NO. 478牧者をうつ

テキスト:”マルコ14:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。”
 
 

本日は「牧舎を打つ」という題でメッセージしたいと思います。かつて主は十字架につけられる前に
弟子達がつまづくこと、そして、それはかつて旧約聖書に書かれたみことば、『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』とのことばの成就であると語られました。このことの意味あいを考えてみたいと思います。

この箇所はゼカリヤ書からの引用です。その箇所を見てみましょう。

”ゼカリヤ13:7 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。「「万軍の主の御告げ。「「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。
8 全地はこうなる。「「主の御告げ。「「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。”

順に見ます。

”7 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。「「万軍の主の御告げ。「「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。”

牧者とは誰かというなら、今でいう牧師のことです。

「目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ」とは決して祝福を
語っているのでもなく、またおだやかなことを語っているのでもありません。
逆に牧師が攻められる、攻撃されるということを語っているのです。

何故神は牧師を打つのか?
そもそも牧師とは神に仕える、神の仕事をなりわいとする人々であり、
その様な人々を何故神は打ったり、攻めたりするのか?
少し考えても納得のいかない、不可解な箇所です。

しかし、明らかに神は羊の牧者を打つ、すなわち、牧師を打つことを預言しています。
彼等が打たれるその理由は、終末の日、世の終わり、教会のあらゆることが変質し、
道を誤り、牧師達でさえ、誤りと冒涜を教会内で語る、それらの背信のゆえなのです。
そう、これは終末の日に教会の牧師が裁かれる、打たれる、攻められるそのことを預言した箇所なのです。

「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め」

牧者が攻撃されるその方法は何か?その方法として、聖書は、「剣」をあげています。
剣は「御霊の剣、すなわち神のみことば」とあるように、みことばに関することです。具体的には
みことばの教理が怪し気なものになり、それにより、牧師は影響され、結果として、
神の裁きを招く様な冒涜教理に陥るということを語っているのでしょう。
このことは今客観的にキリスト教会を見渡すなら、もうすでに起きつつあることです。

ユダヤ人の妄想教理、作り話である、デイスペンセーション主義、すなわち、
終末の時代は、ユダヤ人の時代であり、教会の時代は終わりを告げ、教会は艱難前、艱難中に天に挙げられるなどという
耳にやさしい、しかし、巧妙なデマ話をすっかり間に受け、その気になって信者に吹き込んでいる
愚か者の牧者、牧師はこの国の教会に数知れません。
親亀がこければ子亀がこけるのたとえ通り、この様な「まことしやかな嘘」をすっかり
真に受ける牧師の下にはこけた子亀ならぬ、今の時代に関して何の危機感も持たない、
空想の世界にいりびたる愚かな信者が多くなります。

彼等は世の中が悪くなっても艱難の前にはいずれ挙げられて、その艱難に自分は会うことはないのだから、大丈夫などという、愚かな根拠のない自信、安心にひたっています。
みな、親亀ならぬ惑わされた牧師のせいなのですが、しかし、彼等は剣、偽りの神学に打たれていきます。
神学校はいつの間にか、聖書に基づく真理を教える場所ならぬ、よた話の講釈士のはいかいする場所、
冒涜神学の振興会みたいなものになりかわり、そこで訓練され、洗脳された
嘘つき神学の継承者が牧師になる時代となってきています。
私はこの国の神学校にたずさわる人々を辱めるためにこの様に書いています。

”「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。”
 

牧者すなわち、牧師が偽り教理に打ち殺される時が来ています。
もうすでに文献学などとの結構な名前のもとに聖書の
信頼性をゆるがすユダヤのよた話が愚かな日本の神学校でもっともらしく語られています。
愚かなヨタ教理を受け入れるこれらの牧師は自らの信仰を崩され打ち殺されていきます。
そして、その結果、子供である、信者も倒されます。「わたしは、この手を子どもたちに向ける」と
書かれている通りです。


8 全地はこうなる。「「主の御告げ。「「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。”

ここに書かれているのは、終末の日の教会の状況です。
その2/3は断たれ、死に絶えるというのです。
死とは?私の思うに、(永遠の)命を失うことだと思われます。クリスチャンにとり、もっとも大事なことは、永遠の命を受け継ぐことですが、しかし、
その日、みことばを惑わされ結果として、死に絶え、永遠の命から外れる多くの人がいるのです。
それは全教会の2/3にも達するのでしょう。
このことはもうすでに始まっています。「聖書のことばを文字どおり信じる必要はない」などと
恐るべきことをいっているカソリックや聖公会を始め、みことばを離れ、結果としてすでに
永遠の命から外されているのではと思われる人々が多いです。
 
 

”9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。”
 

さらに残りの1/3も終末の試練に会います。
みことばを文字どおり信じ、イエスのことばに忠実な人々は、原理主義者、宗教的に不寛容な
人々などとのレッテルを張られるようになります。「銀を練るように彼らを練り、金をためす」とは試練を示すものです。かつての日、生ける神のことばに忠実であり、それゆえバビロン王のたてた偶像を拝さないため、
燃える炉に投げ込まれた3人の信仰者、シャデラク、メシャク、アベデネゴの試練が再現されるのでしょう。

これが聖書が度々語っている艱難時代のことなのです。この様に聖書は度々ことばを変え、表現を
変えて、終末の日に試練、艱難が神の民に来ることを明白にかたっているのですが、相変わらず、
終末に艱難に会わない、その前に挙げられるというヨタ話を語りつづける愚かな子牛礼拝者が多いのは
何故なのでしょうか。

これらの愚か者達は別にして、最後まで主に忠実、またそれゆえ全教会から、非難を浴びる人々に
対して、「わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。と語られていることを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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