NO.473 いちじく


”テキスト:マルコ11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」”
 

本日はいちじくという題でメッセージしたいと思います。
かつての日、主がいちじくの木を呪われたことをみていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”テキスト:マルコ11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。”

主が空腹を覚えるという時、もちろん文字どおりお腹がすいたのでしょうが、しかし、
それとともにたとえの意味あいがあります。
それは、神の空腹、神が求めるものが与えられないという意味あいの空腹です。そして、
神の民の働き、またその信仰こそが神である方の飢えを満たし、空腹を満たすものなのです。

”13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。”
 

空腹を覚え、いちじくに何かありはしないかと行った主の期待は裏切られ、そのいちじくは
何の実もなく、答えるものがありませんでした。
神の子としてこられたイエスの飢えを満たす実はそのいちじくにはなかったのです。
 

いちじくの意味あいに関してホセア書は以下の様に述べています。
 
 
 
 
 

”ホセア書 9:10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。”
 

ですから、いちじくは、イスラエルの神の民をさすのです。
そのいちじくである神の民は、いちじくの実をならせず、逆に「恥ずべきものに身をゆだね、..忌むべきものとなった。」そのことが問題なのです。

「いちじくのなる季節ではなかったからである。」

桃でも栗でもミカンでも、どんな実でもその実のなる季節があります。その季節でないと実がならないのです。同じ様に神のいちじくである神の民がその実をならせ、聖霊の実をたわわにならせる時があります。そして、また何の実もならない時もあります。
終末の時は、まさにその実のならない時であり、そしてそれは災いの時です。
 

”14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。”

この日、実のないいちじくに対して主は最終宣告を行いました。
主は、今後誰もこのいちじくの木の実を誰一人食べることのないように宣告したのです。
今は実がないけど、がんばって実を結べといったのではないのです。
また、長い目で見るから実を結べといったのではないのです。
逆に、これからは、誰一人決してこのいちじくの実を食べることがないようになれと、
最終的に命じたのです。ある意味、このいちじくにとって、終わりを宣言したのです。

これが単なる一本のいちじくの木に対しての宣告ならまだしも、そうではなく、
これは明らかにこのイスラエルの民に対しての宣告なのです。
主はこの民の現状を見、期待していた実がないことをつぶさに見、神の飢えを満たすものが何もないことをしっかりと理解し、そして、最終的な宣告をこのいちじく、神の民に対して行ったのです。恐ろしい事態になったのです。

そして、そのことば、宣告は神からのものなので、すみやかに、迅速に正確に成就しました。実際、
その後、神の手はこの民を離れ、救いは異邦人へと移っていき、この民は呪われ、栄光から移されてしまったのです。厳粛に厳粛にこの宣告は成就したのです。

この呪いはこの様に、かつて主イエスの時代に成就しましたが、しかし、それはまた教会時代の終わりに再現されます。主は新約のいちじくである、クリスチャンのもとを終末の日に訪れ、そして、何の実もないことを見るようになるでしょう。

”15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。”

さて、ここで宮きよめの記述が記されています。

このいちじくの記述と宮きよめの記述は関連しています。というより、同じ事柄を記しているようにおもえます。この箇所の
以下の構造に注目してください。

1. いちじくの記述(主のいちじくへの呪い)
2. 宮きよめ
3. いちじくの記述(ことばどおり根が枯れたこと)

宮きよめの記述はいちじくの記述の間にはさみこまれた様な構造になっています。それで、確かにこれらは関連しているように読めます。
 

イエスは道を歩いて、いちじくの木を見つめ、その実がない、実のなる季節でないので、実の
なっていないいちじくを呪いました。聖書の隠された意図や、意味あいを理解できないと、
この箇所はほとんど主イエスの理不尽ないいがかりや、やつあたりにさえ見えます。

実のなる季節でない時、いちじくに実がないからといって、いきなり呪って枯らせたのでは、
ほとんどただのうっぷんばらしに思えます。
しかし、いちじくの本当の意味あいは、上記の神の民のことをさすと理解するなら、
納得のいく箇所です。彼らは聖霊の実はなく、しかもあろうことか、神のひとり子、
主イエスを殺すことさえ相談しているのです。

神は彼らを見限り、その結果、彼らの前には、彼らの冒涜、背信に見合った、呪いと枯渇と裁きが
待ち受けるようになったのです。

さて、かつて見たように、この箇所、宮きよめの箇所は現在の教会において、成就しつつあり、
多くのクリスチャン、牧師、教会が、宮すなわち、神の礼拝者の場所から、追い出され、
引き離され、職を追われ、もう神の前にはいなくなりつつあることを覚えてください。

このこと、多くの人が宮から追い出されていることは目に見えず、またこのことを悟っている人は、ほとんどまだ
いないようですが、しかし、このことは明らかに成就し、多くのクリスチャンが追い出されつつあります。
このことを見る目はみるゆえに幸いです。

鳩売り商人、すなわち、紅貧だの、ビルハモンだのの悪霊の器を呼んでひともうけたくらむ、
愚かな教会商人どもは神の前から追い出されつつあります。

両替え人、すなわちお金を変換するもの、すなわち、あがないの代価を変え、
他の種類の救いを持ち込み、悪霊マリヤだの、パーパスドリブンチャーチだの、他の救いを持ち込む人々は、
追い出されつつあります。
また、「宮を通り抜けて器を運ぶ」もの、すなわち、神を崇めるべき教会で、器崇拝に興じ、
器のことばを優先し、神のことばを投げ捨てる人々は、もう神の宮から追い出されつつある、否、もう
追い出され完了かもしれません。
 
 

祈りの家から祈りを奪う人々、また強盗、すなわち、神のことばを盗み、マルコ4章の
キリストのたとえに関する言葉を否定する解説の載っている恣意的な解説のあるチエーンバイブルや
続編などとの結構なことばで神のことば以外のことばを聖書に加える新共同訳などを喜々として売り付ける人々なども大いに危ないのでしょう。名訳と定評のあるKJVに比べて、6
万語も、削除された泥棒聖書、NIV訳などを勧める人などもこの口でしょうか。

私は何をいっているのかというと、このかつて起きたいちじくが呪われる日、宮きよめの日は、
今また来つつあると語っているのです。彼らは宮を追い出され、そして呪われ、枯れ、
決して実を結ぶことはないでしょう。

主なる神が呪ったのなら、どうして、再び実をつけることがあるでしょう。
神の忍耐の限度の日が来ており、冒涜者が呪われる恐ろしい日が来ています。その日は、
今、私達の目の前に来ているのです。
 

”19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」”

主が呪ったとき、いちじくは枯れ、もう決してこの木が実をつける日は来ませんでした。
これは、確かに最終通告だったのです。
恐るべきことばだったのです。

私は知っています。このいちじくの箇所で予表された呪いのいちじくの日は再度、私達の目の前にきつつあるのです。

もし私達に、御霊の実がなく、聖霊を悲しませているなら、今悔い改めなければなりません。
また、主につくことを志す人々は、今主に仕え始めるべきと思われます。

何故なら時は限られており、主がいちじくの実を確認しに来られた、その時は今、再度来つつあるからです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
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