NO.465 主が出て来られる


”テキスト:ゼカリヤ14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。
9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。
11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。
12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。
13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。
14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。”

本日は、「主が出て来られる」という題でメッセージします。

終末の日に主が再臨するということは、誰でも知っていることです。
しかし、主は何故再臨するのでしょう?
その再臨の意味あい、理由についてこの箇所から学びたいと思います。
 

順に見ます。

”1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物(KJV:あなたが分捕ったもの)が、あなたの中で分けられる。”

主の日は世の終わりの教会に対する裁きの日です。
ところで、裁きがあるという時、その前提として、罪を犯す、
法律を犯すということがあります。ある人が裁判所で、
懲役10年という刑に処せられるという時、ただ、彼が普通に会社へ行っているだけでは、そんなことは
ありえません。しかし、彼がその会社への途中で
、強盗を行い、その上、人を殺せばこういう「裁き」はあり得るのです。
あなたから分捕った物(KJV:あなたが分捕ったもの)が、あなたの中で分けられる。」と書かれていますが、
終末の日の教会の裁きの前提として、まず冒涜の教会が、分捕りものを取り、
主につく人々を脅かしたり、逮捕するということがらがあるのです。
 
 


2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。”

ここに書かれているのは、たとえであることを理解しなければなりません。
終末ヨタ話をまき散らす、嘘つきの面々は、「文字どおり読む」こと、すなわち、たとえの
解釈を排除し、終末の日は、(偽)ユダヤ人が活躍する日だ、今の中東のイスラエル、
エルサレムが鍵となるなどとの大嘘を広めようと志しています。
嘘つきとは、すなわち、あのイエズス会士J.N.ダービー、スコフイールド聖書注解のスコフールド、ハルリンゼイ、
レフトビハインドと連なる終末空想話シリーズの面々です。

しかし、主はたとえの理解に関して語り、またマルコ福音書は、イエスに関して「たとえによらないで話すことはなかった」と語ります。
すなわち、終末のことばに関連して何とかしてたとえの理解を排除し、文字どおりの理解を
強制しようとする人々は、意図のある、また終末の日に関するみことばを曲げようとする偽りものなのです。

さて、たとえを理解するなら、全ての国々とは、キリスト教会の全ての宗派、教派ということでしょうか。
エルサレムとは旧約時代の神の民の国の中心です。今でいえば、
キリスト教会の中心に位置する人々、すなわち、もっとも神のみこころを行っている人々のことです。ですから、
「すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」とは、すなわち、全キりスト教会がこぞって中心の民、
これらの主につく人々を攻撃し、非難する日が来るということです。

「町は取られ、家々は略奪され」

町、家は教会のたとえです。ですから、すなわち、
終末の日の惑わし、また主につく人々をカルト扱いした、攻撃を受けるうちに
主につく人々も不安になり、確信を投げ捨てたり、不忠実になったり、妥協していくことを
いいます。

「婦女は犯される」

このことばを理解するカギは、教会のたとえとしての女性という
考えです。教会は、その夫であるキリストへの忠誠、貞潔を守るという
意味あいで女にたとえられます。ですから、婦女は犯されるとは、
終末の日の偽り、混乱の中で、わずかに残った純粋な人々、エルサレムに
比せられる人々もその貞潔を失っていくということをさすのでしょう。
別の表現でいえば、「選民をも惑わす」とのことばの成就です。

「町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」

旧約の神の民、北イスラエルも、ユダもアッシリア、バビロンへ捕囚となって、滅びに向かいました。
捕囚にはたとえの意味あいがあり、うまれ育った故郷の地から、全然別の地へ神の民が移されていくことをさします。すなわち、今の時代のクリスチャンが聖書の教え、キリストの教えから、全然別のニューエージ的教えなどへ
移されていくことをさすのです。

このことは今盛んにキリスト教会に起きており、ニューエージゆかりの心理学、
魔術的な教え、ヤベツの祈り、魔法の影響のあるハリーポッター、さらには、他宗教との
交わりと称して、仏教や、ヒンズー教まで、キリスト教会に持ち込まれています。
多元主義という教えです。ですから、
聖書的にいえば、すでにキリスト教会の多くの部分は捕囚となっているのです。
しかし、この日、残された人々、最後迄、忠実だった人々の半分までは、捕囚となり、
キリストの教えならぬ他国の教えにひかれていきます。
「しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」とあるので、最後まで、
残る人々がいます。

”3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。”

さて、この日こそ、「かつてなく、今後もない」といわれた大艱難の日であり、
多くの人々が、つまづく日なのですが、しかし、その時に主が来られる、
すなわち、主の再臨があるのです。
ですから、主の再臨は、艱難の前ではないのです。艱難のまっさい中、主の民がもうだめかと
あきらめかけたその時、天からの援軍があり、私達の唯一の救い主が
天からこられるのです。
そして、こららの惑わされたクリスチャンと戦われるのです。


