NO.485畑の宝


”テキスト:マタイ13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。”
 

本日は畑の宝という題でメッセージをします。

マタイ13章のたとえを理解したいと願っているのです。

テキストに沿って見ます。
 

”44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。”
 

この箇所を理解するのにまず、天の御国とは何かということが問題になります。
天の御国、英語でいうKingdom of Heavenの意味合いはどの様なものなのでしょう。
天が支配する王国というニュアンスがあります。
 

世界中に数多くの国があります。アメリカ、イギリス、フランス、日本等。
これらの全ての国は、皆、地の御国、英語でいうKingdom of Earthです。
これらの全ての国は、この世に属する王や、政治家により、支配されており、
人間臭いもの、この世の利益やら、栄誉やらを追求するものに過ぎません。
しかし、聖書はこの地上にたった一つ、天におられる方が支配し、治める国があると
語ります。それは他ならぬ教会のことです。今世界には、カソリック、プロテスタント合わせて
20億人をも数えるかという広大な国、教会が存在し、それを聖書は、天の御国と呼びます。
天が支配し、統治する国という意味合いです。

しかし、残念ながら、それは名目、建て前に過ぎず、この広大な大帝国、教会の
あちらにもこちらにも腐敗や、堕落や変質があることは、私達皆がよく
知っていることでもあります。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。」

畑は何かといえば、麦が蒔かれる場所、みことばが与えられる場所として、教会を意味します。
さて、私達の理解は教会全てが尊い、全て聖である、なんていう考えであり、カソリックの様に
「教会のみが間違えない」なんてトンでもないことを言い出す異端もあるかもしれませんが、
聖書はそうは語っていません。

この箇所で畑全てが宝とはいわず、ただ、畑に宝が隠されていると書かれていることを覚えましょう。人が
興味を示し、尊く思うのは宝であり、泥まみれの畑全てが欲しいというわけではありません。
主の考えも同じであり、主は畑全てが聖であり、尊く、完璧だとはいわず、その畑の中の一部、
宝に注目されているのです。

くり返していいますが、クリスチャン全て、教会全て、すなわち神の国全てが神の前に尊いのではありません。
神は死んだとか、聖書にも誤りがあるとか、文献学によれば、創世記の記述は神話だのといっている人々、要するに神のことばは嘘、神は嘘つきだといっている人々は、いいとこ、神の国のカスもしくはゴミみたいなもので、神の前に決して尊くはありません。

人間の男だって、いくらそれが美人でも、自分を阿呆だとか、馬鹿だなんていう相手とは結婚したい、大事にしたいとは思わないものです。どんな男でも数ある女性の中の誰と結婚するかをきめる権利はあります。

同じ、
様に神にも誰を自分の宝とするかを、決め、定める権利があるのです。
我々でさえ、そうするのですから、まして神にはさらにそうする権利があるのです。

「人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」
 

この畑を買う人とは誰でしょう。買うとは、お金に関係することばであり、それは、買い取りすなわち、
あがないと関係しています。全世界規模の畑を買った人、すなわち、教会をあがなった方は我らのあがない主、
主イエス以外おられず、この人とは主をさすと思えます。

さて、ここで興味深いことは、この人は宝を手に入れるために、宝だけを買ったのではなく、畑全体を
買ったと書いてあることです。このことは、あがないの教理と符合します。

確かに全ての教会は主の血により、あがなわれており、罪許されており、このことには
何らの食い違いもないのです。
しかし、我々はそれとともにこの箇所を通して表されている主の本音、神の
真の願いということをも理解するべきなのです。
主の心は明らかに宝に向いており、畑全体というより、宝となる人々に向けられているからです。

「人はその宝を見つけると、それを隠しておいて」

ここでいわれていることは、「宝」は隠されているということです。
隠されている以上、人の目には見えず、回りの人には気付かれません。
神の宝とする人々もこの様であり、他の人にはそれと知られないことを知るべきです。

何をいっているのかというと、神が大事、宝と思う人々は隠れている、すなわち必ずしも人の前では尊重されたり、
ほめそやされたりするとは限らない、そのことをいっているのです。

