NO.462 宮きよめ


テキスト:”マルコ11:
15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人(moeny changer)の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16 また宮を通り抜けて器具(vessle: 器:KJV訳)を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。”

本日は「宮きよめ」という題でメッセージします。
主のなされた「宮きよめ」に関するたとえの意味あいを見ていきたいと思います。
順に見ます。


15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、”
 

まず宮とは何かということですが、旧約聖書を見てもわかるように、宮において
人々は神に会います。
今の時代、人々は、教会において神に会います。ですから、宮は神に会う、神に礼拝、祈りをささげる
ところとして、現在の教会に関するたとえと理解できます。

かつて、イエスの時代に宮から追い出された人々がいたように、終末の時代にも、
神の前から追い出される人々がいます、この宮きよめの話は、そのことの予表、型です。
彼等の問題点は何か?それをこの箇所は語っています。

「鳩を売る者たちの腰掛けを倒し」

ここに追い出される何種類かの人々がいます。それぞれの
意味あいを考えたいと思います。わかりやすそうな例として、鳩を売る人、鳩売り商人のことを
考えます。この人々は何のたとえでしょうか?

鳩は主イエスがバプテスマのヨハネにより洗礼を受ける時、「御霊が鳩の様に下った」との
ことばから、聖霊に関するたとえと思われます。
鳩を売るものとは要するに聖会屋のことと思われるのです。
もちろん、彼等が本当に聖霊に関わる奉仕をしているのなら良いのですが、
しかし、高い入場料をとりながら、その実、悪霊の器、ベニーヒン等の器を宣伝する
人々には問題があります。

彼等は、主イエスにより、その腰かけを倒されてしまいます。
上記腰かけと訳されていることばは、以下の「座」ということばと同じギリシャ語です。
 
 

マタイ23:2「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」

ですから、これらの悪霊の鳩の売り買いに従事している人々は、神の前のあるべき座から外されてしまうということを語っているのです。たとえ、人前では、良い肩書きを持っていても、
神の前では、移され、その働きは他のものに取られてしまうようになるでしょう。

「売り買いしている人々」

宮の中で売り買いする人々も主により追い出されました。宮から追い出された以上、
彼等は神の前、キリストの前において、宮に属する者とはもうみなされなくなった
わけです。

そうです、
もう彼等は礼拝者、神の前に敬けんな信仰者とは、認められなくなってしまったのです。
さて、売り買いということばは語られていても一体何を売り買いしているのかは記されていません。
ですから、ここで大事なことは、「売り買い」ということば自体であることがわかります。

売り買いということばの第一義は、パンや酒を「売る、買う」ということ、商品売買のことです。
しかし、このことばには、たとえの意味あいがあります。
聖書でいう、あがないもまた「買い取る」という意味あいであり、これも売る、買うということばと関係があるのです。ですから、宮で売り買いしている人々とは、要するに教会でいう伝道会や、クルセード
に従事している人々という隠れた意味あいがあるのです。
「伝道会や、クルセードに従事している人々が宮から追い出される?とんでもない
解釈だ」という人もいるかもしれません。

そう思うのももっともですが、そうでないともいいきれません。
かつての日、キリストから宮すなわち、神の前における祭司、礼拝者の位置から
追い出された人々がおり、その彼等は宮や会堂に熱心に来ていた、律法学者や、パリサイ人、
祭司だったのです。彼等は神の前から追い出されました。このことが現代に再現されないと誰がいえるのでしょう。

しかし、伝道会や、クルセード
に従事している人々が何故宮から、追い出されるのか?
その理由は後の節に書かれているように、彼等が宮、すなわち、教会を祈りの家とはせず、
逆に強盗の巣すなわち、みことばを盗む人々でみたしたからです。
 

今はどの様な時でしょうか?伝道が強調され、教会成長が奨励される時です。
たしかにこれは大切でしょう。しかし、ものごとには優先順位があり、なくてならない
大事なことはいくつもありません。
今はパーバスドリブンチヤーチ、目的主導型教会などと恐るべき教会、目的が手段を正当化するとでもいいたいかの様な教会が登場する時代ではあります。しかし、神はその様なこと、人さえ、増えれば、
みことばと多少あわなくてもいいなどとは決していわれません。
逆に、強盗すなわち、みことばを盗む者達は、宮から神の前から追い出されてしまうことを知るべきです。
そう、たとえ私達が宮で、売り買いに従事しているもの、伝道に従事しているものであっても、
目的が先、人を増やすことが優先され、みことばを変えたり、盗んだりを続けているなら、いずれ、
宮から、キリストの前から追い出されるようになることを知りましょう。
 
 
 

”両替人(moeny changer)の台”

上記「台」ということばは以下の食卓と同じギリシャ語です。
 

マタイ15:27「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の<食卓>から落ちるパンくずはいただきます。」
 

