”テキスト:ルカ2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」”
本日は「マリヤの胸をつらぬく剣」という題でメッセージしたいと思います。
かつてマリヤに対して語られた、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」とのことばを考えてみましょう。
テキストに沿って見ます。
”34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。”
この時、シメオンはマリヤに対して語りました。ですから、これは
マリヤに関する預言です。そしてその預言は第一義的には、イエスの母マリヤという2000年前の女性に
関する預言なのですが、しかし、そのことにとどまらず、マリヤの名をもって呼ばれる霊、もっと
端的にいうなら、マリヤの名の偶像崇拝、マリヤ崇拝に関しての預言ともとれるのではないかと
思われるのです。
その様な考えは、とっぴであり、恣意的であるとの意見もあるかもしれませんが、しかし、個人的には、
よくも悪くも聖書が語っていることを忠実に読みたいと思っているのです。
かつて私達はペテロに関する記述を見てみました。
その時、彼ペテロに関する多くの記述は単にペテロ個人に関するものというだけでなく、
さらにペテロの名をもって呼ばれる人々、すなわちペテロの後継者を自称するローマカソリック
法皇及びかれらに率いられるローマ教会に関する預言であることを見たのです。
このことは当初は突飛な考えの様にも思えたのですが、しかし、事実多くのペテロに
関する預言がペテロの後継者を自称する人々にも該当することを見たのです。
マリヤに関しても同じことがあるかもしれない、すなわち今、このカソリックの教会で、
大きく盛んになっているマリヤ礼拝に関して聖書は預言しているのかも知れない、
そしてこの箇所はその預言の一つではないのか、そう私は思っているのです。
「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」
この子とはもちろん主イエスのことです。この主イエスが現れた時代のことを
考えてみましょう。この時に関して、聖書は、「教会時代の初め」というより、「旧約時代の
終わり」という様にとらえているように思えます。聞いたことがないかもしれませんが、しかし、
このことはよくよく理解してください。主イエスの時代は明らかに旧約の終わりなのです。
イエスの時、この時、ユダヤ教の会堂があり、預言者(バプテスマのヨハネ)がおり、またモーセ、アロンに連なる祭司
がいました。この時は旧約の終わりなのです。
そのすぐ後のパウロの時になると状況は一変し、教会があり、牧師がおり、長老がおり、
執事がおり、宣教があります。逆にパウロのこの時は確かに教会時代のはじめなのです。
ですから、「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」とは、
要するに「旧約時代」というある時代の終わり、その世の終わり、時の終わりに
あらわれたナザレのイエスに関する説明なのです。
旧約時代の終わりにある一人の男の子が現れ、その子を基準にしてこの時代の
人々は区分、色分けされてしまう、ここではそのことを語っているのです。
そしてそれはまた別の時代の終わり、世の終わりに起きてくる男の子に関する
預言でもあります。それは以下の男の子のことです。
黙示録12:5「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
さて、ことばの意味あいを考えてみましょう。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ(set=用意され)」とはどういう意味あいなのでしょう?
いわんとしていることはこういうことです。
終末の日は、区分の日であり、ある人は立ち、しかしまた主につかない人は倒され、区分され、よりわけられ、
また洪水や地震のもとで倒されていく、そのことをいうのです。
そして、その区分、よりわけは一体何をもって行うのか?その試金石の様に用いられるのが他でもない、
この男の子であると、その様に聖書は語っているのです。
このことはまさにこの男の子、主イエスに関して成就しました。
イスラエルの人々は主イエスをどう取り扱うかにより明確に区分されました。
主につくペテロを始めとする12
弟子はたてあげられ、高められ、神の前に誉れを受けたのです。
しかし、この主イエスを否定し、攻撃した人々は皆、倒され、恥を受けました。
主が十字架につけられた後、イエスを否定したエルサレムの人々はその後、あろうことか、
偽メシヤを受け入れ、その甘言に乗り、ローマへの反乱に参加し、最後はローマ軍により
最後の一人まで、殺されてしまったのです。紀元70年のことです。
「また、反対を受けるしるしとして定められています。」
このことばは一見奇妙なことばです。約束された救い主である主イエスキリスト
に関して、シメオンはこの子は「反対を受けるしるし」であると述べているのです。
逆に「救いのしるし」「安息のしるし」とは述べていません。
ですから、これは旧約という「時代の終わり」にあらわれる男の子であるイエスキリスト
の特殊な使命に関して語っているのです。
「反対を受けるしるし」ということばを考えてみましょう。
たとえばその例はあのオーム真理教のA尊士でしょうか。彼はカルトの権化の
様にあらゆる人々から非難されました。
ちょっと話がそれますが、オーム真理教の事件も我々に伝えられている様な単純な
カルト事件というより、「ユダヤの真相を暴こうとしたオーム真理教」を
壊滅させるために、嘘つきユダヤがしかけた事件:という面があると多くの人が
指摘しています。詳しくはここでは語りませんが、それらしい点がいくつも存在します。
どちらにしても、ヒトラーといい オームといいマルコポーロ雑誌といい、乗っ取られた
阿修羅HPといい、偽
ユダヤの真相を暴くものは徹底的に壊滅させられるということが、今の世の常識であり、
定まった法則です。
ですから、いずれ、角笛HPといい、このHPといい、あらゆるもっともらしい
スキャンダル、おおがかりな工作で作られた事件、真偽こもごもな噂の中で消えていくかもしれませんし、また秘かになりすましに乗っ取られるかもしれません。
それらの偽りを信じる人々の方が多いのかもしれませんが、今はまだその時が来ていないので、この様に警告を伝えています。(2005/10/20:今は乗っ取られていません)
しかし、そうではあっても、かつての主イエスまたパウロが
危険の待ち受ける、エルサレム、そこにまっしぐらに向かった様に、主への奉仕の中には、
評判が落ちるだの、命があぶないだのそんなことを考えていてはできない奉仕があるのです。
話を戻しますが、主が「反対を受けるしるし」といわれた時、いいことで評判になるのでなく、
カルトのリーダーみたいに、悪者の代表みたいに扱われるということを語っていると思われます。
そして、そのことは成就しました。
福音書を見る限り、主イエスは、まさに悪逆カルトのリーダーの様に当時の宗教専門家達に扱われており、またその様に人々からみなされ、十字架につけられたのです。
同じことが終末にも起き、カルトグループとみなされる、しかし、実際は神の
みこころにそった、「男の子」があらわれるでしょう。
”
35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」”
さて、男の子があらわれる時、それはまた、剣の戦いが起きる時でもあります。
剣は御霊の剣すなわち、神のことばと書かれているように、みことばのたとえです。
すなわち、教理論争のことをさすのです。
その教理論争の中で、剣がマリヤの心さえ刺し貫くことをシメオンは預言しました。
このことは、かつて2000年前イエスの母として来た、マリヤに成就したとは思えません。
何故なら、イエスの母であるマリヤが剣で刺し殺されて死んだとは、誰も聞いてい
ないからです。それでは、
このことばはどの
様に成就したのでしょう?またはするのでしょうか。
私が思うにこのことばは、今カソリックでさかんに行われているマリヤ崇拝と
関係したことばではと思うのです。
多くの反キリストの働きがありますが、マリヤ崇拝もまた大きな反キリストの
ムーブメントです。反キリストというと、全くキリストの逆を行う、
悪の権化というニュアンスを感じるかも知れませんが、この語の意味あいは
そうでもありません。反キリストということばには、「キリストの代わり」という意味あいがあり、
キリストの代用となり、キリストになりかわり、その座を占めるものこそ、その反キリストなのです。
その意味あいを考えるなら、「かつて、キリストがいた時は彼が教会を治めていたが、
今は私が治める」なんてしゃしゃり出ているペテロの後継者こと、ローマ法皇は
まさに反キリストそのものです。
彼等はあらゆるみことばをすりかえ、地獄はない、創世記は神話だなどと、
すっかりキリストのことばを台無しにしています。
同じ意味あいで、今、カソリックで盛んに勧められている、マリヤ礼拝は、
まさに反キリストの働きなのです。キリストの代わりにマリヤに祈り、
求め、聞く、これはまさに反キリスト礼拝なのです。ロザリオ の祈りは、おもに、マリヤ
に祈る祈りなのです。
愚かなカトリック教会、みことばにつくプロテスタントの多くのクリスチャンの殉教の血を流したこの教会はその当然の報いとして、かくのごとく反キリスト礼拝に興じる様になったのです。
しかし、時が来ており、愚かな彼等が真理を知る時が来ています。剣の戦いが起きようとしているのです。
それは、みことば、教理に関する戦いです。
カトリック教会の中心に座して揺るぎのないこの悪霊マリヤ、ローマ以来の女神崇拝に
戦いを挑む、人々、勇士が現れてきます。
勇士は立ち上がり、捕虜とされた人々を奪いかえすようになるでしょう。
捕虜とは、情けなくもキリストとそのことばを投げ捨て、悪霊マリヤを神の霊と思い込む
盲人信者の群れ、愚か者のカトリッククリスチャンのことです。
彼等の多くは最後まで、おろかなままであり、悪霊と運命をともにするかもしれませんが、しかし、
立ち返る人々がいます。
戦いの一番槍はプロテスタントの群れから出るでしょう。そして、召された勇士はこの悪霊女の胸を刺し貫くでしょう。
その日こそ、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」とマリヤに対して語られた預言が成就する日です。
この悪霊女に対する戦いを始めるべく角笛はすでに吹き鳴らされており、この声を聞き分けた勇士は戦いの備えをなすべきなのです。
終末における主の御心を行いましょう。
ー以上ー