NO.461 子牛を拝する〔3)

”テキスト:出エジプト32:
21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」
22 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。
23 彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
24 それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」
25 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。
26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」
30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら「「。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。
34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」
35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。”

本日は、「子牛を拝する〔3)」として、このテーマをさらに見ていきたいと思います。

テキストを順に見ます。

”21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」”
 

モーセはアロンに対して怒りをもってこの罪をただしました。
アロンはモーセの兄であり、人間的にいえば、立場が逆転していますが、この様な人間的な
ことにあまりとらわれると聖書のポイントからずれます。

アロン、モーセはそれぞれ、聖書において象徴的な人物であり、モーセは律法の石の板で象徴されるように、神のことば、すなわち、聖書、みことばを象徴する人物です。
逆にアロンは、明らかに祭司を象徴する人物です。祭司とは、幕屋に仕え、ささげものをささげ、また香をたくもの、すなわち、礼拝を象徴しているのです。

モーセ、アロン2人の登場人物のうち、モーセは決して子牛を拝んでいない、しかし、
アロンは逆に子牛礼拝に積極的に荷担していることを見ます。
これらは暗示的であり、預言的です。
教会の歴史においても、みことばが子牛礼拝、器崇拝を勧めることは決してない、
しかし、その礼拝は変質し、器崇拝、子牛礼拝になる可能性は大いにある、そのことをさすように
思われます。
 

”22 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。
23 彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』”

彼等は子牛を作ってくれとアロンに頼みます。アロンは礼拝、祭司、牧師を象徴する人物です。
子牛を作るその理由として彼等は、「あのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と語ります。すなわち、子牛礼拝とモーセとが対照的に語られているのです。
この2つは確かに対照的であり、今でも対照的です。
モーセはみことばを象徴する人物であり、今の時代も、みことばを信じない、たよりにしなくなった、
民はおしのべて子牛、すなわち、器崇拝に走るからです。
 


24 それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」”

子牛を礼拝しようとする民に対して、アロンは金を取り外すように命じました。
逆にいうと、子牛礼拝、偶像崇拝、器崇拝に走る民はみな、金を外すようになるのです。
金と器崇拝とは両立しないのです。何をいっているのでしょう?
金は信仰をたとえています。ですから、見える偶像、器を崇拝する民はみな、金、信仰を失い、
捨て去るようになる、そのことを語っているのです。

まことにこのことは真理であり、偶像崇拝に走る民は、みな、見えない神への信仰を捨て去sるようになることをはっきりと理解してください。

第3の波系の人々、ピーターワグナー等がしようとしていることも
まさにこのこと、子牛、偶像、器を強調し、みことばを曲げ、見えない神がかたられたことばへの
金の信仰を投げ捨てさせようとするたくらみであることを知ってください。

彼等はベニーヒン、ロドニーハワードだの、多くのしるしと不思議を行う器を強調します。
そして、その一方、神のことばを、教理をかいざんし、
キリストは霊として来臨する、すなわち、かねてからヨハネの手紙で預言されていた、
「人として(肉体を持って)来臨するキリストを否定する教え」を語っています。

ピーターワグナーやら、パーパスドリブンチヤーチ、サドルバック教会等がいう、
第2の宗教改革、トランスフオーメーション、パラダイムシフトすなわち、
変革とは、良い変革が起きるどころか、公然とみことば、教理を変え
る日がくることを語っていることを
知るべきです。

モーセ、アロンの時代よりこの方、子牛を礼拝させる方法こそ、人々から、金、信仰を投げ捨てさせる方法なのです。

”25 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。
26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。”

さて、この様な子牛礼拝、偶像崇拝に対して、モーセの側からの反撃がおきました。
その方法は、腰に剣を帯び、民を刺し殺すという方法です。
文字どおり考えれば何とも物騒な方法ですが、今の時代の我々に対しては、
たとえの意味あいがあるように思われます。

剣は、「御霊の剣、すなわち、神のことば」というように、 みことばのたとえです。
ですから、この剣を使うということは、すなわち、みことばに関する論争、戦いに
入れ、戦いを挑めということなのでしょう。

この日、モーセにつく人々は、子牛礼拝を行った、自分の兄弟達に対して、
剣を振るいました。このことは、人の目からはよろこばれませんが、しかし、
神に喜ばれることです。同じく、終末の日、すなわち、あらゆる種類の子牛礼拝が行われる時代には、
求められることなのです。
獣のペンサコーラリバイバルを推進し、ニューエージめいた ロバートシューラーなどに入れ込む、
困った韓国大教会牧師、ヨン様の乱心を誰もいさめようとしません。

逆にこの牧師先生様をみことばより優先する愚かな韓国クリスチャンやら、追随日本人
牧師が多くいます。しかし、みことばとぶつかる教えを語る者をいさめ、その
偽りをただす人々こそ、この時代の真のレビ人であることを知りましょう。
 

”29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」”

この日、レビ族はえらばれ、12部族の中で、主につく(レビ)部族として唯一選ばれました。
その彼等が選ばれた理由は、「おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげ」たことだということを知りましょう。子牛礼拝に反対し、剣をとって、戦うものこそ、レビ、
主につく民の条件なのです。

嘘つき男、JNダービーや、その追随者、ウオッチマンニー、中田重治またスコフールド注解書の
スコフイールドなどをみことばより優先し、みことばと全く正反対の主張、キリストが
2回にわたって再臨するとのヨタ話を主張する人々は、子牛礼拝者、役立たずとの名前は
頂戴できても、
レビ族である資格は皆無です。
 
 
 

”30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら「「。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。”

モーセは民の罪のため、自分の名前をいのちの書から消しさってでも民を許してくれるよう
頼みました。
これは、命をかけて我々をあがなったキリストの型なのでしょう。ここで、覚えておくこと、知るべきことは、私達は主を信じ、命の書に名前を記されたものだとしても、しかし、その名を消される可能性もあるということです。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」と
神はいわれるからです。

たとえば、私達が高校の入学試験に受かれば高校生です。名簿に名前が載ります。しかし、そうだといっても安心できず、
場合によっては、名前が消され、学校から籍を消されることもありえるのです。
万引きやら、刑事事件等を犯したり、または出席を全然しなかったりすると、学校から、籍を消されることもあり得るのです。

キリスト教会に伝わる大きな誤解教理は、「人は一度クリスチャンになったら、何があっても
どんな罪を犯しても永遠の命から外れることはない」という都合のよい教理です。
しかし、この教えは明らかに聖書の主張と矛盾しています。

聖書は「一旦書かれた名前が神の書物から消し去られること」を明確に語ります。また、
キリストの花嫁である教会、クリスチャンが離縁される可能性があることを明確に語ります。
また、我々は確かにロマ書によれば、「神の子」とされたものですが、
その「子」と訳されたKJVの単語は、step-childすなわち、「養子」のことであり、
これは、「本来は子」ではないのに、子とされたすなわち、あまり行いがよくないと、「養子」の
地位から、外されてしまうことをも暗示しているのです。

間違えてはいけません。聖書は至る所で、「その歩みから外れ、神との契約を破り、
罪を犯す」クリスチャンが、離縁され、養子縁組みを解消され、命の書から名前を消されることを語っているのです。

34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」
35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。”

神はモーセに民を導くように語ります。
モーセは律法を代表し、みことばを代表する人物なのですが、
しかし、終末の民はもう律法にきかず、みことばにきかなくなります。
彼等に対する裁きは神のことばに基づいて行われることを知りましょう。

子牛を礼拝し、みことばから外れることにはみこころがないのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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