ですからこのことばは、食卓をもさすのです。
主が両替人の台を倒した(なげた)ということは、すなわち、彼等の食卓を倒した(なげた)という意味あいもあるわけです。

食卓とは、このギリシャ人の女のいう通り、パンを食べるところ、またぶどう酒を飲むところです。
そして、もしその食卓を倒され、投げられたらどうなるか?
もう食事ができなくなります。かつて、巨人の星というマンガが日本では有名で、そこに
頑固一徹の親父、星一徹という父親が出てきました。この
父親は怒るとちゃぶ台、すなわち、食卓をひっくりかえして、倒してしまいます。
ちやぶ台、すなわち、食卓を倒すとどうなるか?当然、食卓の上のちゃわんも
ごはんも倒れて、せっかくの食事を食べられなくなります。

ですから、かつての日、台を倒された両替人はすなわち、終末の日に、主の前のパンにもぶどう酒にも、
すなわち、みことばにも聖霊にもあずかれなくなる人々の型なのです。
 

両替人ということばにもたとえが隠されているのでしょうか?
両替人とは、英語でいうmoeny changer、すなわち、お金を交換する
人々のことです。両替人の何が問題なのでしょうか?
両替えは、売り買いと関係したことがらです。
主が私達をあがなう代金はすでに
決まっています。金の種類は決まっており、金の金額も決まっているのです。
しかし、両替え人は、1ドル=130円など、その金を他の金と変えること、変換することをもって、なりわいとしています。
すなわち、彼等はあがないの金の金額を変え、またその種類を変換するのです。
具体的にはどんな人が両替え人、金を交換する人なのでしょう。

たとえば、エホバの証人の人々のことでしょうか。
聖書は価なくして救われる、あがなわれると書かれているのですが、彼等は
その金を変換して別の金を渡します。すなわち
行いを要求し、奉仕を要求するのです。
両替え人のたとえの意味あいはこの様なものと思われます。
またこの変換は正統といわれる教会、たとえば、カトリックでも
行われています。

これらの金を変える人々を主はどう思っておられるのか?
この宮きよめの箇所が明白な解答であり、主はこれらの働きを憎んでおり、
宮から追い出してしまうのです。
これらのお金の兌換に関係している人々は、いずれその台、食卓が倒され、
神のみことばの恵み、聖霊の恵みから外されるようになることを知りましょう。
 

”16 また宮を通り抜けて器具(vessle: 器:KJV訳)を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。”

ここで器具と書かれたことばは、KJVでは、Vessleすなわち、器と書かれています。
すなわち、人間の器のたとえです。

ここでの問題点、たとえは何でしょう?
想像できるのは、器崇拝のことです。宮すなわち、神を礼拝する場所において器を運ぶことを
禁ずるとは、すなわち神を礼拝すべき、教会で、器を運び、器を重視し、器礼拝に
至ることを主イエスは禁じられたと理解できます。
そうこの箇所はまさに器崇拝に関することがらなのです。

今さかんに行われている悪霊の器、ベニーヒンを宮、すなわち教会で拝すること、
また悪霊の第3の波のピーターワグナーなどを教会で崇めることは、主により禁じられているのです。

さて、これらの人々は、主イエスにより宮から追い出されてしまいました。
このことの意味あいを考えましょう。
このことはかつて主イエスの時代に実際に起きたことです。しかし、それにとどまらず、これは、また未来に関する予言とも理解できます。すなわち、終末の日、宮、神の前から追い出されてしまう、礼拝者の位置から追い出され、外されてしまう人々がいる、そんな風に理解できます。
そして、このことを知りましょう。主イエスは神であり、神が追い出したなら、
もう誰も宮に戻ることはできない、礼拝者の位置に戻ることはできないのである、そのことをです。

今はまさにその時代であり、多くの人が宮から追い出されているその時代と思われます。
はっきりいいますが、ベニーヒン、ビルハモンだのの悪霊の器を拝する人々は、
もう宮の外に追い出されつつあります。誰によって?もちろん主によってです。
そして、主が追い出したのなら、もう誰も戻ることはできないのです。

”17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」”
 

ここで主は人々を追い出しなおかつ、彼等の問題点を語っています。
一つは「祈りの家と呼ばれる」といわれたように、彼等が神の前に祈ってはいないということです。
今でいえば、教会から祈りが消えたことそれゆえ、宮から追いだされるということなのです。
宮に仕える祭司の大事なつとめは香を
たくことであり、これは祈りのたとえです。
もう一つは、彼等が宮を強盗の巣としたことです。
強盗とはみことばを盗むことのたとえです。

今の宮、教会はみことばを盗む人に満ちており、大事なみことばはどれも骨抜きにされています。


”18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。”
 

この様な警告のことばを聞いた祭司長、律法学者たちは悔い改めて、宮を祈りの家とし、みことばを
盗むことを止めたのかというと、そうではありません。
逆にことばなる方イエスを殺すことを画策しました。
そして、事実それを実践しました。
彼等はその後、さばきに会いました。

終末の教会も残念ながら、同じ様な道を歩むことが予想されます。
悔い改めない道、
そう裁きに会う道へと進んでいくのでしょう。
私達はこの女、バビロン化した教会から、
離れること、災いに巻き込まれないように、求めるべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d54e1202bc Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream