No.472 眠る

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”マルコ14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
38 誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。”

本日は、眠るという題でメッセージしたいと思います。
主の公生涯は、3年半であり、この時はまた終末の艱難時代、3年半に通じるものがあると
語られます。
主の生涯における最大の艱難、苦闘の時は、他でもないゲッセマネの園における祈りでしたが、
しかし、その肝心な時にあろうことか弟子達は眠っていたことを聖書は伝えます。このことを通して語られることを見ていきたいと思います。

順に見ます。
 

”32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」”

ゲッセマネとは「油をしぼる」という意味があります。
油は聖霊のたとえであり、油をしぼるとは、聖霊が働くために苦祷する、求める、そんな意味あいがあるのでしょうか。主のゲッセマネの園における祈りはまさに聖霊の働きを求め、苦祷することであり、
そして主はその祈りのゆえにこの最大の艱難を正しく切り抜け、正しく通過することが
できたのです。主は信仰の導き手また模範であり、全て主のこの歩みにならつ人々は、来らんとする艱難の時代を正しく通過し、永遠の命を得ます。
”イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」”

主は弟子達にすわっているように、その場所にとどまるように語りました。
逆に艱難時代の問題とは、弟子が座っておらず、その場所、主にいわれた場所を動いてしまうことが
予想されます。
終末の時代が揺り動かしの時代であることは、聖書のあらゆる箇所が語ることがらです。
地震、洪水等あらゆる表現でみことばはその日を揺り動かしの日であることを語ります。
そのことに備えるようにしましょう。
 
 

”33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」”

ここで主イエスが「深く恐れもだえ」たことが書かれています。また、主御自身、「悲しみのあまり死ぬほど」であると語られています。このことは何をさすのでしょう?
もちろん、主は一人の肉体をもたれた人間として、すぐ前に迫る、十字架の死に関して、
悲しみ、なげいたということが第一番の意味あいです。
そのことはその通りなのです。

しかし、主は一人の人として、崖から落とされそうになったり、石打ちに会いそうになったり、多くの困難を通りましたが、それらの
困難の時の心情を聖書はあまり語らず、しかし、このゲッセマネに関しては、詳しく語ります。
ここに何かかたりかけがあるのかもしれません。

私の理解では、この主の苦難は、そのまま預言であり、終末の日に艱難時代を通過する
人々に関する預言と思われます。
その日、艱難時代において、主のことばに堅くつく人々は同じく、「深く恐れもだえ」かつ、「悲しみのあまり死ぬほど」になるでしょう。

「ここを離れないで、目をさましていなさい。」

これらの困難の中で、人々はすぐ動いたり、変節するようになるでしょうが、
しかし、主の勧めは「ここを離れない」ことです。
かつての戦争の時、「天皇か、キリストか」と詰め寄られた日本の多くの教会は、
「ここを離れ」、変節をし、言を左右にし、いいつくろい、キリストへの忠誠をすてました。
その結果は、今見る通り、祝福のない日本の教会の現状となりました。
同じく、いえさらに大きなゆるがしが、艱難時代に来るでしょう。
その日のために今から備える人は幸いです。

「目をさましていなさい。」

何故、目をさましていないさいと目をさますことが強調されるのか?
その理由は、ねぼけまなこ、半覚せい状態、もしくはぐっすり眠りこんで、
世の中の変質、キリスト教会の変質にさっぱり気がつかない人が多くなるからです。

このことは、今成就しており、多くの人は眠りの中にあり、悪霊のリバイバルをみわけることも、
聖書翻訳の偽りを見抜くことも、また第3の波やらユダヤ再建主義者どもが
画策している悪だくみなどを見ることができません。


35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」”

この時が自分から過ぎ去るように、主は祈りました。
同じく終末の艱難の時を経過する我々もこの(艱難の)時が
無事に経過するよう祈るべきなのです。
 

「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

主は肉体を持つ生身の人間としては、十字架の死を願いたくはなかったでしょう。
しかし、このことは、神のみこころであり、主イエスは結果としてさらによいもの、
栄光を受け取られたのです。このことは、主にとり最善でした。

同じく、終末の日に艱難を我々が経過するのは何故でしょうか?
人間的にはめぐりあわせが悪い、悪い時代に生まれたと思えるかもしれません。
しかし、この時、また今の世の「軽い」艱難を経過した人々は、その後、「重い」栄光を受けるようになるでしょう。神の考えは、今の時代、主につく人々に最善を与えることです。

"
37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。”

さて、この箇所で、主は艱難時代をあらわすかと思われる状況の中で、
その弟子である、ペテロに対して、一時間でも目をさましていることができなかったのかと
叱責しています。
 

一時間とは何をさす時間でしょう?
38節の祈りということばを見る時、祈りと関係しているようにも思えます。

「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ」

主はその日、ゲッセマネの園で弟子達のところへ戻り、そして残念ながら、
彼等が眠っているのを見つけました。
このことは、終末の日、イエスが戻る日のことをも思い起こさせます。
その日、主の戻る日もやはり、主は弟子が眠っているのを見るのかも知れません。
 
