No. 471 証言


テキスト:”レビ5:1 人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら「「彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに「「、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。”
 

本日は証言という題でメッセージしたいと思います。
テキストのレビ記の記述を見ると、「証言しなければのろわれるという声を聞きながら」かつその人が
証人であるのに、証言しないなら、それは罪であると書かれています。

この記述は、第一義的には、一般的な裁判や、証人ということがらと関係していると理解できます。
しかし、聖書の多くの記述がそうであるように、ここにもたとえが使われているように
思えるのです。
そのたとえについて考えてみたいと思うのです。
証言、証人ということに関連して、新約聖書では、以下の記述があります。

”1ヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2 「「このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、その証しをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。「「
3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

この箇所を見ていきましょう。

”1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて”

ここで彼、ヨハネは勿論、キリストについて、証し、すなわち、証言しているのです。
彼はこのイエスキリストについて、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と語っています。すなわち、彼、ヨハネは上記、レビ記でいう、「見ているとか、知っている証人」なのです。そして、彼は聖霊の声に逆らわず、証言しているのです。

ヨハネの証人としてのその位置の重要さを考えてみましょう。
彼は、イエスにもっとも愛された弟子であり、また12弟子の一人、いやそれどころか、ペテロ、
ヤコブとともに、側近中の側近なのです。
すなわち、このナザレのイエスという「カルトの首謀者」のごとくいわれた人物に関して、よくも悪くももっとも親しい情報を与えられる位置にいたのです。別のことばでいえば、
最重要な証言、もっとも重大な証人ということでしょうか。

彼はこのイエスについて、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」すなわち、我々はこのイエスのことばを聞き、彼を見、じっと見、また彼を手でさわったことさえ、ある「証人」として、ここで証言していと語っているのです。

その彼が、このイエスをろくでもないカルトの首謀者だとはいわず、また妄想狂だとは、
いわず、かえって、この方は「初めからあったもの」すなわち、神御自身であると語っているのです。
また、「いのちのことば」であると語っているのです。
彼ヨハネは自ら、3年半の間、イエスと苦楽をともにし、そして彼がこのイエスに関して得た結論は、イエスは命のことばだというのです。
私達はそれを信じる、信じないは別にして、イエスの弟子であるヨハネはそう
感じた、また今その様に証し、証言しているという事実は尊敬すべきなのです。
このヨハネの手紙が書かれたのはいつのことなのでしょう。少なくとも、ヨハネがイエスと
ともにいた時よりは何十年か後のことらしいです。しかし、彼、ヨハネは若い時、
たまたま感動してイエスにほれこんでいただけというのでなく、
むしろ年とともに、彼のイエスへの確信は強まり、彼はイエスを「いのちのことば」であると語っているのです。
 

このことは非常に大事です。第一級の証言者による生きた証言だからです。
Q資料だの、死海文書をもとにした「イエスはただの大工のおっさんだ」との偽りの妄言とは比較にならない重要な証言なのです。これらの妄言はイエスの時代から、2000年もたったのにまるで見てきたかの
様なたくみな嘘をつく学者とすぐそれを信じ込む腰の定まらない愚かなクリスチャンの間で広がっています。彼等は一級の証言者、イエスと苦楽をともにした弟子、ヨハネのことばより、妄想、空想の話を信じる片寄った人々です。
 


2 「「このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、その証しをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。「「”
 

彼、ヨハネは、このイエスについて、「私たちはそれを見たので、その証しをし」と語っています。彼、ヨハネは、
上記、レビ記の記述、「証人であるのに「「、そのことについて証言しない」という罪を決して犯さず、むしろ積極的に証言しつづけていることを私達は見るのです。

それで私達クリスチャン、特に日本のクリスチャンが知らなければならないことがあると、私は思います。
それは、私達は、「証言」をすべきであるということです。
キリストがどういう方であるかはヨハネを始めとする多くのクリスチャンの証言を通して、この2000年の間、世界のすみずみまで伝えられました。
まるでバトンリレーの様に伝えられてきたのです。
ここでヨハネは彼のほんの短い、3つ合わせても数ページの手紙を通して、またヨハネの福音書を通して、自分の見たことを
語り、証言をしました。証しをしたのです。
このこと、彼の証言がどれ程、大きく用いられたかを思い起こしましょう。
彼、ヨハネというナザレのイエスという人物と密接に行動をともにした
人物がイエスはキリスト、すなわち、旧約聖書で語られた特別な人物であるこ
証し、証言したので、彼の福音書、書簡を通して多くの人々が、このイエスを信じるようになったのです。そして、神の約束した永遠の命を得ることができるようになったのです。
 
 
 
 

私達全てのクリスチャンがメッセンジャーになり、説教をするよう、召されているかどうかは、
私にはわからないのですが、しかし、私達全てははこの方に関して、証し、証言するよう求められている、私にはその様に思えるのです。

私達には、誰でもこの方、主イエスにより与えられた恵みがあり、いやしがあり、救いがあり、また、この方による以外には
救いはないという確信があります。私達はそのことを「証言」するよう、求められているのです。
もちろん、証言を聞いても信じない人もいる、否、その様な人が多いかもしれませんが、しかし、
それは我々がどうこう、左右できることではありません。

しかし、私達は誰でもこの方が私達にどの様に良いことをしてくれたのか、どの様な方なのか、
私達自身が霊の目で見、また聞いたことを「証言」するよう、求められているのです。

”3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

ヨハネは自分の「見たこと、聞いたことを....伝える」と語っています。
彼、ヨハネは勿論、特別な位置にいた人、12弟子の一人、イエスのそば近く仕えていた人です。
しかし、私にはこの様に思えます。私達がヨハネの様に「主の愛した弟子」なら、
私達もヨハネと同じ様に私達が見たこと、聞いたことがあるということです。
もちろん、私達の肉の目、肉の耳はこの方を見たことはないのですが、しかし、
聖霊として来られたこの方の姿を私達は霊の目で見、またこの方の声を霊の耳で聞いたのではないのでしょうか?

そして、もしそうなら、私達も彼ヨハネと同じ様に、証言すべきことがらがあるのです。
主イエスの福音は証言を通して、証人を通して代々伝えられ、またこの東のはずれの島国まで、
伝えられました。私達も、みじかな人々に証言するよう、求められているのではと私には思えるのです。
 

「あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

ヨハネはこの交わり、すなわち、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」がすばらしいものなので、証言しています。今風にいえば、紹介しているのです。
日本では、「うまいラーメン屋」や、「とびっきりおいしい食堂」のことが口コミで伝わります。
実際に体験した人が他の人に紹介していくのです。
その他人の紹介のことばを信じて食べてみると確かにすばらしいおいしさだったりします。
ラーメン屋に比べては恐縮のいたりですが、似た様な意味あいで、私達が主イエスを通して受けた恵み、
この方のすばらしさは、口コミならぬ、クリスチャンの証言により伝えられていくのです。
そしてそれが実は非常に効果的なのです。

さて、始めのレビ記のテキストに戻ります。
 
 
 
 

”1 人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら「「彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに「「、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。”

あらためてこの箇所を見て、やはり気付くことはこの箇所は単に裁判で証人になるのを拒む、
その様な第一義的な意味あいにとどまらず、もう一つの意味あいがありそうなこと、そして、
それはどうも我々クリスチャンの証言、証しをするしないということに関してのことの様に思えるのです。

そして、この箇所はこう語ります。「そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。」すなわち、証言、証しをしないこと、主を知りこの方を見、聞いているのに、
なおかつ決して他人に証しせず、語らず、口をつぐみつづけるなら、これは、何と、「その人は罪の咎を負わなければならない。」すなわち、罪に処せられ、また神の前に罪を犯した人としての
扱いを受けてしまう、
どうもその様に聖書は語っている様なのです。

そして、このこと、証ししないことが、罪なら、神の前に当然、罪としての扱い、
酬いを受けてしまうのです。

「証言しなければのろわれる」

聖書は「証言しなければのろわれる」、すなわち、証しをしないクリスチャンは呪われると
書いていることを覚えてください。
呪われるとは?それは簡単にいえば、祝福されないということです。事実を見るなら、
ある種類のクリスチャンは祝福されます。祈れば答えられるし、また御霊の
たまものも豊富です。しかし、ある種のクリスチャンは祝福されません。
逆に呪われているかの様です。祈りは絶対答えられず、御霊の働きもなきがごとしです。
その差は何故か?

そのことの一つの原因はこのみことば通り、「証言しなければのろわれる」との御霊の声に耳をふさぎ、
決して決して証をしないからかもしれません。

私達は呪われ、祝福から外れたクリスチャン生活に入るまいと志すなら、
証しすることに気をとめることです。人にいうのが恥ずかしければ、
トラクトを配ってもいいし、今なら、HPだってある時代です。

どの様なクリスチャンにもイエスの恵みはあり、彼がどの様に良いことをしてくださったか、
語るべきこと、証しすべきこと、すなわち証言があるのです。
私達はそれを証しすべく求められています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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