NO.458 離縁状


”テキスト:マルコ10:1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。
2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」
4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」
5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。
6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。
7 それゆえ、人はその父と母を離れて、
8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。
11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。
12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」”
 

本日は、「離縁状」という題でメッセージしたいと思います。
妻を離縁するということを通して聖書が語っていることを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。
2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。”

この日、パリサイ人が、「夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問」しました。
彼等はイエスをためそうとしたのです。

さてこのことはかつて歴史上、起きたことですが、しかし、
また未来に対する預言とも思えます。

イエスという名前は「救い」という意味あいがありますが、未来の日、
キリスト教会で、神の「救い」がためされる日が来るのかもしれません。
妻すなわちキリストの妻たる教会が何をしてもどんなことを行っても
救いから外れることはない、すなわち、夫であるキリストから離縁されることはないのかどうかがためされる日が来ると思えるのです。
そして、
今はまさにその時かもしれません。
これでもかこれでもかと冒涜が教会を覆っています。そしてある種の人々は、クリスチャンが何千人殺しても、
何千回姦淫を行っても救いから外れることはない、すなわち、夫であるキリストが妻を
離縁することはない、すなわち、妻は夫をなめ、たかをくくっており、ためしています。
そしてそれに対する解答がこの箇所に書かれています。
 
 
 

”3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」”

モーセは律法を代表する人物です。律法とは聖書の教え、神のことばのことです。
ですから、モーセが離婚についてどう語るのかということは、それはまた神のことばである方、
キリストが離婚、すなわち、教会を離縁することについてどう語るかということを
表しています。
 

”4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」”

「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許し」たのです。
ですから、神のことばである方が教会を離別することはありえるのです。
聖書はそう語っているのです。
さて、このこと、教会に対して離縁がありえること、キリストが教会を離縁する
ということがらは
あまり今の教会ではいわれません。逆に、
何をしても大丈夫、どんなことも許されると
たかをくくっているクリスチャンが多いのです。しかし、私達は真理に立つべきです。


5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。”

さて、何故モーセが離婚状を書いたのでしょう。それは、「あなたがたの心がかたくななので」と書かれています。かたくなとはうなじがこわく、神のことばを行わず、聞き従わないことです。
それで、彼等ユダヤ人はことばを象徴するモーセにより、
離縁状を書かれ、離縁されてしまったのです。
さて、これは、終末の日の教会も同じであることを知りましょう。

世の終わりにキリストの妻たる教会がことばは神といわれた方に離縁状を書かれ、離縁される日がきます。
その理由は何か?キリストは何故妻たる教会を離縁するのか?それは、
教会の心がかたくなだからです。教会は心をかたくし、あらゆる
みことばに難くせをつけ、これを行わなくなります。そして、
それゆえ教会は離縁されるのです。教会がかたくな?
その通りです。今、教会はみことばなる方に対して、これ以上はないという程、
いこじで、偏屈、頑固、不服従な妻となっています。
妻は夫に従えということばには、フェミニズム神学だ、女性の権利を奪うなと反論し、
同性愛を禁じるみことばに対してはマイノリテイを差別することはけしからんと反論するのです。
また、キリストは神であり、主である、復活し、奇跡を行ったとの福音書のことばに
難くせをつけ、福音書の記録は歴史的な事実とはいいがたいと驚く様な反論、難くせをつけ、
要するにキリストに従うことを拒否するのです。

これを人間の夫婦間のことと置き換えて考えてみましょう。
かつては従順、素直だった妻も年とともに変わっていきます。
夫が、夕飯時に帰っても、「今日は疲れたから、食事は作らない」といい、
そんな日が毎日続きます。さらには、「妻が食事を作るなんてことを強制するのは、男女同権に反する。横暴だ。」と言い出します。
ワイシャツの洗濯を頼むと、「クリーニング屋があるでしょ。自分で行けば。」と理屈をいいます。

そのくせ、自分はどこへ行くのか別の男性のところへ毎晩出かけ、朝まで帰ってこない。
専業主婦なので、自分は働かないが、夫の給料は勝手に使っている。
この様な妻と暮らす夫の気持ちというものはどんなものでしょう?
1日や2日はともかく、何年も何十年もこうなら、馬鹿らしくて離婚を考えないでしょうか?
きっと考えるでしょう。

上記みことば、モーセが離縁状を決意し、みことばなる方が自分の妻なる教会にあいそをつかして、
離縁状を渡す日とは、要するにこの様な「こころのかたくなな妻」に対して、
夫がついに最後の決心をする日のことだということを理解してください。
今の教会はどの様な状態でしょう。それは、自分のするべきことを全く行わず、ただ夫に要求のみし、
そして何故だか根拠のない、自信を持ち「何があっても決して夫は私を離婚できっこない」と
思い込んでいる妻と同じ様なものです。しかし、この妻、教会の過信は、全く根拠のない誤解であり、
聖書は明確に、モーセが離縁を許す日について語っていることをしらなければなりません。
そう、離縁はありえるのです。
 


6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。”

人は男と女の2種類からできています。これは誰でも知っていることです。
しかし、このことばにはもしかすると隠れた意味あい、裏の意味あいがあるかもしれません。

聖書は明らかにみことばに関して、表と裏の文字、意味あいがあることを
語ります。黙示録で、巻き物に表にも裏にも文字が書いてあった、とは
そのことをさし、また出エジプト32章、モーセが神から受けた律法が記された石の
板が表にも裏にも文字が書いてあったとはそのことをさします。そして、
この箇所の裏の意味を考えるなら、
上記「男」というギリシャ語のもとの意味あいは、「成長する、伸びていく」そんな意味あいがあるようです。また女という語には、「胸、(乳を)すわせる」という意味あいがあります。

人が男と女とからできていると聖書が語る時、人とは、要するに乳を受け、もらい、吸い成長する、
それが健全な人のありえるべき姿であると語っているように思えます。
乳はみことばの乳、また聖霊が与える霊的な養いに通じるでしょうか。
すなわち、クリスチャンは独立し、一人単独で立てるものでなく、聖霊の助けを受け、始めて、なすべき働きをなしとげ、ありえる立場にたてることをこのことばは、
さしているとおもえるのです。

ひとり身、独身の男はふらふらして頼り無い面もありますが、しかし、しっかりした奥さんを
もらうと家庭も治まり、安定します。同じく真の「人」であるクリスチャンも自分一人の力で立つのでなく、もう一人の存在、聖霊の助けで始めて正しく立てる、これらのことばは、
そう語っているように思えます。
 

”7 それゆえ、人はその父と母を離れて、
8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。”

男女の夫婦というものは、単に個人が気に入ったから一緒になったというのでなく、
それは一心同体、二人でなく、一人であることが書かれています。
そう言う意味あいでは、夫婦という関係は非常に特別な関係です。

さて、この関係はたとえであり、「キリストと教会」も
もはや二つもの、独立したものというより、すでに一体であり、不可分の関係なのです。
夫に頼り切っている妻にとり、夫のない生活が考えられないことであるように、
キリストを抜きにした教会ということはあり得ません。
しかし、終末の問題はそのあり得ない「夫抜き」「キリスト抜き」の教会を
実現しようとする、そうなるのです。

”9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」”

キリストと教会との婚姻関係、結びつきは神によるものなのですが、
しかし、終末の日、この婚姻関係を裂くために画策する人々がおり、だまされる
クリスチャンがいます。

みことばなる方、真の夫を捨て去り、「法皇のことばと聖書のことばとが食い違ったら、法皇のことばをとれ」と別の夫、獣法皇を推薦する人々こそ、その画策する人々です。また、
また、聖書のことばより、人間の器を優先するプロテスタントの人々も
同じく、別の夫を選ぶ人々です。

聖書のことばに従えば、偶像崇拝は不法であり、
マリヤ崇拝のカトリックは不法なのですが、ビリーグラハム、ビルブライト、デユプランシス
等、エキュメニカル推進、自由主義OKの器を崇拝、夫とする人々は、
真の夫、みことばなる方を捨て去ります。

日本のプロテスタントも同様であり、福音派のリーダー、有名牧師が推薦するから、こうだからと
すっかり、トロント、ペンサコーラの獣リバイバルを受け入れている人々が多いのです。
彼等は真の夫を捨て去っています。

”11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。KJV訳:11* And he saith unto them, Whosoever shall put away his wife, and marry another, committeth adultery against her.”

(KJV訳:誰でも、彼の妻を離婚させ、他の(者と)結婚させるなら、彼女に対して姦淫を犯させることになる。)

kJV訳によれば、ここには「妻を離別」させ、彼女を他の者に結婚させるなら、それは彼女、すなわち、教会に姦淫の罪を犯させるものであることが書かれています。
今、キリスト教会に対して、行われつつ働きはみな、この方向、
妻なる教会を夫なるキリストから引き離す方向へ進んでいることを知るべきです。

シューラーなどが提唱する可能性思考なんてのは、人間の念力パワーみたいなものを
強調して、真に力ある方、キリストから人々を切り離すことに貢献します。
また、トロント、ペンサコーラ、ベニーヒンの霊は悪霊であり、クリスチャンが
真の霊、聖霊に頼ることから、引き離します。

またニューエージやら、占いめいた心理学やら、カウンセリングを推賞して、教会を
キリストから引き離すのに貢献している人々もいます。しかし、上記みことばによれば、これらを教会に持ち込む、
彼等は、妻を引き離し、「姦淫の罪」を犯しているのです。
 
 


12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」”

この節は妻の立場で書いてあります。この節はたとえによるなら、「
妻(教会)も、夫(キリスト)を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」
と読めます。

ですから、教会の中で、キリストを離れ、他の男にとつぐことを推進し、勧める人々は、
姦淫の罪に荷担しているのです。

カソリック教会を、みことばなる方、キリストから引き離し、別の男すなわち、
進化論は正しい、要は人間も獣も同じ様なものだといっているあの獣法皇に
従わせ、とつがせようとする時、これをとどめようとする人々はカソリック
教会には存在しませんでした。それゆえ、この男、キリスト以外の男は横暴をきわめ、
マリヤを加えた聖四位一体などとの冒涜教理をこの教会に強いています。
この教会は情けない女となり、真の夫、キリスト以外の夫に忠実に従っています。
この教会の愚かな信者がくり返す「教会に忠実な信徒の歩み」とは、「獣法皇に
忠実に従う愚か者」ということばのいいかえであることを知るべきなのです。
 

同じことは、プロテスタント、福音派でも行われ、彼等は
福音派のリーダーこと、ビリーグラハムに従うことを選び、みごとに
真の夫、みことばなる方を捨て去りました。
そんなことはしていない、いいがかりだという意見もあるかもしれませんが、
しかし、そうでしょうか?

名目はともかく、彼等の行いはこのこと、彼等が「みことば」なる方を裏切っていることを示さないでしょうか?、

彼等、福音派はビリーグラハムがカソリックはすばらしい、自分はローマ法皇には
何も問題を感じないといえば、愚かにも誰も彼も右へならえをし、トンデモ
運動、 エキュメニカル運動にまいしんしています。今やエキュメニカル
は福音派の神学校を通して推進されています。誰も彼も裏切り者になっているのです。

また、ビリーグラハムが自由主義者と親しく交われば、同じく右へならえで、
情けなくも、同調しています。今や福音派の出版社、雑誌、新聞、神学校を通して、キリストを冒涜する自由主義的な教理は広く述べ伝えられています。

キリストは奇跡は行っていない、復活もしていない、すなわち、
この方を嘘つき、ほらふき、であるとする教えは自分の妻であるはずの福音派の教会を通して、
伝えられ、広められているのです。
 

彼等は真の夫をすて、あの嘘つき男、フリーメーソンの噂の高い、ビリーグラハムを選んだのです。
しかし、これは、姦淫の罪であることを知るべきです。

しかし主につく教会、クリスチャンにとり、彼等は偽り者にすぎず、
真の夫、みことばなる方と比べることのできないものです。
堅く主とそのみことばに立つ人々にみこころがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d56d12130106 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream