No.470 過ぎ越しの食事

テキスト:
”マルコ14:
12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
14 そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。
15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16 弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。”

本日は過ぎ越しの食事という題でメッセージをしたいと思います。
主とその弟子達がもった過ぎ越しの食事に関して見ていきたいと思います。
 

新約聖書に主イエスとその弟子達が「過ぎ越しの食事」を食べたことが書かれています。
過ぎ越しの食事、過ぎ越しの祭りとは御存知の様に、出エジプトに由来することがらです。
何故主イエスの時にこの祭りについて書いてあるのか?
その理由は、この主イエスの時こそ、まさに出エジプト記が預言していた時代だからです。
かつてモーセとイスラエルの民が実際にエジプトの地で経験した不思議としるし、これは
実際の歴史であるとともにさらに未来への預言という意味あいがあります。
そして他でもない、その預言された時が、この主イエスの時代であることを聖書は語っているように
思えます。

さらにつけ加えるなら、この成就は再度繰りかえされ、終末の日に本格的な成就を見ます。
黙示録には、エジプトに関連する記述がいくつもあり、これはまた、黙示録の
時代に再度、出エジプトが繰りかえされる、否、出エジプト記で預言されていることがらの本格的な
成就は、終末の日なのです。

主イエスの時代にどの様にして、「出エジプトに関する預言」が成就したのかを見ること、
それは、また終末の日にどの様にしてこの預言が成就するのかを見る助けになります。
 
 
 

この理解に基づき、テキストを順に見ます。


12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」”
 

過ぎ越しの祭りが語ることは、長子を打つ神の使いが行き交う、その裁きの日において、
2種類の民がおり、片方は主により裁かれ、他方は裁きを過ぎ越す、すなわち、免れたということです。

私達は勿論、裁きを過ぎ越す道を求めるべきなのです。そしてそのために何が必要なのかを
語るのが今回の過ぎ越しに関する記述なのです。正しく学ぶ人は、来らんとする裁きを過ぎ越せるはずです。

ここではまず、「種無しパン」について書かれています。種無しパンのいわんとすることは、種すなわち、罪のないパン、メッセージに関することです。
罪のあるメッセージとは、具体的には、神は死んだとか、同性愛を禁止する必要はないとか、
神のいわれたことばと書かれたことば(聖書)とは異なるだののカルトバルトのヨタ話とか、
神を男性形で呼ぶのは、性差別だ、呼称を変えろなどと愚かな主張をする何様フェミニストとか、
艱難時代の前に教会は挙げられるか心配する必要はないなどの現代のおとぎ話艱難前携挙のたぐいです。
はっきりいいます。こんな種ありパンをたらふく食べて喜んでいる愚かなクリスチャンが過ぎ越しの裁きを免れることはあり得ません。それは全然、全く難しいでしょう。

「過越の小羊」

出エジプトの記述において、裁きを受ける家と受けない家の違いはその門に
小羊の血があるかどうかの違いでした。
それで、小羊の血を我々が受けているかどうかは、これから来らんとする裁きの過ぎ越しを
願う者にとって、大きなポイントです。
しかし、この時を見越したかの様にこの肝心な小羊の血を無効にする、
クリスチャンを小羊の血から引き離すことを目標にしたムーブメントが教会に起こりつつあります。
それは、他でもない、他の血、他の霊、他のぶどう酒を推賞する人々です。
トロント、ペンサコーラ、第3の波系のリバイバルの霊は他の血、他の霊であり、
これらを受ける人々は、最終的には、「自分が清められた血を汚れたものとみなす」ように、
すなわち、小羊の血を自ら取り去るようになるでしょう。
そして、その結果、彼等において、裁きは「過ぎ越し」ません。

”、弟子たちはイエスに言った”

このイエスの日、弟子達は、イエスとともに過ぎ越しの食事をすることができました。
このことは幸いです。彼等は裁きを免れ、この後、エルサレムを襲った
裁きから免れたのです。終末の日においても出エジプトし、この世化した教会への裁きを免れるのは、弟子の歩みをする人々と思われます。

「過越の食事」

かつてのエジプトの日、エジプトに下る裁きを免れた民は、過ぎ越しの食事を食べました。
このことは、未来の型であり、主イエスの日においても、
裁きを免れる主の弟子達は過ぎ越しの食事をしました。
それで、そう、終末の日、裁きを免れようと望む者は誰でもこのこと、過越の食事といわれる
特別な食事を食べなければなりません。

”「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」”

この日、弟子達は自分で過ぎ越しの食事を用意しなければこの祭りを無事に迎えることはできませんでした。

これは未来に対する型であり、終末の日、主の弟子として、裁きを免れたいと望む人々は、誰でも、
過ぎ越しの食事という特別な食事を用意しなければなりません。
食事はパンとぶどう酒からなり、パンは種なしのパン、ぶどう酒は、悪霊ではない、純粋な聖霊の
酒です。


13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。”

過ぎ越しの食事を用意しようと願う弟子達にイエスは水瓶を運ぶ男についていくように
語りました。水かめのたとえは何でしょう?
水は聖霊のたとえです。この水、聖霊の働きに関して、聖書は、それはただ、黙っていれば働きがあると
いうのでなく、逆に水かめを運ぶ、また井戸を掘る、またカナの婚姻においては、
水がめに水を満たすというように、労働が必要、準備が必要であることを語ります。
今の日本では、水は水道の蛇口をひねれば出るように思えますが、しかし、聖書的には、水を得るため、その為には、井戸を掘る多大な努力、また重い水がめを運ぶその努力、労力が必要なのです。
何をいっているのかというと、聖霊はだまって待っていれば、あたえられるというのでなく、
「求める者に与えられる」ので、聖霊の働きの裏には、大いに祈り、求めすなわち、
井戸を掘ること、水瓶を運ぶことが必要なのです。

過ぎ越しの祭、すなわち、終末のエジプト化した教会に来らんとする裁きを過ぎ越そうと
する時、必要なのは、「水がめを運んでいる男、その人について行」くこと、
すなわち、水、聖霊の働きを必死に求める働きに加わることです。
求めるものは、聖霊の働きを受け、そして、その命の水により、裁きを過ぎ越すのです。

”14 そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。”

かつての日、イエスの日に主は主と弟子とがともに過ぎ越しの食事をする客間を望みました。
そして、この場所において、彼等は過ぎ越しの食事をし、この時代に来らんとする神の裁きを過ぎ越したのです。事実、エルサレムはその後、神の裁きを受け、最後の一人まで、殺されたのですが、
しかし、主の弟子達は裁きを免れました。

同じことは終末の日にも再現します。主は今もその弟子達とともに、過ぎ越しの食事をともに
しようと望んでおられ、この召し、callingを聞いた現代の弟子達はその供えをしつつあります。
このことを聞く耳は幸いです。
 

”15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」”

「用意のできた」二階の広間、また「用意をしなさい」というように、今回のテキストにはくり返し、
用意ということばが出てくることに注意してください。

これは何を語るのでしょうか?
語っていることは、終末の日に私達が本当に裁きを過ぎ越すつもりがあるのなら、そうです、用意をしなければならないということです。用意のできていない人々は、油の用意のない愚かな花嫁の様に、花婿にまみえることができません。

用意をするということは、今の現状のまま、じっと待つということではありません。
逆に過ぎ越しという特別な時を過ごすためには特別な用意が必要なのです。

今の現状、キリスト教会の現状は、「3斗の粉に女がパン種をまぜる」とのたとえの様に
あらゆる偽りの教理、曲がった教えが行き渡った時代なのです。
ですから、真に過ぎ越しの祭りを迎えようと願う人々は、これらのパン種を排除し、
正しいパンを用意する必要があるのです。
 


16 弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。”
 

弟子達は都に入り、過越の食事の用意をしました。
この弟子の用意の結果、人々はつつがなく、過ぎ越しの時を過ごすことができました。
このことは終末の日にもくり返されるべきことがらなのです。
今の時代の主の弟子達も都、すなわち、教会に入り、過ぎ越しの食事、すなわち、パン種のないパン、
偽りのないメッセージ、また水、聖霊の働きを用意し、真に過ぎ越しを願う人々に供する必要があるのです。

その働きはすでに始まりつつあり、主の召しにあずかった人々はこの
声を聞きつつあります。
私達もその声、召し、callingを聞いたなら、備えをなすべきではないでしょうか。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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