NO.468安息日の主


”テキスト:ルカ6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4 ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」”
 

本日は、安息日の主という題でメッセージしたいと思います。

聖書はその十戒の中で、「安息日を覚えて聖とせよ」と命じています。
この様に聖書が命じている時、我々は安息日すなわち、週の7日目、すなわち、7つ目のミレニアム
に関して、どの様に理解すべきなのでしょうか。ことばを変えると、この今から始まろうとする、
7つ目のミレニアムはどの様な時代になると予想できるのでしょうか?

偽ユダヤのガセネタやら、すっかりそれを吹き込まれている愚かな人々は、
至福千年の時が来る、千年のすばらしい時代が来るなんていっています。しかし、
それは本当か?

私の理解は違います。むしろ全く逆です。これからの千年は至福どころか、呪い、
困難、冒涜、すりかえ、偽り、善を悪、悪を善と呼ぶ時代が来ると思われるのです。
何故そういえるのか?

説明します。聖書は律法に関して以下の様に述べています。

”1テモテ1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、
10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。”
 

すなわち、神の戒め、おきて、律法は正しい人を対象というより、律法を無視する不従順な者のために
あるというのです。
だから、安息日に関する戒め、すなわち、週の7日目を聖とせよ、何の仕事もするな、
という時、それは、実は「律法を無視する不従順な者のために」書かれている、
すなわち、7日目、7つ目のミレニアムに大いに冒涜を働く人々を対象に書かれている、
また大いに仕事、すなわち、行いを強調する人々を対象に書かれているのです。

逆にいうと、7日目、すなわち、7つ目のミレニアムは冒涜的な人々、
神を冒涜、キリストを冒涜する人々で教会が満ちる、また行いを強調する教理に
教会が席巻される、それを暗示しているのです。
 

戒めすなわち、律法が大いに強調される時、それは、実は戒めを破る人々が大いに存在する、
そのことを暗示しています。それはこの世の世界でも同じです。

ある時、小学校へ行くとします。するとその廊下に「廊下を走らない」とポスターが書かれています。
「廊下をばたばた走る子がいるんだな」と想像されます。

さて、代わってあるアメリカの荒れた高校へ行くとします。
たとえば、廊下に「銃を学校へ持って来てはいけない」などと書いてあるとします。
その時、どんな事態が想像されるでしょう?

「日本の小学校では廊下を走らないことしか注意していないが、こちらの高校では、
銃のことまで、書いてある。こっちの方が注意が大いに行き届いている」などと
思いますか?多分誰も思わないでしょう。
日本の小学校で銃のことが書いていないのは、そんな子は誰もいないから、そんな恐れはないから、
書いていないのです。その様な戒め、注意、聖書用語でいう「律法」は不要なのです。
逆にアメリカの高校では「銃持ち込み」に関する注意、もしくは、律法が必要なのです。

こちらの方が荒廃しており、憂慮すべき事態なのです。

さて、これらの例に基づいて上記の律法、安息日、7日目、7つ目のミレニアムに関して
考えるなら、この時代に対して別の面が見えて来るはずです。
神は週の他の日に対しては、聖とすること、何の仕事もしないことは命じませんでした。
しかし、この7日目に対してのみそう命じました。逆に、この日こそ、問題の
日、人間でいえば、問題児、特別な日であることが想像されるのです。

この7日目、安息日で象徴される7つ目のミレニアムは実は冒涜の日、安息のない日と
なることを聖書は暗示しているように見えるのです。

この理解に基づき、テキストを見ていきます。

”1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。”

麦はパンに通じ、それはまたみことばに関するたとえです。
弟子達は麦の穂を摘む、すなわち、みことばに関する、仕事に従事し、
またイエスと共に麦すなわち、みことばを食べていたのです。
このことに何らも問題もないと思われます。
しかし、ある種の人々にとり、これは問題行動の様に見えます。それは、
その日が週の6日間ではなく、7日目、安息日のことだからです。
この日は特別な日、善を悪、悪を善と呼ぶ日なのです。


2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」”

安息日に弟子達が麦の穂を取り出すこと禁止され、非難されました。
同じく、7日目には、主の弟子がメッセージしたり、またイエスにある
みことばの解釈を語ることは禁止されます。それは、この日には許されないのです。
この時代は、黙示録に「獣のしるしをつけてない者に売ることも買うことも許されない」と
書かれた時代であり、売り買い、すなわち、あがないに関すること、救いに関することは、
悪霊を受けた人しか許されなくなります。同じ様にパン、みことばに関することも、
主の弟子には許されなくなるのです。


3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4 ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」”
 

ここで、麦を食べることは実は祭司の供えのパン、特別なパンを食べることと対比することが書かれています。そうです、これらは対比します。ですから、弟子が安息日に麦を食べてよいかどうかは、
祭司のパン、神の前に特別に提供される命のみことばに弟子があずかってよいのかどうかということと
関係します。そして、それは主によれば、許されること、非難すべきことではないのです。
同じく、終末の日に主の弟子が真のパン、神からのメッセージにあずかり、これを扱うことには、
みこころがあります。ですから、たとい、非難がこれからあっても、びっくりしたり、やめるべきではないのです。このこと、7つ目のミレニアムの時に主の弟子が麦の穂をつむため、すなわち、
神のみこころのメッセージをするため、非難されることは、かねてから預言されていることなのです。

「自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
 

私達はこの日が来ても、決して引いてはいけません。逆に自分も食べ、他の者、すなわち、
私達のみじかな人々にもそのメッセージを伝えつづけるべきなのです。

”5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」”

主は「人の子は、安息日の主です。」といわれました。
何故主はわざわざそういわれたのでしょうか?

知るべきことは、週7日のうち、他の日に関して主は、「人の子はこの日の主です」とはいわなかったことです。しかし、主は特別に安息日、週の7日目に関して名指しで、「人の子は、安息日の主です。」と
いわれたのです。
我々はこの日に関してどう理解すべきなのでしょうか。
想像できることは、この日、安息日といわれる特別な日において、「イエスは主でない」という
教えが席巻し、また大いにもてはやされるということです。

私達はすでに7日目にいます、7つ目のミレニアムにいるのです。そして、
今、キリスト教会で起きつつある多くのムーブメントの特徴は、他の「主」を強調し、キリストから、
人々を切り離すものだということです。

たとえば、カソリックはロザリオの祈りを強調します。
その祈りはもっぱら、マリヤに対してなされるものです。
それで、カソリックの人々は、この祈りをすればする程、真の救い主を離れ、悪霊に深入りするようになります。

また、ベニーヒンだのビルハモンだの他の主を強調する働きはプロテスタントでも顕著です。

この時代は明らかに他の主を強調し、イエスを「主」の立場から、切り離そうという時代です。
しかし、主につく人々はこの日を預言し、前もって語られた方のことばを忘れてはいけません。
たとえ艱難時代が来ようと来まいと、私達のあがない主が今さらかわるわけではありません。
愚か者の惑わしに連なってはいけません。

この方こそ、「安息日の主」なのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d5f2202bc Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream