NO.474 再び雲にのってこられる


”テキスト:マルコ14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。”
 

本日は「再び雲にのってこられる」という題でメッセージします。
主の再臨の意味あいをもう少し見ていきたいと思うのです。

主の再臨とはそもそもどういう意味あいがあるのか、何故、主はこられるのか、
それを考えるとき知らなければならない、理解しなければ
ならないこと、それは主の再臨のもう一面は裁き、主のみことばを曲げるクリスチャンへの
裁きという意味合いがあることです。
このことを上記テキストから見ていきたいと思います。順に見ます。

”60 そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」”
 

再臨のことがらを聖書的に調べようとするなら、まず再臨に関して書かれている箇所を見ること、
それが第一に必要なことと思われます。再臨に書かれている箇所の一つがこのテキストの箇所です。

さて、この箇所はどういう箇所なのかというと、主イエスが大祭司達に逮捕され、尋問されている箇所なのです。大祭司とは誰かというと、ユダヤ教の中心的人物、さらにかつてのアロンの直系の
人物なのです。それで、この箇所が語っている意味合いは、深刻なものがあります。
この箇所は他でもない、神の民の中心的な人々が冒涜的になり、最後にはあろうことか、神の子さえ、
逮捕、殺害する、その時のことを書いているからです。そして、主の再臨は他でもない、
その大祭司と関連して語られているのです。
それで、明らかに終末の日のイエスの再臨は背教の神の民への裁きという意味合いがあることが
想像、理解できるのです。

ここで主イエスは宗教裁判にかけられ、非難されています。
同じことは終末にもくり返されるでしょう。
かつての旧約の神の民、また祭司長達が、王なる方を死刑に定めたように、
新約の神の民もこの「ことばは神」といわれた方のことばを否定し、
また堅くみことばに立つ人々を自らの議会、集まりで非難する日が来るでしょう。
 
 
 
 

”61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」”

さて、ここで、「人の子が、
天の雲に乗って来る」こと、すなわち、主イエスの再臨について語られています。

ですから、大祭司の審問や、主イエスの裁判と再臨とは関係があるのです。
どのように関係があるのでしょう?

想像できることは、間違ってもこれらの主を断罪した人々を祝福しに主が来られるのではないということです。逆に不遜にも「ことばは神」といわれた方を裁き、しかも死刑に処した人々への裁きとして来ることが想像できるのです。そして、この想像はおそらく間違いがないのでしょう。

この主の大祭司に対していわれたことば、主イエスの再臨を「あなたがたは見るはずです」とのことばは、
しかし、この時代には成就しませんでした。今に至るまで成就していません。それで、この預言は、
この時代の人々というより、終末の大祭司達、終末の日の神の民の権威、指導者達に向けたものとも理解できるように思われます。そうです、これから、このことばが成就する日が来るのです。

それで、私達は、背信、冒涜、そしてそれらの冒涜者への裁きとして起きる、主の再臨ということがらをはっきりとはっきりと理解すべきなのです。

この大祭司、主イエスへを非難し、裁き、また死刑に処した宗教の責任者に対して、他でもない、
彼に対して、主が再臨に関して述べたということは、明らかに主の再臨は、
これらの人々への裁きの時であることを語っているのです。

そして、勿論、大祭司の側に立ち、主を断罪する立場にくみする人々も同じ裁きに入るでしょう。

今はどのような時なのか?今は、かつての大祭司の冒涜の様に「ことばは神である」といわれた
方への冒涜と、非難、不信がきわまりつつある時代です。
フェミニズム神学だの、文献学だのの、こじつけに乗り、神のことばを
改ざん、非難、批判する人々が大挙して、出現しつつある時代です。
アメリカにおいては、NIV聖書は、名訳といわれるKJV訳に比べ、何と
6万語も削除されているのです。アメリカには聖書の翻訳や出版をする協会があり、
ひんぱんに怪しい訳の聖書を発行しています。日本にもその支部があるときいていますが、日本の
状況も同じようなものになりつつあるのでしょうか。

”63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。”

さて、ここでユダヤ人の議会、サンヘドリンは、主イエスを死刑にするむね、定めました。そして、
この決定は実行に移され、彼は殺されたのです。
逆接的にいうなら、冒涜が完成したのです。

神の民の反逆、冒涜はもう一線を超えてしまい、もう引き返せないところまで行き着いてしまったのです。

このこと、この冒涜は、終末の日に再現するでしょう。
何故なら、終末の日に再臨があるからです。明らかにこの箇所の大祭司の冒涜と
主の再臨に関することばとは、セットになっています。
ですから、逆に何故終末の日に再臨があるのかをも我々は類推できるのです。
再臨と神の民の冒涜とはセットになっており、終末の日に再臨があるということは、
新約の神の民の冒涜がきわみに達するからである、そのことを理解できるのです。

その日は近付いています。ですから、これから教会がどの様に変質しようとも
我々は何か思い掛けないことの様に思うべきではないでしょう。

このことは預言されており、その日がきつつあるのです。
しかし、我々にあっては、終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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