主イエスの時代の宝とされた人々、ペテロ、ヨハネ等の弟子達もまさしく、隠れた宝でした、彼らは神の目には、宝でも
人の前にはとても宝とは思われていなかったのです。使徒行伝を読む限り、
彼ら12弟子達は逆にカルト集団の信者扱いです。確かに彼らは隠れていました。

大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」

この人は宝を見つけたその喜びのゆえに、持ち物を全部売り払い、
その畑を買いました。このことは実際行われたことであり、聖書はこのことを記します。

主の命を売り払い、その結果与えられた銀貨30枚、すなわちユダが主を裏切って手にした価、すなわち、
主のこの世における全財産は、
陶器士の畑を買うために、使われました。陶器士とは、旧約によれば、神御自身のことを
さし、陶器士の畑とは、神御自身の畑という意味合いでしょうか。
ですから、主が全財産を売り払って畑を買うとのことばは、確かに
成就しているのです。

大喜びで帰り、..その畑を買います。」

主は御自分の持ち物全てを売り払って畑を買ったことを自分では、どう思っておられるのでしょうか?
このことばがその答えです。聖書は、この人がこのことを大喜びでなしたことを告げます。
主はこのことを大喜びでなしたのです。

昔の少年、私が子供の頃の子供の小遣いは、安いもので、10円玉一枚が相場でした。
たった10円硬貨一枚を手に何を買おうか、駄菓子屋さんの店先で迷ったものです。
そしてお気に入りのマンガ(古本)を見つけると喜んでお金を払い、なけなしの10円玉を払って、
いさんで家に帰ったものです。
10円はなくなったけれど、マンガが手に入ったので、心はとてもうれしかったのです。
マンガに比べては恐縮ですが、主も御自身が値積もりされた値、ほんのわずかな値、
銀貨30枚程、日本円でいうと、3000円位でしょうか、その全ての価を使ってしまったけど、
しかし、主御自身は、その値をもってこの畑を買い取ったことがとてもうれしかったのだ、大喜びだったのだと、聖書は書いています....。

45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。”

さて、今度はまた別のたとえが語られています。ここでは、上記畑の宝と同じことがらが、真珠と商人として、描かれているのです。
 

このたとえも基本的には同じことを語っており、商人、すなわち、買ったり、売ったりする人とは、
買い取りすなわち、あがないをする方、私達の主であるあがない主、キリストをさします。
真珠は、上記畑の宝と同じもの、主により買い取られる宝の民をさします。
「天の御国は...です」と書かれているようにこの箇所も天により統治されている場所、
教会に関する説明です。

何故神は教会を建てられたのか、その理由は何か?
そのことに関する説明の箇所なのです。
その質問に関してこの箇所は、「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。」
と書いています。それで、ここでも神の目的、キリストの目的またその目は、
他でもない、良い真珠に向いていることがわかるのです。

良い真珠という以上、良くない真珠もあるのかもしれません。しかし、主の目は良い真珠に向いており、
それを得るために彼は労したのだと語っているのです。
 

”46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。”

さて、彼、商人の喜びは「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた」ことです。
同じ様に主の目的もその一つのすばらしい神の民を見つけることです。
ある意味、全聖書はこの宝の民のために書かれています。

「行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」

ここでも同じく、その商人が、「持ち物を全部売り払って」買ったことを描いています。

すばらしい値うちの真珠を手に入れることは不可能でないにせよ、代価が必要です。
その代価は彼、この商人の持ち物全てを売らないと得られないのです。彼は、惜しむでもなく、残念でもなく、大喜びで、この全財産を売り払い、その真珠を得たのです。

このことは神の座を捨ててこの地に下りまた、自分の命を捨てて、人々をあがなった、
主の行動を説明するものです。以下の様に書かれています。

”ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。”

神は何故天の国、すなわち教会をつくられたのか、その目的は?

それを論議するために、多くの神学者が、膨大な論議をかさね、分厚い書が書かれています。
いわゆる教会論には多くの教理があるのです。

しかし、それらの人の考えはともかく、神御自身の考え、主のことばに耳を傾けるなら、
いたって論議はシンプルです。

それは、その目的は宝を得ること、真珠を得ることであると
語られているのです。善し悪しは別として私達は主のことばに耳を傾けるべきと思われます。
主の心は宝の民に注がれており、真珠の民に注がれています。
私達がその宝なら、主の目は私達に注がれるようになるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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