No. 469 イエスを殺す


”テキスト:マルコ14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

本日は「イエスを殺す」という題でメッセージしたいと思います。
かつての日、祭司長、律法学者たちがイエスを殺すべく画策したことは、我々がよく
知っていることではあります。しかし、このことにはさらに隠された意味あいがあると
思われます。そのことを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。”

彼等、祭司長、律法学者たちがイエスを殺そうと画策した、その時は、「過越の祭り」の前でした。
主の3年半の公生涯、それは終末の艱難時代の3年半と重なり、それゆえこの時は
終末の日の預言とも理解できます。

過ぎ越しの祭りは御存知の様に、出エジプト記に記された「出エジプト」と関係のある祭りです。
終末の日には、出エジプトが再現されます。というより、出エジプト記に書かれたことは、
未来の日に起きることの預言であり、このことの本番は終末の日に成就します。

モーセの歌とか、水が血に変わるとか、ソドムやエジプトと呼ばれる都との記述の様に、
黙示録にエジプトに関する記述がいくつかあるのは、このこと、終末の日に再度、出エジプトが
再現することの暗示と思われます。終末の日に出エジプトが再現するなら、当然、出エジプト記に
書かれた「過ぎ越しの祭」もその日に再現する、否、本当の成就があるはずなのです。

さて、上記テキストには、「イエスをだまして捕え」と書かれています。
このことばは勿論、かつて2000年前におられたナザレのイエスキリストという一人の人をだます、
捕らえるという意味あいがあります。しかし、それとともに、もう一つの意味あいもあると
理解できます。イエスという名前は、「救い」という意味があります。
ですから、この箇所は、「救いをだます、救いを捕らえる」そんな意味あいとも読めるのです。
救いをだますとか、捕らえるというと抽象的にも思えますが、要するに、
クリスチャンにとって、もっとも大事な「救い」をあいまいなものに変える、亡きものにしてしまう、
その様に理解できるのです。
もしそう読むなら、この箇所は、終末の日、神の民の背教がきわみに達したある日、もっとも肝心な「救い」が教会から消えていく日、もっともらしいへ理屈の中で、「救い」を奪われていく日、その
日の預言とも理解できます。

聖書は明らかに終末の日に出エジプトがあることを暗示しています。
その日、エジプト化した民は裁きに遭遇し、しかし、主の民として残る人々は、小羊なる主の血により、
裁きを「過ぎ越す」のです。

この日、出エジプトの日の区分、すなわち、裁きを受ける人とそれを過ぎ越す人との区分は、
血によるものなのです。

そして、その日を前に、もっとも肝心なその血の区分をだまし、この血を汚れたものと定め、「救い=イエス」をだまし、
捕らえ、滅ぼそうとする人々があらわれるはずなのです。

以下のことばは、その日、神の小羊の血を汚れたものとみなす人々への警告です。

「ヘブル10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

あってはならないこと、我々にとってもっとも尊い、小羊の血を汚れたものとみなすという冒涜は、
しかし、黙示録に書かれたエジプトといわれる都、すなわち、背教の教会において
残念ながら、行われるようになるでしょう。

しかし、それはどの様にして来るのか?
私も詳しくはわからないのですが、しかし、すでに今の教会は、悪霊を聖霊とみなし、
怪しい霊と、うさんくさい、しるしと不思議を神からのものとしと受け入れています。
彼等がすでに、悪霊を聖霊と取り違えているのなら、その日、すなわち、自分が聖とされた
その肝心な主の血を汚れたものとみなす日も決して遠くはないのです。

出エジプトの前、また過ぎ越しの裁きのその前にあろうことか、彼等は唯一の救いである、
小羊の血をその門の前から取り除き始めているのです。彼等の愚にならってはいけません。

「祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」

かつての日、過ぎ越しの祭りの前に当時の宗教の長また、聖書の専門家達は、肝心のイエス、救いを殺し、亡きものにすることに力を注いでいました。まるで、火事が起きるその前に逃げるための非常階段をこわすようなものです。災害の前にその逃げ道をふさごうとするのです。
これは愚かな愚挙ですが、しかし、未来に対する預言でもあります。

終末の前、災いの裁きのみ使いが今遣わされようとする、今の時、まさに教会の長、また聖書の専門家達は救いを教会から追放するために血道をあげているからです。
 

史的イエスだの、Q資料だののヨタ話は、自称福音的な神学校を通して、伝えられ、
若い牧師志願の青年の信仰をくつがえしています。性教育が、性犯罪の抑止になるどころか、
むしろ、無意味に性欲を喚起し、性犯罪助長をしているように、これらの異端の教えを懇切丁寧に教えることは、
それを聞く人の信仰をくつがえすのです。しかし、悲しいかな、愚かな
自称福音派の神学校教師は、これらの異端話を熱心に「教え」ます。

そう、これらの異端教理を教会で流布する人々こそ、今の時代に、「イエスをだまして捕え、殺す」人々なのです。
 
 
 
 
 

「種なしパンの祝い」

種無しパンがたとえているのは、「罪のないパン」すなわち、罪が含まれていない、
メッセージです。
わざわざ「種無しパン」と明記してあるのは、「種のあるパン」も存在するからです。
これはたとえとしては、「罪を含んだメッセージ」ということになります。
そして、この種有りパンは残念ながら、今のキリスト教会の礼拝にまん延しています。
 

いわく、「神は同性愛を禁じていない、禁じているとの教理はマイノリテイへの差別発言だ」
いわく「地獄は存在しない。神は愛なので、人を地獄で苦しめる人ではない」
いわく、「セカンドチャンスがある、イスカリオテのユダも今頃天国にいるはず」
いわく「安息日、日曜日に必ずしも礼拝にいく必要はない、その様な固定観念は律法的だ」
いわく「十一献金は旧約の律法、新約の我々が守る必要はない」

過ぎ越しの祭りには、「種なしパン」を食し、そのパンをもって祭りを行います。
それで、過ぎ越しすなわち、我々がエジプト化した教会に今来らんとする裁きを過ぎ越そうと本当に願うなら、我々は今の教会にまん延している、「種入りのパン」
ではなく、その種すなわち、罪を除いたパンを食べなければならないことがわかります。

何故なら、聖書は明らかに種入りのパン、すなわち、人間優先、罪の入ったパンを喜んで食べている、
人々は裁きを過ぎ越すことができず、逆に裁きのみ使いの手に渡されることを暗示しているからです。

聖書の他の箇所には、女が3斗の粉にパン種を入れるとそれがパンのすみずみまで、行き渡ることを語っています。すなわち、我々が望もうと望むまいと、パン種、すなわち、罪を含むメッセージは後の日に
全教会に行き渡ることを預言しているのです。
我々は残念ながら、パン種の行き渡った時代、終わりの時代に生きており、我々が本当にパン種のないパンを食べるつもりなら、これらの行き渡った種有りパン、種有り教理の全てを再吟味しなければなりません。

その日、再吟味の日を預言して、聖書は、種無しパンの祭りと呼んでいることを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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