 
 

38 誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 
 
 
 
 

ここでは、「目を覚まして、祈り続け」ることについて語っています。ですから、
一時間とは、「目を覚まして、祈り続け」る時間と関わること、具体的には、
一時間の祈りを語っているのかもしれません。
これは、私の理解なのですが、私にはこの箇所が、一時間の祈りを促している気がします。
終末の時、私達が正しく惑わされず、クリスチャン生活を続けるつもりなら、一日一時間の
祈りが必須、そんな風に思えるのです。
艱難時代で惑わしに入っていく人々、それは、祈りのない人々、そうなのかもしれません。このことを
聞く耳のある人はきいてください。

”心は燃えていても、肉体は弱いのです。」”

心と訳されていることばの原語はプネウマ、すなわち、霊をさします。
ですから、この箇所は、霊は用意されている、しかし、肉体は弱い、その様に語っているのです。
それで、私達は、終末の日の誘惑、惑わしは肉体に関わるものであることがわかります。
見るによく、食べるによく、賢くなるにふさわしいとして、
テレビ、映画、インターネット、また豪華な食事など、肉体に関わる惑わしがますます、終末には、
さかんになるでしょう。

これらの誘惑に打ち勝つことと、祈りとが密接に関連することを覚えてください。
何はともあれ、祈る人は守られます。

”39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。”
 

ここにも主が「また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。」ことが書かれています。
その日、主が戻る日、主の弟子達はやはり眠っているのかも知れません。
もし、そうなら、この箇所は大変なことを語っていることを覚えてください。
終末の日、主が再臨する日、その日、一般的に弟子は「眠っている」と聖書は、暗示していること、
ですから、もし、私達が普通の弟子なら、眠っている可能性が高いこと、それを
聖書はどうも暗示しているようだということをです。

「彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。」
 

眠いとき、ひどく眠気がさしている時、人は普通ではありえない、失敗や、
間違いをおかすものです。

眠っている間に電車を乗り過ごし、遅刻してしまいます。また、運転をしている間に居眠りすれば、車はあらぬ方向へ、飛んで行き、大事故になります。
同じ様にかつての教会ではありえなかった間違いが、これから、
眠ってしまった、弟子を通して起きてくるでしょう。

それは、ねぼけまなこの頼り無い牧師連中に承認された、悪霊のリバイバルが教会に大手をふって
入ってくること、また、眠りこけて何が起きているのかわからない、理解できない弟子、牧師、
伝道者を通して、カルトバルトを始めとするヨタ話の教理が入って来ること、また
終末の空想話、キリストは艱難の前にやってくるというオトギ話が、
受け入れられることです。
 

”41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。”
 

「三度目に来て」と書いてあります。このゲッセマネの記述、艱難時代を予表するような記述を通して、度々3という数字がくり返されていることは注目すべきです。
3の数字?すなわち、ペテロが3度主を否定する、またこの主が3度目に弟子のところへくること、
また復活後、ペテロに3度私を愛するかと聞いたことも3の数字が関係します。
3の数字の意味あいは?

この数字は時に関係しているのでは、具体的には3度目のミレニアムと関係しているのではと思われます。そして、その3つめのミレニアムとは今の時のことです。
 
 

「人の子は罪人たちの手に渡されます。」

この日、人の子、イエスキリストが罪人の手に渡された様に。
終末の日も人の子、男の子、すなわち、殉教者が渡される日がきます。
 

「罪人たち」

主イエスは、律法学者、祭司長達のたくらみにより、渡されたのですが、これらの
人々をさして、主は「罪人たち」と呼んでいることを覚えてください。
彼等の問題は何でしょう?聖書を読みながら、なおかつ、救い主を間違えてしまった、その問題の原因、理由は、
彼等が「罪人」すなわち、罪の中にいたからなのです。
終末にもおなじことが再現するでしょう。
その日、人の前はどうでも神の前に隠れた罪の中にいる人々は皆、間違えるようになるでしょう。

”42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。”

かつての日、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられた群集が、剣や棒を手に主である
イエスに逆らいました。同じことは明らかに終末に再現するでしょう。終末の日にも
 

祭司長すなわち、教会の礼拝をつかさどる教団の幹部連中、また
律法学者、すなわち、聖書学者、また長老すなわち、教会の主だった人々が、
主のみことばを攻撃し、またキリストの救いを攻撃すべく集まるでしょう。
彼等は、「剣や棒を手に」すなわち、みことばを攻撃することに賛同するでしょう。

彼等はみごとにだまされるのですが、その理由はくり返すようですが、
彼等が「罪人」だからです。

ですから、今の時代の我々はますます義を追い求めるべきであることがわかります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d5222d3014a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream