NO.489 教えの風


テキスト:
”エペソ4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく”

本日は、「教えの風」という題でメッセージしたいと思います。
かつてパウロは、エペソへあてた手紙の中で、「教えの風に吹き回される」ことについて
述べました。このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。
 

テキストに沿って見ます。

私たちがもはや、子どもではなくて」

パウロは教えの風に吹き回されたり、引きずられたり、影響されたりということと関連して、
「子供ではない」ことを述べました。
いわんとすることは明らかに「教えの風」に吹き回され、影響され、はしゃぎまわり、
吹聴して、信仰の先祖から代々、継承してきた良いものを投げ捨てる人々は、
愚かな子供であり、思慮がなく、軽薄な子供であると述べているのです。

子供ということを考えてみましょう。それは、純粋であり、邪心がないかもしれないが、
しかし、未熟であり、思慮がなく、人生経験も、警戒心もなく、短慮でだまされやすい、
すぐその気にさせられる、宣伝に踊らされる、そんな意味合いがあると思われます。

子供は確かにだまされやすいのです。お菓子をくれるといえば、誘拐犯についていってしまうかもしれないし、またおまけがつくなんてことで、毎回、キャラメルやら、チョコレートなんかを買ってしまうのです。

さて、ここでいっているのは、本当の子供、体も小さく、年端もいかない子供のことをいっているわけではないようです。逆に体は大人でも精神年令が「こども」、思慮も、警戒心も、それから聖書知識も
あまりないような「こども」クリスチャンについて語っているように思われます。

教えの風は、この国のキリスト教会のこれらの「こども」相手に吹き荒れています。
そして、すっかり風に吹かれてあちこちへ吹き飛ばされ、影響を受け、他人まで、
巻き込もうとする思慮のない「こども」はこの国にあふれています。

セルチヤーチ運動、アルフアコース、スモールグループ運動なんてのは少し前から、キリスト教会にブームを巻き起こし、
この運動の「教えの風」はこの国のキリスト教会に吹き荒れました。
ちいさなグループを教会の中に作る運動のことです。学びがあり、交わりがあり、
良い方法だということです。
しかし、こどもにならず、「教えの風」には裏があり、隠れた意図があることを
知るべきです。

大人の考えを示しましょう。欧米のクリスチャン警告者たちは、このムーブメントに
関して警告を発しています。
この運動の主旨、目的は、教会内教会を作ること、すなわち教会の中に小さな教会(グループ)を
作り、その教会のクリスチャンの心をマインドコントロール、洗脳することだと彼らは述べています。
確かにその警告には一理も二理もあります。アルフアコースはトロント、ペンサコーラのインチキリバイバルにつらなるものであり、セルチャーチテキストの著者には、和製シオニストみたいな人々が
名前を列ねています。
すなわち、偽ユダヤが裏におり、彼らの意図にそった、洗脳を実現するためにこれらのムーブメントは
作られ、実践されていることがわかります。そう、この教えの風には、隠れた邪悪な意図があるのです。
無知なこどものようにすぐ飛びつき、彼らのお先棒をかつぐ愚かものになってはいけません。
 

「人の悪巧みや」

教えの風と関連して、「人の悪巧み」に関して、パウロは述べました。
何故、パウロがこの時、2000年も前にこう書いたのかは不明ですが、しかし、このことばは、
まるで預言のように、この終末の時代の「教えの風」の現状を示す有益な警告のことばとなっています。
それで、私達は無知蒙昧、何の役にも立たない、盲人キリスト教新聞や雑誌、はたまた
盲人教師、牧師達のたわごとに耳を傾け、「教えの風」に吹き回されるより、この聖書の
警告に耳を傾けたいと思うのです。

悪巧みということを考えてみましょう。これは、「悪い意図をもって、意識的に人をだます」こととでも理解できるでしょうか。

震度5で倒れるマンションを「安いですよ」なんて売り付けるのはこの類い、悪巧みの類いでしょう。
売って自分がもうかれば、住んだ人が地震で死んでも知ったことではないというのは、
確かに意図的に人をだます、悪巧みといえるかもしれません。

さて、パウロは、教えの風と関連してこの「悪巧み」ということばを使いました。
いわんとしていることは、しらぬがほとけ、見たところそう見えないが、巧妙に
人をだますべく意図された「悪巧み」の教えがキリスト教会に起きてくるぞ、
そう彼は、また聖書を書かれた神は警告しているように思えます。

この警告に従い、今の時代に教会にかけてしかけられている全てのムーブメントを
見直すべきではないでしょうか?
 

ヤベツの祈りに関しては、「魔術的な祈りの手法」すなわち、何度も同じことばを
繰り返して神に祈りを強制する手法を持ち込んでいると指摘する欧米のクリスチャンがいます。
聖書に出てくるヤベツが魔術的だといっているのではなく、ヤベツの名前を用いて、
キリスト教会に広げられているムーブメントには、魔術的な手法が見えるといっているのです。

また教会と音楽、賛美はきり離せませんが、この領域にも怪しいムーブメントは
起きており、教会の音楽、賛美には、ロック的ミュージックが用いられています。
ロックは、多くの人が指摘しているように、悪魔的なルーツを持っており、
この世のロックスター連中はおしなべて、ろくなものではありません。麻薬、姦淫、暴力、悪魔礼拝などが
ロックスター、ロックミュージック、ロックコンサートとはつきものです。
その汚れた音楽、ロックミュージックを教会に持ち込むことには、
ろくでもないムーブメント、また教えの風ではないでしょうか?
この国のキリスト教、ミュージック界、賛美の世界には、
このことを警告する人はたった一人もいないのでしょうか?

「人を欺く悪賢い策略」

教えの風と関連して、パウロは、「人を欺く悪賢い策略」とまで述べています。
だから、教えの風には、その裏には純真な意図というより、「人を欺く悪賢い策略」があり得る、
巧妙な戦略がありえると聖書は警告しているのです。ですから、
私達はキリスト教会に次から次へと襲ってくるあらゆるムーブメント、あらゆる
教えを吟味もなく、受け入れ宣伝するのではなく、それを吟味し、その裏をさぐり、
よくよく観察すべきなのです。

母親が子供に注意を与えます。
「知らない人、始めて会う人に気を許して、お菓子をもらったり、後について行ってはいけません。」
この様に警告する親の声に耳を傾け、やさしそうなおじさんが来ても、うかつに
ついていかない子供は親の警告を気にとめる、賢い、子供です。
彼はあらゆる、誘拐犯、子供をねらう犯罪から守られるでしょう。
一方同じことばを母親から聞いてもそれを意にとめず、いそいそと
誘われるままに知らないおじさんの車に乗る様な子供はろくな目に会わないでしょう。
犯罪に巻き込まれ、誘拐犯に連れ去られることも十分あり得るのです。

さて、ひるがえって、子供ならぬ今の日本のキリスト教会を見てみましょう。
教えの風と関連して、「人を欺く悪賢い策略」とまで、聖書は警告しているのですが、
しかし、どこにこの母親の声、聖書の警告の声に耳を傾け、今キリスト教会に起きている
多くのムーブメントを吟味する子供、クリスチャンがいるでしょうか。

たとえば、マザーテレサの映画は、キリスト教出版社、キリスト教書店を通して、宣伝されていきます。
しかし、マザーテレサの信仰には問題があります。キリスト教もオッケー、ヒンズー教もオッケー、
ヒンズー教徒は、死ぬまぎわでもクリスチャンになる必要はない、要するに「天下にこの名によるしか
救いはない」といわれたキリストの救いに反旗を翻すような教え、ユニバーサリズムを彼女は進じているのです。これはまさに聖書がいう異端そのものの教えなのです。
ですから、マザーテレサの映画には、「人を欺く悪賢い策略」が存在すると理解でき、その策略の目的は、
キリスト教会の中に、彼女の間違った教えを浸透させること、カソリックの誤りに
プロテスタントを巻き込むことです。
 

しかし、悲しいかなこの教え、この様な人物を表立って批判する勇気のある人々は、
今の日本のキリスト教会にはほとんど皆無です。

またレフトビハインドの裏にも「「人を欺く悪賢い策略」があり、この空想物語が流布されている
その理由は、偽りの終末話で多くのクリスチャンを惑わし、あの中東の殺りく民族が、
神の約束の民であるなどとの、うそ話を流布させるためなのです。
しかし、この件も残念ながら、この「人を欺く悪賢い策略」を暴露する人々はあまり見当たりません。
 
 
 
 
 
 
 

「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」

これらの怪しい「教えの風」に吹き回されたり、波にもてあそばれないことを
聖書は勧めており、そうならないように警告していることをかさねがさね覚えましょう。
そして、まさに今は、あらゆる種類の教えの風が次から次へと現れている時代でもあるのです。
これらの全てを吟味し、悪巧みをみぬくことにみこころがあります。

聖書はこの様に前もって、教えの風による害を警告しています。
しかし、そうであってもなお、多くの人が教えの風に吹き回されること、惑わしの中で
クリスチャンの御霊の実や徳を失っていくことをも預言しています。
以下の通りです。

”黙示録6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。”

黙示録の日、すなわち終末の日に、いちじくが風により落とされていくこと、すなわち、御霊の実が教えの風の中で落とされていくことが預言されているのです。

このことばは残念ながら実現し、悪賢い策略すなわち、意図的な教えの中で多くの人々が御霊の実を失っていくでしょう。しかし、そうであっても、これらの不信の中にあっても私達は主につく歩みを続けていきましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー -----------------------------7d61b53a3017a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream