NO.487枯れたいちじく

”テキスト:マタイ21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」”
 
 

本日は、「枯れたいちじく」としてさらにいちじくに関することがらを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。
 

”18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。”

いちじくに関して書いてあるこの箇所で、まず、主が空腹であることが書かれています。
このことは、以前見た、いちじくに関する以下の記述と関係があるように思えます。


エレミヤ24:2 ..もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」”

主の空腹は食べられるいちじくがあれば、解決します。しかし、問題は食べられるいちじくがない、あるのは、「悪くて食べられないいちじく」だということです。

19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。”

主はいちじくで空腹を満たすべく近付きました。しかし、意に反して、いちじくには、実がなかったのです。実は御霊の実に通じます。
結果、主の空腹は満たされませんでした。同じく今の時代に関しても主の空腹があることを知りましょう。

この時主の空腹はいちじくの実により満たされるべきだったのにそれはかなえられませんでした。
同じく、今の時代の主の空腹も御霊の実に満たされたクリスチャンを通して、満たされるべきなのに、
しかし、その様な人が教会に見当たらない、それゆえ、主は失望しているのです。

”イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。”


約束の神の子、イエスが来られた時、その空腹を満たすことのできなかった、いちじくは
わざわいでした。この木は、主の来られる時、その時に対応できず、備えがなかったのです。

このいちじくの木はたとえであり、エレミヤ書にあるように、神の民をあらわすものです。
彼らには、御霊の実がなく、それゆえ、彼らは主の空腹を満たすことができなかったのです。
そして、主の来られたまさにその時に実がなかった、そのことのわざわいは大きく、彼らは
主により、呪われ、その木は枯れてしまったのです。

「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」とのことばは、厳粛に成就し、
このいちじくの木、旧約の神の民はその後、決して実を結ぶことなく、逆に救いと祝福は異邦人の集まり、
新約の教会へと移っていってしまったのです。

あらためていうようですが、私達は神のことばの重さ、一旦発せられたら、もう
取り消されることのない主のことばの厳粛さ、重要さを理解しなければなりません。

この実を結ばないいちじくに対して主が呪ったことばは厳粛に成就し、またいちじくに
なぞらえられる旧約の神の民の上にこの呪いの言葉は如実に成就したのです。

さて、このことばはまた2重うつしの様に再度繰り替えされ、終末の日に新約の
いちじく、神の民の上にも実現することを覚えましょう。
再び主は空腹の思いをかかえて新約の民、いちじくの木に向かい、その木に
実が結ばれているかを確かめに来ようとしています。
私達の上にもし、実がないのなら、その時、私達は旧約のいちじくと同じ様に
呪われ、この後、決して実を結ぶことのないようにと、主に呪いを宣言されてしまうこともあり得るのです。

ですから、誰も惑わされてはいけません。今のキリスト教会をおおう「良いこと」を語る偽預言者のことば、
さばきはない、決してさばかれない、誰でもオッケー、何をしてもオッケーの
トンデモ教理に惑わされ、聖書の警告を捨て去る様な愚か者になってはいけません。

くり返していいます、今主がいちじくの木である私達のもとへ、再度来られつつあり、そして実のないいちじくは呪われるでしょう。そして、主が呪いを宣言したのなら、
もう決してそれからは実を結ぶことなどできないのです。

”20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

山とは、「木が生える場所」として、教会のたとえと理解できます。
オリーブ山とはオリーブすなわち、油、聖霊に満ちた人々の集まる所として、
みこころの教会のたとえです。再臨の主の足がオリーブ山の上に立つとは、
聖霊に満たされた人々のいる教会の上に主の再臨と助けがあると語っているのであって、地理的なオリーブ山、現在のエルサレム前にあるオリーブ山とは関係ありません。

さて、ここでは、2種類の対照的なことがらが語られていることを理解すべきです。すなわち、
1. いちじくは枯れ、
2. 山は海に入る

ということです。これらは対照的です。枯れるということはすなわち、水がなくなるということであり、
いちじく、すなわち、神の民から、命の水である、聖霊の働きが消える、聖霊が追い出され、
主が退いていく、このことを語ります。
これは、テサロニケの手紙に、「引き止める者」、聖霊が追い出されると書かれていることと
一致します。

山が海に入るとは、聖霊を追い出した教会、いちじくを植えた山、教会が、代わりに
海に入る、悪霊の働きに引きづり込まれていく、このことを語るように思われます。
悲しいかな、終末の日の不信の教会は、海、悪霊の海の大海に投げ込まれていくのです。
このことは今、さかんに成就しつつあり、ベニーヒン、ビルハモンだの悪霊の器の聖会が
大にぎわいです。

さて、まとめますが、聖書は、かつての日、主イエスの日、主が訪れたその日に実を結んでいなかった
いちじくを主が呪ったこと、それゆえ、いちじくはすぐに枯れ、もう実を結ぶことはなかったことを
記しています。

何気ないことがらの様に見えますが、この記述には恐るべき意味合いが隠されていることを我々は理解すべきなのです。主の訪れた日とは、旧約のイスラエルの民の歴史の最後の日々をさし、不信に不信を重ねた
イスラエル、いちじくが最後の最後の日に、主である方から最後通告を受け、もう再生の道が閉ざされ、
最後の裁き、枯れて、決して再び実を結ばないように定められる日について語っているのです。

これは、最後のことば、最後通告であり、もう再生の道はなく、呪いと裁きしか、道は残されていないことを意味するのです。事実、旧約の民、エルサレムの民はこのイエスの時代の後、40年後、ローマにより、
最後の一人まで、滅ぼされました。

さて、これらはしかし、予表であり、終末の日のいちじく、教会の未来を暗示する、
型なのです。その日が来るでしょう。不信の上に不信を重ねた
教会を主が最後に訪れ、最後通告をする日が。

いいえ、それはもう来つつあり、多くのいちじくが枯れつつあり、また
この山、教会は海へ、すなわち、悪霊の大海に投げ込まれつつあるのです。

今、そのことは私達の目の前で起きているのですが、悲しいかな何一つ、見ることも
聞くこともない、人々が多いのです。しかし、
もし、それを見るなら、私達の目は見るゆえにまた、耳は聞くゆえに幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
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