NO.484 刈り取り


テキスト:
黙示録14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”
 

本日は、刈り取りという題でメッセージします。
テキストである黙示録から見ていきたいと思います。

”14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。”

雲に乗った人の子の様な方とは誰かといえば、明らかに主イエスのことであり、ここで書かれているのは、再臨のことです。さて、再臨に関しては
以下の様に書かれています。

黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
 
 

「手には鋭いかまを持っておられた。」

かまは収穫を刈り取るためのものであり、これは、終末の日の大収穫と関連します。
終末の日に大収穫があることを聖書はくり返し、くり返し語っています。そして、
この箇所がその大収穫なのです。

このこと終末に大収穫があることは、どこのキリスト教会においても知られたことなのですが、しかし、彼らが知らないこと、
いわないことがあります。

それは、大収穫においては、2つのことがらがあり、その2つとは、以下である、
そのことです。

1. 麦の「実」は刈り取られ、集められ、祝福され
2. それ以外のわら、また毒麦は焼かれ裁かれる

そして、裁かれるわらだの、毒麦だのは未信者というより、クリスチャン、すなわち、教会に集うが、しかし、主を裏切ったり、悪霊に惑わされる人々、彼らのことらしい、そのことです。
このことは教会でいわれません。
 
 


15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」”

ここで雲に乗った方、すなわち主イエスが、穀物の実を刈り取ることが書かれています。
前にも書きましたが、主の目的、主が教会を建てたその目的は、「実」を刈り取ることです。
すなわち全教会の全てというより、「実」の部分を刈り取るためなのです。
その日、聖霊の「実」を結ぶ人々は刈り取られるでしょう。しかし、わらだったり、毒麦だったりすると、危ないかもしれません。

そしてその刈り取りがこの時なのです。別のことばでいえば、終末の日の神の前における、
全てのクリスチャンの区分の日についてここでは書いてあるのです。
 

「かまを入れて刈り取ってください。」

このことばを別の形で表現している箇所は、以下のことばでしょうか。

1テサ4:16 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

刈り取るとは、ここでいう雲の中に引き上げられること、よくいう携挙のことです。

「地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから」

お百姓さんが、一生懸命畑を耕すのは麦が実るためです。実る麦は幸いであり、何の実もない
麦の穂は、災いです。ここでいう実り、取り入れられるクリスチャンは、刈り取られ、
天にたずさえられる祝福されたクリスチャンです。

穀物、麦はみことばと関連しており、彼らはみことばを守り、みことばの実を実らせ、聖霊の実のある人々なのでしょう。私達はこれらの人々をめざすべきです。

”16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。”

もうじき、刈り入れの時が来ます。その時がいつか詮索するということも大事ですが、それよりも
なによりも何よりも大事なことは、私達が刈り取られる、それにふさわしいものであることです。
すでにキリスト教会全体が惑わしと揺るがしの中にあり、多くのクリスチャンが刈り取られるに値しない、毒麦の道を選びつつあります。
 
 
 
 


”17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来”

別の御使いがここに登場し、彼の働きは前述の主イエスの働きとは異なります。
主イエスは刈り取られ、倉に入れられるべき麦の実を刈り取ります。しかし、、この御使いは、裁きのために、毒麦またぶどうを刈り取ります。

だから、終末の日の刈り取りの後には2種類の結末があることを知るべきです。
それは、以下の様に一つは、麦の刈り取り、またもう一つは毒麦の刈り取りです。

”マタイ13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」”

この麦のたとえに関しては以下の様に説明があります。

”マタイ13:
38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

ですから、上記黙示録の雲に乗られる方による刈り取りはまさに
この麦、毒麦のたとえを語っているのです。このことは、
世の終わりに実際に起きるのです。

同じことを、聖書はまた、魚の収穫にたとえ、良い魚、悪い魚とも書いています。以下の通りです。

”マタイ13:
47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”
 

ここでもいわんとしていること、結論は同じであり、収穫の日によりわけ、区分があるということです。
また、くり返していうようですが、これは、信者、未信者の区分ではありません。そうではなく、
クリスチャンの間の区分です。何故なら、どちらのたとえも、麦、魚というように、クリスチャンをあらわす
ことばが使われているからです。同じクリスチャンの中にも良いもの、悪いものがあることを
良い麦、悪い麦、また良い魚、悪い魚と表現しているのです。

そして、さらにはっきりいいますが、この区分はすでに行われつつあり、もう
多くの人々、クリスチャンがよりわけられつつあります。

創世記は神話、復活はないだののヨタ話を信じ、神のことばを偽りとしている人々は、
もうすでに毒麦の道をずいぶん進んでいる人々であり、悪霊マリヤやら、怪しいカソリックカリスマ運動また、第3の波系の怪しい器に入れこんでいる人々は悪い魚として分離されつつあります。
 

”18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。”

ぶどうは、「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝です」といわれた様に主を信じる
クリスチャンのたとえです。そして、ここでは、ぶどう酒を受けるすなわち、聖霊を受ける者としての
クリスチャンの面が語られています。しかし、ここでのぶどう、クリスチャンは、神の愛の対象ではなく、
「神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れ」られるもの、すなわち、神の怒りを買うクリスチャン達をさします。

彼らはどうして、神の怒りを買うのか?おそらく、まことの聖霊を悪霊と呼び、聖霊に導かれる人々を
「ベルゼブルの霊」扱いするからでしょう。そういう、彼らはおそらく今、人気の第3の波系の怪しい教義に導かれ、神の霊に対して、霊の戦いを行い、悪霊呼ばわりするのでしょう。
これらの人々は盲人であり、愚か者です。
 


20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”

馬のくつわとは、ヤコブ書によれば、馬全体、教会全体を導く者、すなわち、教師のたとえです。
ですから、「馬のくつわに届く」とは、裁きが教師、牧師にも届くということをいっているのです。
裁かれる教師、牧師とは、悪霊と聖霊の区分もつかず、第3の波系の怪しいリバイバル集会に信者を
引き連れていく人々、また魔術的なヤベツの祈り、ロバートシューラー、積極思考、パーパスドリブンチャーチなどを推賞する人々でしょうか。

結論として、主の再臨の時、すなわち、人の子が雲に乗ってやってくるその時は、
まさに、クリスチャン全てに対する区分の日、色分け、分別の日であり、
その日全てのクリスチャンは2分されることを知るべきです。
 

大事なことは、終末に関するヨタ話、再建主義者の妄想論やら、嘘つきJ.N.ダービーの
デイスペンセーション主義がどうだのとの下らない話に入れ込むことではなく、
我々自身が毒麦でないこと、神の怒りを買うぶどうではないこと、
正しいクリスチャンである、そのことです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d629f23250200 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream