No.457偽善者

テキスト:”ルカ12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。
55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。
56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。”
 

本日は偽善者という題でメッセージをしたいと思います。
時代を見分けることと偽善者であるかどうかが関係するということを見たいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。”

ここで主イエスは時代を見分けられない群集を叱責しています。
そしてそのこととともに、彼等が偽善者であることを語ります。偽善者は、時代をみわけられないのです。
しかし、その時代をみわけられない偽善者である群集は、天地の気配は感じ取り、みわけます。
天候の異変には敏感なのです。
今までは晴れていたけれど、しかし、西に雲がわきたつのを見て、
群集は、先の時を前もって読み取り、これからにわか雨が来ることを
察知し、語るのです。そして、その察知、判断は正しく、その通りに雨がしばらくすると
降ってきます。
この群集の勘は正しいのですが、しかし、その対象はこの世のことだけに限られます。
霊的な世界、信仰の天地である教会にもにわか雨の兆候があるのですが、
群集は察知せず、未来を予感しません。ここの箇所にはたとえの、隠された意味あいがあります。まず、
ここで書かれている、にわか雨ということばは、何だかやさしそうですが、
ギリシャ語の意味あいはもっとすさまじい雨について
語っています。Strong辞書はこの語の意味あいとして以下の様に説明しています。

a violent storm, accompanied by high wind with thunder and lightning
(強風、雷、いなづまをともなうすさまじい台風)だとのことです。

雨は霊的なことがらのたとえです。
ですから、このすさまじい、台風が意味するのは、終末の日の
霊の暴風雨。神の怒りの雷、稲妻をともなう、台風のことを語っているのです。
具体的には終末の日に来ると預言されている、霊的なノアの洪水の日の
ことと思えます。
この暴風雨の日はすでに来つつあり、
すでに西の方、すなわち西欧においては、トロント、ペンサコーラ、第3の波、
 後の雨運動など、怪しい雲が沸き起こっており、これから、神の怒りの雷、稲妻を伴う大雨、大洪水が
全世界に来ようとしているのです。しかし、悲しいかな、群集はこれを
見ません。この大雨、にわか雨に関してはいくつか既に警告も語られているのですが、
しかし、多くの人にはその実感がわかず、他人ごとにしか見えません。何故彼等には、
天地の気配がわからず、大雨の気配がわからないのか?
それは、彼等が偽善者だからなのでしょう。

”55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。”

偽善的な群集は、天気予報にはくわしいのです。しかし、彼等が詳しいのはこの世の
ことに過ぎません。霊的なことがら、霊の世界の異変を見分けることができません。
この箇所にもたとえの意味あいがあります。この箇所のいわんとしていることは?

ここで使われている「暑い」ということばは、以下の「熱(風)」と同じギリシャ語です。

「ヤコブ1:11
太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

この箇所は草を枯らし、花を落とし、
富んでいる人の働きを消す「熱い」風について語っています。
すなわち、暑いとは試練の日と関係しているのです。来るべき試練、試み、
の日と関係しているのです。偽善者の
群集、すなわち、みせかけだけの、人前だけの、日曜だけのクリスチャン生活を
送り、義人の「ふり」をしている人々は、
確かに天気予報には通じており、降水確率50%の時も
傘を持っていく用意があり、雨の雲行きは見定めるのにたくみですが、それだけに過ぎません。

今、コントロールされたキリスト教のイベントに踊らされているこれらの偽善の群集は、
南すなわち、ユダ国、現在のプロテスタントに吹き荒れようとする風を理解しようとしません。
アメリカ、ヨーロッパにいる多くの主につく警告者、見張り人は
プロテスタントに来らんとする多くの災い、苦難の日について警告しているのですが、
これらの偽善者はこの一つをも理解しようとしません。
今はどういう時代でしょう?
今はもう既にクリスチャンがその忠実さのゆえに
罪をでっちあげられ、逮捕される時代なのです。
角笛にある小石牧師の記事の
元の情報を提供した米国のクリスチャン、アメリカで
警告を続けていた、フリッツスプリングマイヤー氏は、この国で「銀行強盗」の
罪をでっちあげられ、刑務所に捕らわれています。しかし、どうまちがったら、牧師が
銀行強盗を行うのか?おそるべきでっちあげです。

この様に、もう熱い、吹きわけの
風、迫害の風はプロテスタントにおいて、吹き始めているのですが、偽善の群集は、それを何一つ悟ろうとしません。


56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。”
 

何故彼等はこの時代を見分けることができないのか?
その理由として、聖書は、彼等を偽善者と呼んでいます。

偽善者だと何故時代をみわけられないのか?
それは彼等が義人のふりをしているのに過ぎず、本当は義人ではないからです。
神は、義人、神のしもべに今の時について語ります。
しかし、義人のふりをしている人に語ることはないのです。
義人と義人のふりをしている偽善者とはどう違うのでしょうか?
たとえば、医者は特殊な職業ですが、しかし、我々しろうとでも「医者のふり」を
すること、演じることはできます。
白衣を着て、医療用語を交えて話せば、それらしく誤解してしまう人も
出るかもしれません。しかし、医者と医者のふりをした人とはやはり違います。
本物の病人がやってきた時、医者のふりをした人はどう対応すればいいのかわからず、
化けの皮がはがれてしまいます。

義人と義人のふりをした偽善者も外見は似ていてもやはり神の前には
違いがあります。
義人にしか理解できない、神からの語りかけ、霊的な感覚、
聖霊の教えというものがあるのです。
ふだんはこれらの2者を明確に区分する方法はありません。
しかし、いざ、危急の時に、その差がでます。
かつてのノアの時がその区分の時でした。ノアは時を知り、神のこころを理解し、
箱舟を作りました。しかし他の人々は時を理解せず、時代を悟らず、滅びに
入ってしまったのです。彼等には感覚がなく、悟りがなかったのです。

偽善者というギリシャ語の意味あいも象徴的であり、
このことばには、演技をする、俳優という意味あいがあります。
すなわち、実際は義人ではないのに、「義人のふりをする」、義人を演じる人々が偽善者なのです。
そして、これらの演技者は、自身が演技をしているのに過ぎないため、
他人の演技を見抜くことができません。

ベニーヒン、ピーターワグナーなどは、敬けんなクリスチャンを粧った、ふりをした
人々、演技をしている人々に過ぎないのですが、しかし、自身も「義人」のふりをしている、
演技をしているに過ぎない、偽善者達は彼等の演技を見抜けず、悪霊のリバイバルに
惑わされ、引きづり込まれていくのです。

「地や空の現象を見分ける」

この地や空とは、他の箇所で、「天地は過ぎゆくともわがことばは過ぎゆくことなし」と
いわれた時の「天地」と同じギリシャ語が使われています。しかし、
日本語の聖書を読んだだけでは、これらが同じことばとは気がつきません。
残念ながら、今の日本語聖書は、ろくでもない訳になっており、クリスチャンの目をくらます、
真理に気付かせないように訳されているように見えます。
こんな訳に頼らず自衛するしかありません。

さてこの箇所は天地のことをさし、そして天地は空の星の様、地の砂の様といわれた
アブラハムの子孫が住むところとして「教会」のたとえです。
ですから、ここでいう、「地や空(天地)の現象を見分ける」とは、すなわち、
教会に起きてくるイベント、ムーブメント、動向の真の意味あいを悟る、
また現在の教会の状態を悟る、そのことをさしていることがわかります。
そう私達はこれらのこと、現在の教会に起きつつあるムーブメントを
見分け、悟らなければならないのです。
何故なら、偽善者は見分けられず、惑わしと偽りに陥るはずだからです。

最近どこかで、Purpose driven church(目的主導型教会)ということばを聞きました。
アメリカの確かサドルバックとかいう名前の教会だったかと記憶しています。
いうにことかいて、この教会は「自分の教会で起きるムーブメントは第2の
宗教改革に匹敵する」と語っているらしいです。

この様なことばを聞いて我々はどう反応すべきなのか?偽善者でなく、真に見る目を持つ人は、今、
大変な逸脱、大変な変質、欺瞞が教会に起きつつあることを悟るはずです。
Purpose driven churchとは、
目的主導型教会すなわち教会成長、信者数拡大、献金倍増を第一に優先し、
目的のためには、教理の改ざん歓迎、悪霊の器もよし、カソリックの合同大歓迎という教会の
ことをさすようです。この様な
惑わしは新しいものでなく、この種の惑わしの
最初の形は既にエデンの園に現れています。
自分の目的のためには、神のことばなんかどこかへすっとばしてしまう、
目的優先のクリスチャンは、エデンの園のエバであり、彼女は、「見るによく、食べるによく、
賢くなるにふさわしい木の実を」食べるためには、神の戒め、みことばなんか見事にけっとばし、すっとばしました。

同じことがこの教会、Purpose driven church(目的主導型教会)に従う人々に起きるでしょう。
教会成長するため、信者を多数獲得するためには、聖書の教えなどどんどん捨てられ、妥協させられていくのでしょう。
このムーブメントの意味あい、またこれらのムーブメントが許される今の天地、教会の
状態を悟らなければなりません。しかし、
偽善者はそれを見ないのです。


57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。”
 

「自分から進んで...しない」とは、要するに他人まかせにする、
判断を自分でしないということです。この時代、イエスの時代の群集は偽善者であり、
彼等は、律法学者、パリサイ人の解釈をうのみにし、時をみわけられませんでした。
その結果、彼等の過った時代判断のとりこになり、己が命を失いました。
彼等は時をみきわめるのに失敗し、誰が預言されたキリストなのかを
悟ることに失敗したのです。

同じことは、終末にも起きます。
偽善的であり、惑わされた教理、教師、預言解釈をうのみにした人々は、
レフトビハインド、エルサレム第3神殿等のよた話に惑わされていくのです。

しかし、我々は自分の目で今の時をみわけなければなりません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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