NO.481ペテロはイエスを否定する

”テキスト:マルコ14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。
69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。
72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。”

本日は、「ペテロはイエスを否定する」という題でメッセージします。
かつての日、ペテロがイエスを否定した、そのことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

"
66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」"
 

ここでペテロは大祭司の女中から詰問されています。
この時はどの様な時かというと、イエスにつく者は有罪とされ、逮捕されるという時です。
かつてはそうでもなかったのですが、今は、イエスについているというだけで、
詰問され、逮捕もされるかという時となったのです。
 
 

同じ様な時代が終末の日にやってくることを聖書はくり返し、ことばを変えて預言しています。
その日は、試練の日、また選り分けの時代であり、堅く主につく者とそうでない者とが区分される時代です。


68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。”

さて、かつての日、不覚にも主を否定してしまったペテロについて今日は学んでみたいと願っているのです。
しかしそうはいっても私達は彼を非難しようとしているのではないのです。
彼の動機は純粋であり、彼の失敗は他人ごとではありません。

しかし、このこと、彼、ペテロの行った主を否定するということは、ペテロ個人のことであるとともに、さらに未来への預言的なことがらとも理解できるので、それでこのことから学びたいと願っているのです。

何をいっているのかというと、この箇所もペテロと関係する教会、あのカソリックの未来に関する預言とも理解できるので、その視点から見ていきたいと願っているのです。
ここでペテロがいう、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」とのことばは、
「知らない、いっていることがわからない」というニュアンスがあります。

主イエスをもっとも良く知る弟子であるはずのペテロが皮肉にも主を「知らない」また、
主のことば「何をいっているのかわからない」というようになる日の預言とも理解できます。

もう一つの意味合いがあるかもしれません。
女中は、「ナザレのイエス」について語ったのです。そして、
彼、ペテロはそのイエスを知らない、何をいっているのか分からないといっているのです。
イエスとう名前は個人の名前であるとともにそのことばには、
意味合いがあり、その意味は「救い」という意味です。
ですから、ここで彼ペテロはもちろん、ナザレのイエスを知らないといっているのですが、
しかし、そこには隠された意味合い、預言的な意味合いがあり、「救い」に
関して語っているとも理解できます。
 

一体何をいっているのかというと、後の日、ずっと後の日、ペテロの後継者と自称する
人々によって導かれる教会の人々が、イエスを知らない、すなわち、
救いをしらない、もっとはっきりいえば、この教会が救いと無関係になる日の預言とも
理解できるのです。

その様な考え、理屈はいいがかりだ、こじつけだとの考えもあるでしょうが、
しかし、現状は、残念ながら、このことを裏ずけるように思えます。

この教会では、行いが強調され、善行が強調されます。
救いや天国を求める人々に対してまがいもの、偽りの道が用意されているのです。
れん獄という聖書的でない教理もおおやけにいわれています。
この教会の多くの人々がはっきりいって、救いとは無縁です。

”69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。”
 

さて、悲しいかなこの箇所で、主の弟子、筆頭弟子として、自他ともに認めていたあのペテロが、のろいをかけて、その人、イエスを知らないと誓っているのです。
このことは残念で悲しいことですが、しかし、それはまた
終わりの日にペテロの名前を持つ人々により治められる教会、カソリックの
教会に起きることがらの予表と思えます。

呪いをかけるということを考えてみましょう。
実は、今、ペテロの後継者を自称するローマ法皇とは、よく呪いをかける人であることを知ってください。
ローマ法皇の呪い、アナテマ(ギリシャ語で呪いの意)という儀式がこの教会の中にあります。
その儀式を行う時、ローマ法皇は、枢機卿を引き連れ、アナテマ(呪われよ)と叫び、
持っているローソクを吹き消すとのことです。
角笛HP、カソリックの記事の中にこの記述があります。

そして何ともうすでにイエス、すなわち、救いについてローマ法皇は呪いをかけています。
彼は、「救いに行いが必要はないという者は呪われよ」と、呪いの儀式を行っているのです。
聖書は明らかに「恵みにより、信仰により救われる、行いによるのではない」ことを語っています。
ですから、このローマ法皇のことば、呪いは、明確に聖書のことばに挑戦し、
そして、救いすなわち、イエスを呪いをこめて否定しているのです。

さて、このことは残念ではあるが、ペテロの後継者を自称する人々によりリードされる教会において実現しています。そして、予想されることは、この傾向はますます増え、強くなり、この教会は、最後には、
その信者達に呪いをかけて誓わせるようになるのでしょう。

いわく、「イエスのみが唯一の救いであるという者は呪われよ」「あなたはこのこと、善行による救い
を誓うか、もし
誓わないのなら、あなたは唯一の教会から追放される」そんな日も来るのかもしれません。
これは、私の想像ですが、しかし、今のままだといかにもありそうなストーリーです。


72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。”

ここにも、「あなたは、わたしを知らないと三度言います」というように、3という数字が出てきます。
3という数字には隠された意味合いがあるとも理解できます。
その隠れた意味合いは、私の理解では、3つ目のミレニアムではないかと思われます。
すなわち、このこと、ペテロの後継者に率いられる教会が、イエスを否定し、あろうことか、
イエス、救いを受け入れる人を呪いをもって拒否する、冒涜のきわみに達するその
日は、3つ目のミレニアムのことではないかと思われます。

そして、そして我々は今そのミレニアムにいるのです。

さあ、あらゆるみことばが成就するという終末の時代に我々はもう既に入っているようです。
もし、そうなら、このこと、ペテロが主を否定する、すなわち、ペテロの後継者に率いられる
教会がイエスを否定するということも起きてくるのでしょう。

残念ではあるが、しかし、主のことばが、主のことばのみが正しいのです。
我々は時代をみわけ、教会をみわけ、この方のことばのみを頼りに歩みましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d634b6250200 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream