NO.463 再び来て農夫をほろぼす


”テキスト:マルコ12
:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。
9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。
10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。
11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。”

本日は「再び来て農夫をほろぼす」という題でメッセージしたいと思います。

主の再臨に関する一面を見ていきたいと思うのです。

順に見ます。


:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。”

「ある人がぶどう園を造って」と書かれています。このぶどう園は、旧約の民の集まり(集会:教会)
のことと思われます。このある人とは当然、神御自身のことです。
そしてさらにこのぶどう園は、また新約の教会のたとえです。何故なら、
主が「私はぶどうの木、あなた方はその枝です」といわれた様に我々クリスチャンは
ぶどうの枝に例えられるからです。

「垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て」

垣は、ぶどう園とその外側を区分するものです。この垣により、園は
外の獣などから、ぶどうを守ることができます。
これは外敵から教会を守る使徒、牧師の働きでしょうか。それを神は教会に備えました。
また、酒ぶねは、ぶどう酒、すなわち、聖霊の働きと関係しています。
ですから、神は教会の中に豊かに聖霊の働きを備え、整えたということなのでしょう。
また、やぐらは敵を見張るものです。長老には、「遠くを見通す」という意味があります。
ですから、教会に長老職をたて、教会を攻撃する外敵の働きを見破るように、
備えたということなのでしょう。
当初の教会にはこの様に至れりつくせりの神の備えがあったのです。

「それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」

農夫はこのぶどう園の働き人のことです。旧約の集会:教会においては、
祭司、律法学者、パリサイ人など、すなわち、礼拝や、捧げ物にたずさわる人々をさすのでしょう。
また、新約の教会においては教会や集会のために奉仕する人々、すなわち、働き人、牧師、
聖書学者等をさすのでしょう。

「貸して」

教会は、すなわちぶどう園は誰のものか?
俺が開拓したのだから、俺のものだ。そういう意見もあるかもしれませんが、
聖書的にいえば、ぶどう園の持ち主は主人、神であり、キリストです。
牧師、働き人は、それでは何かといえば、ぶどう園を借りた者に過ぎません。
この時、借り主である農夫達に求められることは主人に忠実であること、当初、
キリストが建てた教会の教えをそのまま守ることです。決して、わけのわからない
神学や新しい教えにまどわされ、当初のすなわち、使徒やキリストの時代の教会からずれては
いけないのです。
新正統主義なんて、紛らわしいことをいう嘘つきの教えに惑わされてはいけないのです。

「旅に出かけた」

旅に出かけたとは、主人が後をまかせて、去っていくことです。
そして、旅である以上、また主人は帰ってくるのです。
それで、このことばこそ、キリストの昇天、また再臨を理解する鍵となることばです。
かつて、主が復活、昇天し、天に行かれた時、
天使はこう語りました。
 

使徒1:11”そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

すなわち、イエスは行ってしまった、去ってしまったということばかりに気をとられるな、
いずれ、戻って来る、帰ってこられると強調しているのです。
これは、上記、「旅に出る」という表現と似ています。
ですから、我々は、終末、また現在の教会はどうかなどと考える時、主人の視点、
また、もう一度、戻ってこられる方に関して考えるべきなのです。

確かに主はかつておられ、今はおられないように見えますが、(実際は世の終わりまで、
教会とともにおれれる)、しかし、いずれ、
戻ってくるということ、今はつかのまの不在に過ぎないということを考えるべきなのです。
つかの間の不在である以上、今、主人の不在をいいことにとんでもないことを
いい始めている人々、すなわち、神の死の神学だの、史的イエスだの
カルトバルトだの、みことばと食い違うことをいっている人々は、いずれ、帰ってきた、
主人にいい開きをするようになるということを知るべきなのです。

このイエスは確かに旅に出た、しかし、いずれ戻って来る、帰ってくるとは聖書の中を一貫して
流れる教えであり、主張です。
 

黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
 

黙示録22:20 「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」

私達はこの視点で今の自分の歩みを考えなければなりません。
S先生が本日をもって退職し、もう2度と会う機会もないなら、S先生が出した
宿題ももうしなくてよい、そんなことを気にする必要もないかもしれません。
しかし、逆にS先生がいないのは、旅に出かけたからであり、
1週間もすれば、戻って来るというなら、きちんと宿題をしあげないと
叱責されるし、成績もさがる、場合によっては罰を受け、落第するかもしれないので、
「いわれたこと」はやっておいた方がいいのです。

今の教会はどんなものでしょう。イエスの不在をいいことに、実は「イエスは神の子でもなんてもない」とする「非神話化」などという、冒涜神学まで、出ており、もうしっちゃかめっちやかな
冒涜と混乱の中にいるのです。これで、主人が帰って来て、何らのおとがめもなければ、
それこそ「奇跡」と思える程、混乱のきわみの中にいるのです。


2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。”

さて、ここに書かれているのは、とんでもない冒涜農夫、反逆農夫の話ですが、しかし、
いつでも教会は冒涜農夫ばかりだといっているわけではないのです。逆に、「季節になると」との
ことばの様にある「季節」になると、農夫は変質し、冒涜、反逆的になるのです。
それまではまともなのです。さて、それは
どんな季節なのでしょう。「収穫の分けまえ」とのことばからわかるように、これは、
収穫の季節、一年の終わり、すなわち、終末の季節に関する話なのです。
その日、教会は変質し、主人すなわち、キリストの思いとかけはなれ、逆に反逆をきわめるようになります。

”3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。”

変質し、曲がり切ったぶどう園の農夫達は、あろうことか、神のしもべを袋だたきにしました。
彼等は全く、別人の様
になってしまったのです。くり返しますが、農夫は、ぶどう園で働く者たち、旧約においては、
祭司や、律法学者たち、新約においては教会の働き人です。彼等は
当初の状態と変わり、悪らつになり、忘恩になり、主人の益にならず、
むしろ害になるようになりました。

このことは聖書で預言されており、また今、教会で起きていることです。
かつてのペテロ、ヨハネ、パウロの様な忠実な働き人とは異なり、今の教会すなわち、
ぶどう園の農夫は、忠実な主のしもべを原理主義者だの、カルトだのと呼ぶ人に満ちています。

「何も持たせないで送り帰した。」

ぶどう園とはすなわち、ぶどうが実るところです。ぶどうの
実は御霊の実に通じます。今のぶどう園には、聖霊の働きは消え、その結果、実はなく、
しもべに、「何も持たせないで帰る」
ことになります。

”4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。”

旧約の歴史とは、すなわち「多くの神のしもべが送られたが、みな、袋だたきにしたり、殺された」という歴史です。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等多くのしもべが送られましたが、
当時の宗教指導者や、祭司達は預言者にはきかず、むしろ彼等を辱め、殺したのです。

新約の歴史も同じです。ローマ教会の偽りをただすために遣わされた多くの神のしもべがいましたが、
多くは、異端扱いされたり、殺されたりしました。


6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。”

多くの旧約の預言者が送られた後、最後に送られたのが、愛する息子、神の子イエスキリストなのですが、しかし、祭司達、律率学者達は彼を都の外、すなわち、ぶどう園の外で殺しました。
 

新約の終わり、終末の日においては、「愛する息子」とは、
黙示録に記された「男の子」であり、彼等は14万4
千人の油注がれた人々、殉教者です。彼等はぶどう園の外、すなわち、
教会から追い出され異端として殺されます。


9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。”

さて、このことばです。再臨とは、すなわち、ぶどう園の主人が戻って来る日であると
聖書は語っているのです。
ぶどう園、すなわち教会の主人とは、「私はまことのぶどうの木」といわれた主イエス御自身です。
その日、主人が帰って来た日、忠実な人々、みことばを堅く守り行っていた人々は賞賛を受けるでしょうが、しかし、不忠実な人々は罰を受けます。

ここで書かれている「主人が戻って来て農夫どもを打ち滅ぼす」という表現は、
再臨の恐ろしい面、裁きや報復について如実に語っていることを明確にとらえてください。

多くのことばが曲げられ、道が曲げられている終末の教会においては、
再臨の教理も同じく曲げられており、全く逆のことがいわれています。
それは、祝福の時だとか、何か浮ついたことをいう人も多いのです。

しかし、聖書の多くの箇所によれば、再臨は明らかに報復の日、裁きの日であり、不忠実な働き人が
何と打ち殺される日だと語っていることを知らなければなりません。

「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

かつて旧約の農夫達、祭司達は捨てられ、ぶどう園、すなわち、教会は
異邦人に与えられました。同じことが終末に起きるでしょう。
今、不忠実な教会の働き人から、教会が取り去られる日が来るでしょう。

彼等は教会の形はあっても実際は教会ならぬものに仕えるようになるでしょう。

”10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。”

日本の家と違い、イスラエルの家は石づくりでした。
白いエルサレムストーンを積み上げてつくります。家をたてる大工はだから、
石選びの専門家ということでしょうか。彼等は自分の目で見て、
「使えそうな石」はとっておき、「どうにも使えない石」は、
捨て去ります。

さて、現在における、
家を建てるものとは、すなわち教会を建てるもの、すなわち、教会における有力者、
代表者ということでしょうか。

彼等は人を見る目があると自称しています。彼等の目にとまらない、価値あるものとおもわれない
人々は、捨て去られます。

かつての日、家づくり達に捨てられた人は、ナザレのイエスであり、また彼につく
ペテロ、ヨハネなどの弟子です。

彼等は祭司達、
パリサイ人などの家つくりから捨てられました。
しかし、神は彼等、イエスとその弟子を選んでいました。結局、教会という大きな家、現在20億人をも擁する
大きな家の土台、隅のかしら石にはこの捨てられた石、主イエスがなられました。

さて、終末の日にも捨てられた石の預言が再現するでしょう。
その日、神にえらばられた真のかしら石たる人々は、教会から捨てられるようになるでしょう。
 
 
 


11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」”

神のなさることは不思議であり、思いもかけないことです。私達は決してこの方を
あなどってはいけません。かつての日、ナザレのイエスの登場方法は、人の目には
不思議であり、多くの者がつまづき、倒れました。
同じことが終末にもくり返されるでしょう。
その日、神の働きをになう人々の出現は人の目には、「不思議なこと」と思われるでしょう。
 

”12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。”
 

彼等、祭司長、律法学者達は、このたとえが自分達をさしたものだと理解しました。
このことは正しくまさしく主は彼等について語っていたのです。
しかし、彼等は頭で理解しただけであり、悔い改めたわけでもなく、歩みを改めたわけでもありません。
逆にこのたとえどおり、この後神の愛する息子、イエスを殺し、
「戻ってきて農夫達をうち滅ぼす方」により、打ち殺されました。

キリストの十字架の死から丁度40年後、西暦70年に起きたエルサレム攻撃により、
この都の人々は最後の一人まで殺され、打ち殺されたのです。まさに、
「戻ってきて農夫どもを打ち滅ぼす」とのことばは成就しました。

さて、かつて起きたエルサレムの滅亡はしかし、型にすぎず、この本番の成就は終末に起きます。
今、ぶどう園の農夫達、教会の働き人は、冒涜の限りを尽くしており、主のしもべをカルト扱いまでしています。悪霊を聖霊と呼んでいます。

主人が帰る日、「戻ってきて農夫どもを打ち殺す日」すなわち、再臨の日は近付いていることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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