NO.480 水のかかった種

”テキスト:レビ11:

32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。
34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。
35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。
36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。
37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。
38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。”

本日は水のかかった種という題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。”
 

レビ記のこの箇所では、きよい、きよくないということを扱っています。
それは、第一義的には、清潔、不潔ということなのでしょうが、それとともに、神の前に
きよい、きよくないということをも暗示しているように思えます。
それで、この箇所は、神の働き人、奉仕者が、神の前にきよいと受け入れられる、
また拒否される、そのことに関連した記述と理解できます。

それらのうちのあるものが死んだとき」

聖書でいう死は罪と関係があり、ここでいうことは、もしある働き人、もしくは、
クリスチャンが、死に至った時、罪の中に入ったときをさしているとも理解できます。
 

「また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。」
 

もし、死すなわち、罪に落ちた働き人がいるなら、それがどの様な奉仕、働き、メッセージをしても、
「何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。」すなわち、
それを聞く人、読む人、賛同する人、それらは皆汚れるのです。すなわち、罪の影響を受けるのです。

”木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。

罪に落ちたらどうするのか?もうおしまいか、方法はないのか?
そんなことを聖書は語っていません。逆にそれらの器なりは、水の中に入れなければならないことを
語っています。もし、水の中にいれれば、夕方まで、汚れるがのち、きよくなると語ります。
水は明らかに聖霊をさします。
私達は罪を犯すべきではありませんが、もし罪に陥ったとしても、回復の方法があり、
それは、聖霊により、水により清められることです。
具体的にはどうするのか?要は祈りの中で聖霊に触れ、きよめられることをさすと思われます。
 

”34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。”

食べるものとは、例の2つのトピックのうちのパン、みことばに関することがらと理解できます。
それにそのような水、すなわち、死、罪と関係のある器が関係した霊を受けるなら、
それを受ける人々はみな「汚れる」、すなわち、悪い影響を受けるのです。
ですから、我々は、器を選び、吟味しなければなりません。
妻子ある男性と怪しい関係になる不倫女、キャサリンクールマンなどの集会へ連なり、怪しい霊を受けると、それを受ける人もけがれる、すなわち、罪や怪しい霊と関係を持つようになるからなのです。

「また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。」

これらの水のかかる器の中にあるものはみな汚れると書いてあります。ですから、
この様な器、罪に汚れた器から、出る霊は皆汚れた霊、人に害をもたらすものなのです。
 

”35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。

かまどに死体の一つが落ちたものはけがれることが、書かれています。
かまどは、パンを焼く場所であり、みことばと関係することがらです。
パンを焼くもの、みことばを語る人々であっても、もし、これらの汚れに関係するなら、
それは、粉々に割るべきであり、用いるべきではないのです。
これらのことを みことばの奉仕に与る人々にあてはめて考えるなら、こういえます。私達は罪を犯すべきでなく、死と関係すべきでないのです。また、もし、残念ながら、罪を犯し汚れたものとなってしまったのなら、我々は「夕まで汚れる」すなわち、ある一定期間、神の前にも人の前にも
汚れたものとなったことを知るべきなのです。

その時は、原則みことばに関わる奉仕もまた水、霊的な奉仕もすべきではありません。
「夕まで汚れる」からなのです。しかし、罪を犯したから、もう永遠に終わりというわけでなく、
我々の汚れは水により、きよめられる、すなわち、聖霊により、清められる、
義とされる、そのことをも知るべきなのです。

「それがかまどであれ、炉であれ」

かまどは、パンに関する、みことばに関するたとえ、また炉は火に関する聖霊に関するたとえです。
神の働き人は、罪や汚れから無縁であるべきです。しかし、もしこれらと関係を持ってしまったなら?
その時の答えはこれらの節に明記されているように、奉仕から外れることです。
彼は「夕まで」汚れるのです。


36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。”
 

泉、水のたまっている水ためとは、多くの聖霊の水をあふれさせる、聖会、
キリスト教大会等のことと思われます。これらは、この世のものでなく、それはきよいのです。
しかし、これらの聖会はいつでも、どんな時でも問題ないのか、いつでも吟味なく
出かけてオッケーか?いえそうでもないようです。「ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。」
すなわち、悪霊の器や罪ある器が奉仕する聖会は、汚れたもの、汚れた聖会となるからです。

「とんでもない、汚れた聖会などあるものか。教会で開くものは何でもきよいのだ」などという意見もあるかもしれませんが、それでもやはりみことばの語ることが正しいのです。
それらの死体、罪ある人が司る聖会は、罪や汚れを伝えるものとなります。


37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。”

もし私達が罪を犯してしまうなら、それゆえ、語る聖書の全ての言葉は
力を失い、意味ないものになるかというとそうでもないようです。
みことばには不思議な力があるようです。「また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。」すなわち、これらの働き人の罪にも関わらず、みことばはきよいものであることが述べられています。

”38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。
 

さて、そのみことばですが、それが汚れたものとなるときがあることをも聖書は語ります。
みことばが汚れたものになる?それは一体どんな時か。
それは、水すなわち、霊及び、死体すなわち、罪とが重なった時です。
聖書は、「種の上に水がかけら」なおかつ、「その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは」
汚れていると語ります。

ですからたとえ神のみことばが語られていてもしかし、水がかけられている、すなわち、
悪霊的な器が用いたみことばには、要注意であり、それは、たとえみtこばが用いられてもしかし、
汚れた教えなのです。第3の波の教え、紅貧等はこの類いです。

彼らは時には聖書的、教理的に、外見的に全く問題ないようなことさえ、
語ります。しかし、それで惑わされてはいけません。
聖書は、「種の上に水がかけられていて..汚れたもの」と語ります。
たとえ、表面的には、問題なさそうでも、
彼らの働きにはすでに水、すなわち、悪しき霊の働きがあり、それは、レビ記によれば、
汚れたものなのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
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