自分の位も命も、捨てて、買い取り、あがなった方のことです。

「まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」

「キリストの声に聞き従う」人はまた再臨の時、主に見える人です。ベニーヒンの様な、
まがいもののキリストを既につかみ、その教えへの聞き従いに狂奔している人ははっきりいって危ないです。

”7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。”

この日民はモーセを通して語られた主のことば、命じられたことばに関して、
「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と答えました。
それで、神が来られること、すなわち、再臨と我々が主がいわれたことばを行うかどうかは
大いに関係があることがわかります。

主の再臨が近い将来あるとして、我々がその再臨を迎えるためにすべき、もっとも大事な用意とは何でしょうか?それは主のいわれたことばを行うこと、すなわち、聖書の教えを守る、
そのことであることを知りましょう。

先生が教室の皆に自習をさせ、「この問題を解いておきなさい。あと、一時間したら、
もう一度、私は教室に戻ってきます」といったとして、
生徒にとって、大事なのは、問題を解いておくこと、宿題をしておくことです。
宿題をしないで、さぼっている生徒は先生が戻ってきても決してほめられないでしょう。
というより、逆に「教師のことばを守らない」として、怒られたり、悪い成績をつけられたりします。
キリストの再臨に関しても同じです。その日、キリストのことばを守り、行っている
人々は、賞賛され、栄誉を受けます。逆にみことばをないがしろにしたり、
またQ資料だの、わけのわからない不信仰な神学などをふりかざし、何一つみことばを行わない人々はさばきに入るでしょう。

”9 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。”

この日、神はモーセに会いました。それは、何故か?
「わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」と書かれています。
ですから、モーセという人物が特別な人物、神から遣わされた特別な人物であり、
彼、モーセが民に与えた律法は実は神御自身が与えたものであることを民が
信じるためにそうしたのだと神はいわれます。

この様にして、モーセは神と「濃い雲の中」で神に会いました。
さて、似た様な記述が新約聖書にあることを思い出しましょう。以下の変貌山のことです。

”マタイ17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。”
 

ここでもモーセが雲の中に現れています。

そしてここでも律法にきくことについて語られています。
ただし、ここでは、書かれた律法というより、「彼のいうことを聞きなさい」というように、
イエスの律法、すなわち私達の心の板に書かれた律法について語っているようです。

それでこのことがわかります。
かつて旧約の時代、神が山に降りてこられたことと、神の教えを守ることとが関係があったように、同じく、神なるキリストが降りてこられる、再臨の時と主の律法を守ることとは関係がある、
そのことです。主は神のことばを守る人々に賞賛と誉れを与えようと来られます。しかし、
逆にそれを破る人には、裁きの時となるのでしょう。


10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。”
 

神はモーセに対して、「きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。」と命じました。
何故なら、3日目に、神御自身が民の前に降りてこられるからです。
神が民の前に降りてこられる、さあこれこそ、キリストの再臨の別の表現
であることを知りましょう。

この旧約の日、民にとって、神御自身が自分達の前に降りてこられるということは、
大変な恐るべきことでした。そしてキリストの再臨とは実はこのこと、神
が降りて来られると言うことなのです。

再臨とは、実は神であられる方がその民である
クリスチャンの目の前に降りて来られると言う恐るべき経験なのだということを重ね重ね
理解すべきです。そう、このことに対して、恐れをもって待ち望み、用意をすべきなのです。

キリストの再臨があるといっても特別なことをすべきでない、いうべきでない、特別な備えなどいらない、いつも通り過ごすべきだ、という人もあるかもしれません。私はそうは思いません。

何故なら、この箇所は、明らかに備えについて語り、
聖別し、着物を洗うことについて語っています。何もするなとは書いてありません。

私達は再臨に備えて、聖別すなわち、この世のこと、また汚れたことから分離されるべきです。それは、他でもない、
聖の聖、潔きの中の潔きである方に我々はこれから会おうとしているからです。

また着物をあらい、この世の汚れ、あらゆる汚れた霊の影響から分離されるべきです。

”11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。”

「三日目のために用意をせよ」と書かれています。3日目が特別な日であり、その
日に他でもない主御自身が民の前に降りてくることが書かれているのです。

3日目は、キリストの時代から、3日目、すなわち、3つ目のミレニアムに通じます。
それは、西暦2001年以降の私達の今の時代のことでもあります。
ですから、主がこのミレニアムに再度来られる、降りてこられる、すなわち、再臨すると
理解できると思えます。

キリストの再臨の時に関して語るとすぐ、カルトだとか異端だとか、
言い始める人がいますが、しかし、ここでは、明らかにかつて旧約の時代、主なる神は
自分が民の前に降りてくることを語っています。それは、
明白に3日目であると書かれています。

このことは、再び民の前に降りてこられる主、すなわち、再臨の時に
関して語っていると理解することは決して逸脱でも行き過ぎでもありません。

民全体の目の前で、..降りて来られるからである。」

この時、主なる神が降りてこられることは、一部の民ではなく、民全体の目の前であることが書かれています。ですから、このことから理解できることは、主の再臨も単に一部の民しかわからない、
一部の民の目の前で起きるということではないことです。
そうではなく、「民全体の目の前で」それは起きるのです。

黙示録にも主の再臨を全ての人が見ることが描かれています。

「黙示録1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。<すべての目>、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」

ここには全ての目、すなわち、全世界の人々また、全てのクリスチャンがそれを見ることが書かれています。

ですから、再臨に関して、自分だけはそれに遭遇しないとか、自分のいない時に起きたらどうしょうとか、いらない心配をする必要はないのです。

その時代に生きる全ての人がそれに遭遇し、キリストに会います。
しかし、当然ながら、裁かれ、罰を受ける人と反対に誉れを受ける人とがいます。
キリストの再臨を見ることと裁かれることとは別です。

たとえば、全ての生徒は卒業試験を受け、試験に遭遇します。しかし、
全ての人がそれを合格するわけではなく、ある人々は、失敗し、落第点を取り、卒業できません。
他の人は合格します。区分があるのです。

同じ意味合いで、全ての人はキリストの再臨に会いますが、しかし、その結果は同じではありません。厳しい裁きに会う人と、そうでなく誉れと栄光を受ける人とがいます。

上記、「彼(キリスト)をつきさした者たち」もキリストの再臨を見ます。しかし、
当然ながら、キリストを刺し通した者は受けるべき罰をその日受けることになります。
 

「シナイ山に降りて来られるからである。」

この日、神なる主はシナイ山に降りて来られました。
このことの意味合いは何でしょう。

シナイ山はモーセが律法を与えられた場所として有名です。
そしてまさにその場所に主なる神は降りて民にまみえたのです。
このことは、象徴的であり、かつ暗示的です。

キリストの再臨もまた、ある意味、律法すなわち神のことばと関係があります。何故なら、
上記黙示録1:9の「彼をつきさした者たち」ということばもみことばと関係があるからです。たとえをとくなら、突き刺すとは、剣や槍と関係のあることばであり、また剣は「御霊の剣、すなわち神のことば」と書いてあるように、みことばと関係するからです。具体的には、「彼をつきさした者たち」とは、
「ことばは神である」といわれた方、その方のことばを冒涜し、反対し、攻撃し、ことばを守らない人々、
と理解できます。その様な人々が裁かれる日、それが主の再臨の日なのです。

まとめますが、キリストの再臨の一面は、かつて旧約の神御自身が民の前に降りてきた、恐るべき日の
再来であり、私達が身をただすべき日であることを知りましょう。
その日は近付いています。

恐れをもってこの時代を迎え、かつて、パウロが警告したように、「世を用いる者は、用い過ぎないように」気をつけましょう。全ての人が裁かれる日が近付いています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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