NO.482 実とかま


”テキスト:マルコ4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」”
 

本日は実とかまという題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

ここでいわれているのは神の国に関する説明です。
さて、その説明を理解するその前に、まず神の国とは何なのかを理解しなければ
なりません。
神の国とは?

私の理解では、神の国を理解するには、(エリザベス)女王の国や、天皇の国を理解することが
わかりやすいかと思います。イギリスは、英語で書くと、UKすなわち、United Kingdom
です。意味は統合王国とでもいうのでしょうか。神の国は、英語では、Kingdom of God、ですから、
英語のニュアンスでは、神の国とは、神が(統治する)王国という意味合いがあります。
似たような意味合いで、イギリス、UKは女王が統治する王国、そんな意味合いがあるのでしょうか。
実際、女王が治めているのかどうかは知りませんが、そんな形式があるわけです。
日本においても、今は知らずかつては天皇が統治する国だったのです。

さて、こんな風に王国はなやかなりし頃は、中国は中国の国王が治めというように、
それぞれの国は、それぞれの王が治め、治められる王国があったわけです。
さて、聖書は、この地球上に唯一、神が王となり、神が治める国がある、もしくはあったことを
述べています。それは他でもない旧約イスラエルの国であり、聖書は明確にこの国の真の王は
神御自身だと述べています。

サムエルの時、イスラエルの民が王を求めた時、明らかにこの国の真の王は神御自身であることを
神は述べています。

ですから、旧約において神の国、すなわち、神が統治する国とはたった一国、イスラエルの国だったのです。さて、新約になり、話は変わりました。
新約の時代になり、救いは異邦人へと移ったその結果、新約の神の国とは、全世界的な教会、
のことと移っていったのです。
教会とは、聖書の理解では、王国であり、その統治者、王は人ではなく、神御自身である、
その様な理解なのです。
教会には、良い面も悪い面もあります、その結果、聖書でいう神の国には、良い面も悪い面もあらわれるようになったのです。

くりかえしますが、世界には多くの国があり、また多くの王国がありますが、
聖書はこの世界にたった一つ、神を王とする国があるとかたっています。今の
神の王国、それは教会のことです。それはもちろん、世界地図にはあらわれませんが、
しかし、現存します。そして、我々クリスチャンはその王国の民なのです。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」

主イエスのいわれた神の国に関するいくつかのことばは、現在の神の国、神が統治する国、
教会のいくつかの面を説明するものです。ここでは、種、すなわち、神のことばがまかれ、それが
成長するものとしての教会の一面を語っています。
 

”27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。”
 

神のことばの不思議さは、それが、働き、広がり、教会を成長、発展させることです。
それらの一部に我々はあずかるかもしれませんが、しかし、これは、基本的に神のわざであり、
人のわざではありません。「どのようにしてか、人は知りません。」と書かれている通りです。
 

”28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。”

「地は人手によらず実をならせるもの」とのことですが、神の教会の働き、クリスチャンの成長、
恵み、これらは、基本的に、人手によるものではない、神のわざであることを我々は知らなければならないでしょう。何か、この世の方法や、借り物が教会でも有用だと思っているなら、それは
勘違いなのでしょう。
さて、植物たとえば、麦には葉や、茎や、実とかいくつもの部分がありますが、
しかし、その全ての部分ではなく、実に関してのみ、聖書は、「地は人手によらず実をならせるもの」
と語っていることを知りましょう。逆に、同じ麦、すなわち、種、みことばから成長した
クリスチャンの中でも「実」でない部分、茎やわらとかの部分は人手による部分、
人間の教えの影響があるかもしれません。
しかし、聖書は明らかに麦全体の中で、「実」に大きなポイントがあることを語り、
そしてそれは、人手によってはできないのです。すなわち、神のみにより
成長させられた麦の部分、クリスチャングループ、そこに大きなみこころがあるのです。

”29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」”
 

実が熟するとかまが入れられることが書かれています。
明らかにこれらの記述の中心ポイントは、麦全体の中で、「実」にあります。

人は何を望んで、何を期待して、種をまき、畑をたがやし、麦を世話するのでしょうか?
鑑賞用?、農作業が体にいいから?、麦の葉の緑が心を落ち着けるから?
そんな理由も少しはあるかもしれませんが、多分、第一理由ではないでしょう。
畑を耕すお百姓さんの願いは、ただ一つ、麦が成長し、その「実」を刈り、出荷することです。
麦の根を集めたり、葉を集めるのが第一目的なのではないのです。

ですから、お百姓さんの目から見るなら、同じ麦の部分とはいってもそこには、区分があり、差別があるのです。お百姓さんの目には、「実」と穂、葉、茎や根とは同じ、同等ではありません。
彼の目には、実こそ大事、実こそ目標なのです。
お百姓さんが、丹精こめ耕したのは、まさに「実」を得たいから、そのためなのです。

何をいっているのかというと、同じ種から育った麦の部分であるクリスチャンの中にも
神の目には、区分、差別があるということを語っているのです。

そしてはっきりいいますが、麦の全てが実ではないように、葉や茎もあるように、
全てのクリスチャンが「実」ではありません。
キリスト教会のある部分は人手によるもの、世的なもの、地に属するものなのです。
しかし、神はそれらを第一目的とはしていません。

上記「かまを入れる」とは、以下のことばと関連します。
 
 


黙示録14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”

ここでは、「その雲に人の子のような方が乗っておられた」と書かれています。ですから、
この箇所は明らかに終末の再臨に関する箇所であることがわかります。

これらの記述がいわんとしていること、この箇所がいわんとしていることは
こういうことです。

お百姓さんが、麦の種をまき、それを丹精こめて育てるのには
理由があり、それは「実」を得るためであるように、
主がこの2000年にわたる教会時代において、せっせと種、みことばの種をまき、それを
育て、今の様に教会が大きくなった、その裏には目的がある、そういっているのです。
そして、その目的は我々人間の考えと少し違います。

我々はいつの間にかすりこまれた平等主義、悪しき平等主義に毒され、誰でも同じ、
皆を同じ様に遇するように、そうでないと不公平だなどといいますが、それは、
あくまでも人の考えに過ぎません。
神の目的、神がこの長い教会時代に種をまき、麦を育てたその目的は一つであり、「実」を得ることであると明らかに明らかに聖書は語っているのです。

私達はものの善し悪しを神と論じたり、または他の愚かなあほたれ、神学者がしているように、傲慢にも
神に説教をたれたりせず、逆に何を神が聖書で語っているのかそれを謙虚に聞くべきです。
あほたれで、役立たずな神学者どもは、何一つ聞こうとせず、浅はかな自分の考えを述べることのみに
終始し、結果、とんでもない的外れな結論に至っています。
私はカルトバルトやら、政府転覆計画犯罪者ブルトマン、またすっかりこれらの阿呆たれ神学に傾倒している、役立たずな黄色い神学者だののことをいっているのです。

さて、本題に戻りますが、主が教会を起こしこの様に大きくしたのは、その理由は「実」を得るためであることを明らかにこの箇所は語ります。麦は色々な部分、根やら、茎やら、葉からなりますが、
これらの部分が目的ではないのです。

この視点、神の視点をよくよく我々は理解しなければなりません。
具体的にいえば、神の前に全てのクリスチャンが平等なのではなく、逆に神は「実」であるクリスチャン
に目をとめており、神の目は彼らに注がれているのです。

終末の日に刈り取りがあり、再臨がありますが、このことの第一の目的、否唯一の目的は、
神が全ての教会、クリスチャンの上に選別を行い、その中で、「実」を選び、刈り取ることなのであって、全てのクリスチャンと名がついた人々を携挙することでは、決してありません。

この様な考えは厳しいものであり、受け入れがたいものかもしれませんが、
しかし、くり返すようですが、問題は神がどういわれたのか、書かれたのかということなのです。
聖書は明らかに「実」が刈り取られることを語り、それ以外の部分は倉に納められないこと、
携挙されず、神に選ばれないことを語ります。

私達は厳かになるべきです。「実」はまた聖霊の「実」に通じるかもしれません。
人手によらず、神の手により育ち、聖霊の実を結んでいる人々は携え挙げられるのでしょうか。
何はともあれ、この箇所はあきらかにクリスチャンの中に選別が起きることを語っています。
私たちは、これからの時代、心してのぞみ、主に喜ばれるものとしての歩みを勤めましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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