4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。”

ここに再臨するのがかつて初臨したイエスキリストであることは
ここの箇所のオリーブ山ということばでわかります。何故なら、
かつて初臨の主が昇天し、かつ再臨すると述べたのは、まさしく、このオリーブ山のことだったからです。
以下の通りです。
 
 

”使徒1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。”
 

かつてオリーブ山から、昇天した主は「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでに」なるのです。
さて、明らかに主はオリーブ山に再臨することを聖書は語っているのですが、
しかし、このことの意味あいをどう考えればいいのか?
多くの人々は、このことばを文字通りに受け取り、中東のイスラエル、エルサレムの東に
あるオリーブ山に再臨すると理解します。

もちろん、そうである可能性が皆無ではないのです。100%そうではないとは私でもいえないのですが、
しかし、くり返すようですが、主はかつてたとえについて語り、
「イエスはたとえによらないで話すことはなかった」ことを聖書は述べています。
「文字どおり、オリーブ山に主が再臨する」という話に関してはもう我々はさんざん、聞かされてきました。しかし、今日はこのことのたとえの意味あいを理解したいと思うのです。

”その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ”

オリーブ山のたとえの意味あいは何でしょうか?
オリーブとはどういう植物かというと、御存知の様に、オリーブ油をとるものです。
オリーブ油は油であり、それはまた聖霊のたとえです。
ですから、オリーブ山はすなわち、聖霊に満たされた人々の集まり、教会とも理解できます。

ですから、ここでいわんとしていることは再臨の主はまず、その日、聖霊に満たされた人々の上に
こられるということです。

”オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。”

オリーブ山が2つに分かれる?このことにたとえがあるなら、その意味あいはどういうものなのでしょう。
南、北は聖書の中で、神の国、神の民の2つの区分をさすことが多いのです。
すなわち、神の王国である、イスラエル12部族は、北イスラエルと南のユダとに分かれていました。
現在の神の王国である教会も2つに分けられ、区分されており、北の国に相当するカトリックと南の
国に相当するプロテスタントに区分されています。

終末のその日、オリーブ山と称される聖霊を受けた神の民が現れますが、
彼等にも区分があり、それは北に分かれたすなわち、カトリックに属する人々、さらに
南すなわち、プロテスタントに属する人々、その様に区分されるのです。
オリーブ山が北にも南にもわかれていくように、その日、
カトリックまた プロテスタント、どちらにもオリーブ山すなわち聖霊に満たされた人々が
います。

”5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。”

アツァルとは辞書によれば、「保持された」という意味あいがあります。残りの人々、レムナントと関係のあることばでしょうか。そうなら、その日、オリーブ山に残る人々は、すなわち、残りの人々、レムナントのことを語っているという意味あいにとれます。

「地震を避けて逃げたように」

地震は家、都を揺るがします。だから、家、都にたとえられる教会を揺るがすという意味あいで
苦難、迫害を意味すると思えます。地震をさけて逃げるようにその日、主につく人々は、
迫害をさけて逃げるようになります。艱難の時には
地上のどこにも逃げ場所がないと見えても絶望してはいけません。艱難の時は制限されており(3年半)
主は助け主として必ず来られるからです。
終末の日に苦難、困難、迫害が主につく民にあるということは、聖書のあらゆる
ところで、語られている常識の常識です。このことはありえることであり、我々が艱難を通って永遠の
命を得るということは、聖書が明確に語っていることです。
ありもしない、起きもしない、幻、トンデモ話、空想話を語り、人々の信仰を撹乱する愚か者ども、艱難前だの、艱難中携挙だののよた話をあきもせず、語る役立たずな人々に惑わされてはいけません。
 

「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」

ここに来られる方は勿論、かつて昇天された主イエスキリストです。
しかし、ここでは、その様な呼び方をせず、「私の神」と語られています。何故か?いわんとしていることは、
我々が再臨の主を待ち望む時、この方は私の「神」であることを知らなければならないのでしょう。
私の「神」の意味あいは?
それは、かつてモーセ、イスラエルを追い詰め、紅海にまで迫ったエジプトの軍、その彼等を海の
深みに投げ込んだ、「神」なる方について語っているのです。
この方は神であり、我々が信頼し、頼るに値する方なのです。

その日、世界を偽りで惑わし、最後まで主につく人々を追い詰めようとする敵がおり、
その敵の力が圧倒的であり、主につく人々には何らの助けもないかと
思われたまさにその時、主が来られるのです。

「すべての聖徒たちも主とともに来る。」

これは以下のことばの成就でしょうか。

”1テサ4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 ”

続いて見ます。


6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。”

水は聖霊のたとえでしょうから、「エルサレムから湧き水が流れ」とはすなわち、
エルサレム、すなわち中心の民、まとはずれや罪の中にいない人々から、聖霊の働きが始まり、
東、西すなわち、東洋にも西洋にもその働きが広がるという意味あいでしょうか。


9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。”
 

今の時代は多くの主がおり、多くの名前が教会で語られる日です。
多元主義者マザーテレサ、すなわち、仏教もヒンズー教もオッケーのおかしな女の
名前が教会で誉めたたえられる今は情けない日ですが、その日、「御名もただ一つとなる」のです。
 


10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。
11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。”
 

アラバとは平らという意味あいです。ですから、この箇所は、「全土はゲバからエルサレムの南リモンまで平ら(アラバ)になる」という意味あいです。
残念ながら、この箇所も日本語聖書のみを読んでも意味不明です。
地が平らになるとは、バプテスマのヨハネに関連していわれる「山は低くされ、谷は埋められ、
まっすぐな道を用意する」とのことばと対応すると思われます。
ですから、多くの曲がり切った教理がその日、回復され、まっすぐな真理の道がエルサレムの民、
中心の民、的外れでない民に与えられるということをさしているのでしょう。

「エルサレムは高められ、もとの所にあって」

もとのところにあったからといって、当たり前のことの様で、あまりありがたいことには
見えないかもしれませんが、しかし、このことは偉大なこと、重要なことです。
この「 もとのところにある」ということばの反対語は、捕囚にされる、移されるということばでしょうか。その日、エルサレム、主につく民はバビロンやアッシリアへ捕囚される民とは異なり、
堅く主の前にとどまり続けるのです。そう、ユダ書にいう「聖徒にひとたび伝えられた信仰」に
とどまり続けるのです。
そして、それゆえ、とどまり続ける故、神の前に高められ誉れを受けるのです。
今、時代遅れだ、原理主義だ、カルトだとさえ非難される
みことばに忠実な人々はその日、主から誉れを受けます。

「11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。」
 

「もはや絶滅されることはなく」とは、逆に終末の日の主につく民を絶滅させようとの
企みがあることが想像されます。エステルの日の様な状況をさします。しかし、主はそれらの企みからみこころの民を守り、栄光を受けます。
 


12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。”
 

その日、「エルサレムを攻めに来るすべての国々の民」すなわち、主に最後迄堅くつく民に
敵対する神の民、キリスト教各宗派の間にわざわいが起きます。彼等の足は腐ります。
これはたとえか文字通りの意味あいかはわかりませんが、とにかくろくなことには
ならないでしょう。
彼等の足が腐る故、彼等のクリスチャンとしての歩み、行いはろくでもないものとなります。

また、。
同じく、目も舌も腐ると書かれています。目が腐れば見ることができません。それゆえ、
何が真理であり、何が神の前に正しいことなのか、これらの各派は理解できないでしょう。
同じく舌が腐る故、彼等はろくでもないことしか、語れなくなり、みこころの
メッセージなど教会から消え去ります。

”13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。”

これらのみこころの民を罪に定めるキリスト教各派は、お互いに争うようになります。
このことはかつての日、主イエス、パウロの時にも起きました。
主につく民の一人、パウロを中心にして、神の民の各派は大きな争い、大混乱に陥りました。
以下の通りです。


使徒23:6 しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」
7 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。
8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
9 騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。」と言った。
10 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。”

ここに書かれている神の民の争い、混乱はまた終末の日に世界のキリスト教会で再現されるのではと
思われます。


14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。”
 

神のみこころの国、ユダもその日には惑わされ、中心の民、エルサレムに戦いをしかけます。
同じ様に新約のユダであるプロテスタント各派もこの日、みこころの民を異端である、
聖書的でないと攻撃するようになるでしょう。戦争中、某大教団を始めとするプロテスタント各派が、
堅く聖書につくホーリネス教団の一部を切り離し攻撃したようなことなのでしょう。
しかし、それは彼等の裁きをもたらすでしょう。

「回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。」

ここでいう財宝とは、要するに宝の民のことと思われます。
このことの別の表現は、「み使いを遣わし、四方から選びの民を集める」との記述です。
多くのみこころの民が集められますが、彼等はまた財宝と呼ばれます。
 

まとめますが、終末の日、その日は、神のことばに最後まで忠実な、そしてそれゆえ、
かつてなく、今後もない艱難に入る人々を助けるために他でもない主が出てこられる日であることをよくよく理解しましょう。もし主が出てこられるなら、そうであるなら、その時、私達はこの方を敵にしてどうして、
災いを受けずにいられるでしょうか。彼に敵対する、それは恐ろしいことなのです。しかし、
このこと、主に敵対することはかつて起き、主につく人々、ナザレのイエスを中心とした
「カルト」に敵対、これを攻撃した人々はかえって、ことごとく滅ぼされてしまったのです。

終末の日に再度主が出てこられます。私達はこの方を恐れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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