NO.477 和解のいけにえ

”テキスト:レビ9:18 ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。
19 その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、
20 これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。
21 しかし、胸と右のももは、アロンが、モーセの命じたとおりに奉献物として主に向かって揺り動かした。
22 それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。
23 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、
24 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。”
 

本日は、和解のいけにえという題でメッセージをしたいと思います。
テキストを純に見ます。

”8 ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。”

ここで和解のいえにえがささげられています。ところでというか、旧約の人々は
何故和解のいけにえをささげなければならなかったのでしょう?
和解ということを考えてみたいと思うのです。
和解ということばは、よく訴訟や、裁判で使われることばです。

どんな風に使われるか御存じですか?

たとえば、ある人、暴力を振るう人、Aさんが、気弱なBさんを殴ったとします。
怒ったBさんは、警官にAさんを捕まえて有罪にしてくれと訴えます。
それで、警察に逮捕され、牢に入ったAさんは、後悔し、
何とか牢を出られるべく、画策します。
「あなたが今、牢に入っているのは、Bさんに訴えられているからです。
Bさんに謝罪し、和解金を払って和解しなさい」と弁護士は勧めます。
それで、Aさんは、Bさんに謝罪し、また和解金を払い、和解をします。
和解が成立すると、訴えが消滅したので、晴れてAさんは、牢から解放されます。
私の理解では、たしか、こんな意味合いではないかと記憶しています。

ですから、和解という時、その時、それ以前に争い、訴え、刑罰が、
存在することが前提なのです。

旧約の人々は誰に訴えられ、誰の怒りを買っていたのか?
その答えを考える時、そもそも旧約の和解のいけにえは誰に対して捧げられているのかを
考えることは助けになります。

そしてレビ記を読むとき、明らかにこの和解のいけにえは、神に対してささげられており、神との和解をめざしているのです。

旧約の人々そして、新約の私達もそうなのですが、は神の前に多くの罪があり、
また罪科があり、我々はいわば神との敵対状態、いつ訴えられ、また牢すなわち、
地獄の刑罰を受けてもおかしくない者達なのです。
そして、当然、訴えられ、牢に入れられるべき者ではあってもしかし、裁きを免れるため、
この方と和解したい、仲直りしたいと願っているのです。
牢に入れられてから、すなわち、地獄の裁きに入ってからでは遅いからです。

「彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり」

和解したいのはやまやまだが、
ところで、その和解をするにはどうするのか?
そのことに関連して聖書は、和解のいけにえである牛や雄羊をほふる、すなわち、殺すことを
語っています。すなわち、ある人が神と和解するそのためには、お金が必要、善行が必要というのでなく、しかし、他の生き物の命が殺されることが必要であると、聖書は語っているのです。
牛や羊はきよい動物であり、それは、きよい人、罪のないお方、主イエスキリストのたとえです。
それで、私達が神と和解するそのために、人の命、主の命が失われたことがわかるのです。

”アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。”

血が流されることが和解のいけにえのためには必要です。そして、血を流されるその
時、牛や羊の命が失われます。同じく、主が命を捨てられたので、我々の神との
和解が成立しました。

”19 その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、”

脂肪すなわち、油は聖霊のたとえであり、私達が神と和解し、また神に喜ばれる者となるためには、
聖霊の働きが必須です。
以下の様に書かれています。

ロマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
 

人の和解のためには、間に立つ仲介者が必要、とりなし手が必要ですが、ここで、御霊御自身が
いいようもない深いうめきの中でとりなしをすることが書かれています。
このとりなしのゆえに私達は神と和解することができるのです。

”20 これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。”

脂肪を胸に置くことが書かれています。胸は一般的に感情、思いをつかさどる部分です。
脂肪を胸にすなわち、聖霊の働きは私達の感情、思いに働き、そして、ふたたび悔いることのない
悔い改めに至らせるのです。
 
 
 
 

”22 それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。
23 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、
24 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。”

主の前から火が出て、いけにえを焼きつくしたことが書かれています。
すなわち、主はこれらのいけにえを喜び、受け入れたのです。
ですから、ここに書かれた和解は友好であり、神の前に受け入れられるものであり、
私達は神と和解し、再び敵対状態に入ることはなく、従って、神の敵が入る滅びの火に入ることはないのです。

まとめますが、旧約の時代、神はその民に対して和解のいけにえをささげるよう、命じました。
それは、私達誰もは、その罪と反逆のために神と敵対状態であり、そのままの状態で、
神と死後会うことになるなら、逆らい、反逆する者に用意されている、ほろびと裁きに入ることを、
その事実を前提とした教えなのです。

それで、旧約の全ての民は和解のいけにえを捧げる必要があり、ささげたものは、
神と和解をすることができ、また裁きから免れたのです。
同じく新約の私達も、この和解のいけにえ、小羊イエスの犠牲のゆえに、神と和解させられたのです。

和解なしに神の前に立ち、神の敵としての裁きに入ることはいかに恐ろしいことでしょう。
パウロはこのことを知っていたので、熱心に人々に和解することを勧めました。
私達もこのことに関して、神との和解を人々に勧めるべきなのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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