No.460子牛を拝する(2)

〜子牛を拝する件をさらに見ていく〜

 

【テキスト】出エジプト記32:1120

11.しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

12.また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

13.あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」

14.すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

15.モーセは向き直り、二枚のあかし(KJV: Testimony:宣誓)の板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。

16.板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

17.ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」

18.するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」

19.宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

20.それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

 

本日は「子牛を拝する()」としてこの件をさらに見ていきたいと思います。テキストを順に見ます。

 

11.しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

 

ここで、モーセは神の前に立ち、民のためにとりなしています。なぜなら、神はこの民を滅ぼそうと怒りを発したからです。なぜ、神は怒りを発したのか?それは彼らの偶像崇拝、子牛礼拝のゆえです。

 

それで、私たちは偶像崇拝の罪、子牛礼拝の罪に関して、よくよく理解せねばなりません。この罪は教会を滅ぼし、クリスチャンに対する神の怒りを招きついには滅びをもたらすのです。

 

偶像礼拝、子牛礼拝とはすなわち、今の時代で言う、器崇拝のことを言うのです。

 

終末の日、愚かな神の民はこの荒野の日と同じように、神の怒りを引き起こし、自らを罪ある者と定めます。

 

それはサタンの巧妙な方法による偶像崇拝、器崇拝の罪であり、その日、彼らは反キリストを拝するようになるでしょう。反キリストということばには、「キリストの代わり」という意味があり、人々は、その日、巧妙に惑わされ、子牛を拝するようになります。

 

もう、すでにその兆しはあらわれており、ベニー・ヒン、ローマ法皇など、御言葉と違うことを語る人物を人々は熱狂的に受け入れ始めています。

 

12.また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

 

「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」とモーセは語りました。このとりなしがなければ民に神の怒りが臨み、神の災いが下ったはずなのです。何と偶像崇拝の罪に対する神の怒り、憤りは大きなものなのでしょうか。

 

今の時代は神の怒りを招く時代であり、あの子牛礼拝、ビリー・グラハム礼拝により、この国の教会にも神の怒りが臨みつつあります。

 

ビリー・グラハムは、福音派で名前のよく知られた人物ですが、しかし、多くの偽りをもって、福音派を惑わした人物でもあります。彼は「ローマ法皇、ローマ教会には何らの問題もない」と語り、多くの子牛を拝む福音派の面々を偽りの同盟、罪人との連帯、エキュメニカル運動へと引きずり込みました。

 

しかし、事実はカトリックには多くの問題があり、「進化論は科学的(創世記は神話)」と語る、前ローマ法皇は不信仰な愚か者なのです。それなのに、聖書より、子牛、ビリー・グラハムを優先する愚かな日本のクリスチャンは彼に追随していきます。

 

13.あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」

14.すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

 

モーセのとりなしのゆえに偶像崇拝に興じた民はその罪を許され、命をながらえました。モーセとは、神の前にとりなしを続ける方、イエス・キリストの型です。

 

多くの器を偶像崇拝し、御言葉をないがしろにした私たちが今だに滅びないのは、この方のおかげです。しかし、いつまでも偶像崇拝の罪を続けてよいはずもありません。この罪から離れるべきです。

 

15.モーセは向き直り、二枚のあかし(KJV: Testimony:宣誓)の板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。

 

モーセは2枚のあかしの板を持って、山から降りました。この2枚のあかしの板に関するたとえがあるのでしょうか?

 

まず、理解できることは、この2枚のあかし、証言、宣言ということばは、2つの証し、testament,すなわち旧新約聖書とよく似たことばだと言えることです。尚、新約(testament)新しい「証し」は誤訳、本来のギリシャ語、diathekeの意味合いは、英語で言うcovenant「契約」という意味だとのことです。

 

この2枚の石の板が実は2枚の証し、2つの契約である旧新約聖書を指しているとして、それを通して何を神は語っているのでしょうか?私にはこんな風に考えられます。

 

神の掟、律法は神のもとにあったのですが、誰もそれを見たことも読んだこともなく、従って、誰もそれを知らなかったのです。

 

しかし、ある日、一人の人、モーセが石の板に記した律法を持ち帰って以来、その日以来、民は神のことばをその目で見ることができるようになりました。

 

この石の板が持ち帰られることにより、天の神の律法は地上の人々に伝わるようになりました。同じ意味合いが旧新約聖書にはあると神は語っているように思えます。

 

私たちが手にしている聖書、すなわち旧新約聖書として2つの部分に分けられた書こそ、実は2枚の石の板で象徴される神のおきてであり、それにより私たち、地上の人々は、天の神の教えを知ることができるのです。

 

そして、その偉大なわざ、神のことばを持ち帰るわざは、一人の人、モーセすなわち、モーセにより象徴されるイエス・キリストを通して行われたのです。

 

ここで理解しなければならないのは、聖書、すなわち、2枚のあかしの板で象徴される書物の特別な意味合いです。

 

世界にはあらゆる種類の書物があります。歴史、文芸、化学、政治そして宗教の経典も数多いのです。しかし、それらの万巻の書と、聖書とには異なることが一つあります。

 

それは、モーセが神と会い、山から持ち帰ったのは、他でもない、この2枚の石の板、あかしの板だけだったということです。すなわち、神がキリストに託し、唯一御自分の書として、地上に持ち帰るべく与えられた書は、聖書以外、何もないということなのです。

 

ですから、この書は特別な特別な、大変特別な書だということを知らねばならないのです。そして、敵の攻撃は、この書への攻撃、その一点に集中しており、あらゆる種類の攻撃が、聖書に対して行われているのです。

 

中世の1000年間、聖書はラテン語にのみ訳されており、この特殊な言語を理解できる人しか、聖書を読めないようになっていました。そして、他国語に聖書を翻訳した人々は、カトリックにより異端として殺されました。

 

今でも聖書の受難は続いており、英語訳聖書は、NIV,リビングバイブル等怪しいものとなっています。これらの怪しい訳を大いに推賞する人々がおり、これらの訳は教会に広がり、聖書は偽りのことばと変えられつつあります。

 

ですから、何かと言うと、リビングバイブルを推賞する、ロンドン橋のメロディーで賛美だ、感謝だと踊るおじさん外人もやっぱり怪しい人の一人なのでしょうか。

 

しかし、これら怪しい訳が次から次へと出てくる、すなわち攻撃が止まないということは、逆にこの書こそ、神が天から与えられた書であることの逆の証拠かもしれません。

 

敵はこの書の価値を知っているのです。知らないのは愚かなクリスチャンのみであり、嘘つき法皇の「進化論は科学的(創世記は神話)」などとの嘘・偽りの語録に追従し、この書を偽りと見なしています。彼らは敵の声に耳を傾け、命の書を捨てました。

 

その結果、逆に彼ら自身が命から捨てられ、何の希望もなく、あの愚かな作家のように、深い河、ガンジス川までさまよっていき、それでも何らの希望も命も得られなくしまうのです。これは当然の報いです。

「板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。」

 

この板は両面から書かれており、表と裏に文字が書いてあることが記されています。これは聖書の特徴です。聖書は文字が書かれた書ですが、その文字は表にも裏にも文字が描かれていると黙示録にも記されています。

 

参照 黙示録5:1(新共同訳)

1.新共同訳「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。」

 

聖書の表にも裏にも文字が書いてある、その意味合いは何でしょうか?それは、恐らくこの書が表の意味合いでなく、裏の意味あいをも持つ書であることを語っているのでしょう。聖書には表面的にすなわち、表の意味合いとして読める部分があります。しかし、それだけでなく、裏、すなわち、隠された意味合い、たとえの意味合い、謎の意味合いがあるのです。

 

 

16.板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

 

板、それ自体が神の作品であることが書かれています。この板に関しても何か神が語られていることがあるようです。パウロはこの板に関してこう書いています。

 

参照 Uコリント人への手紙3:3

3.あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 

この石の板の本当の意味合いは、実は、我々クリスチャンの心の板のことであり、石の板に律法が刻まれるとは、実は、私たちがクリスチャンになった時、その心に神の教え、律法が刻まれることを指しているのです。

 

私たちが神を信じ、クリスチャンになる時、その行いが改まり、正しい人となり、正しいことを行なえるようになります。これは本当です。たとえ、以前はヤクザや泥棒や身持ちの悪い女性であってもそうなるのです。

 

これは不思議です。なぜ、そうなるのか?いいえ、なぜ、そうなれるのか?それは私たちが神を信じた時、その心に律法、すなわち、神の教えが刻まれるからなのです。

 

神はあえて、書くということばでなく、「刻まれる」と語りました。書くということと、刻むということは異なります。刻む方が、書かれた文字は、残るのです。昔の立て看板などでも「書かれたもの」は、10年、20年、経て、風雨の中で、いずれ、インクも消え、墨も消え、何が書いてあるのか分からなくなります。

 

しかし、石の板に刻まれた石碑はそうではありません。100年経っても、200年経っても刻まれた文字は消えません。同じように私たちの心に記された神の教えも消え失せないのです。

 

「板はそれ自体神の作であった。」

 

このモーセに与えられた石の板は特別なものであり、それ自体、神の作なのです。同じく、人が神を信じた時、与えられる御霊の律法も、その心に刻まれるということ自体、神の方法であり、その心もそれ自体、神の作品なのです。

 

17.ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」

18.するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」

19.宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

 

歌、踊り、これらは今、礼拝で見ることのできるものであり、今の時代における教会内の子牛礼拝、器崇拝のたとえです。そして、この器崇拝を見た時、「モーセの怒りは燃え上がった。」ことを覚えて下さい。

 

モーセはキリストの型であり、今も主、キリストの怒りは子牛礼拝に対して燃え上がります。

 

20.それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

 

怒ったモーセを通して子牛は砕かれ、火で焼かれ、水の上にまかれ、それを民は飲みました。結果、子牛は民の体の中に入ったのです。飲んだり食べたりしたものは体の一部になります。

 

今、カトリックの人々はまさに子牛を食べた人々のようです。彼らの体の隅々まで、DNAの隅々まで、子牛崇拝、法皇崇拝、聖人崇拝が行き届いています。

 

しかし、たとえこのことに長い伝統があるとしても神の御心があるわけでなく、罪でないわけでもないのです。

 

この子牛礼拝は、モーセの時代、数千年の昔に起きたことだとしても、しかし、神の御心があるわけではなく、罪、非難される罪なのです。

 

同じく、法皇崇拝の歴史がこの教会の歴史と同じほど古い伝統があるとしても、しかし、このこと、子牛礼拝は依然として罪であり、神の怒りをもたらすものなのです。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

−以上−