No.448 安息日の主

テキスト:
”マタイ12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」”

本日は「安息日の主」という題でメッセージしたいと思います。
かつての日、主のいわれた「人の子は安息日の主です」とのことばの意味あいを見ていきたいと
思うのです。

テキストを順に見ます。

”1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。”

この日、安息日に主の弟子達はひもじくなりました。
そして麦の穂をつんで食べ始めました。
麦はパンに通じ、パンはみことばに通じます。
それで、これは7日目の安息日、すなわち7つ目のミレニアムにみことばに対する飢えかわきを覚える主の弟子達に関する預言であることがわかります。

その日、終末の日の教会にききんがあり、みことばを聞くことのききんが起こり、その結果人々は「ひもじく」なるのです。

このことはもう既に起こりつつあり、すでに多くの教会では、カルトだのバルトだのフェミニズム
神学だのの「食えない」パンが供給されつつあり、多くの牧師がこわれたテープレコーダー
みたいに冒涜聖書註解書、盲人註解書の役立たずな内容を伝えるしか能のないものとなっています。

さてこの様なうえ、ききんの時、主の弟子はどうするのか?
「私的解釈をするな」「註解書どおりに説教しないと教会を追い出すぞ」なんていう
圧力に負けて、テープレコーダー牧師になりさがるのか?

いえそうではなく、その日、安息日の日に主の弟子達は果敢にも「麦の穂を自分でつみはじめた」ことが
書かれています。

5000人の給食の話からも理解できるように、
パン、みことばは主から弟子、そして弟子を通して群集に与えられるものです。ですから、弟子が怠ったり、臆したら教会には何らのパンもなくなってしまうのです。

今がその時、弟子が臆する時代であり、主の弟子と自称する人々が臆しており、人から悪く言われたり、
評判を気にして、ろくでもない聖書注解書の範囲から一歩も出ないように自制している情けない時代なのです。

しかし、その日、果敢にも麦の穂を自分でつみだす弟子達があらわれます。
彼らは臆病牧師、役立たず牧師、能なし牧師達の間に突然現れてくる主の勇士達です。

”2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」”

さて、このこと、麦の穂をつむことは、「安息日にしてはなならないこと」であると、
パリサイ人は指摘しました。

この非難の第一義の意味あいは理解できると思います。
律法に厳格であることを誇りとする彼らは、安息日に何の仕事もするなという律法をたてに
「麦の穂をつむこと」を仕事とみなし、弟子を非難したのです。

さて、このこと、パリサイ人が非難したことはまた、安息日すなわち、7つ目のミレニアムに
関する預言であるとも理解できます。

何をいっているのかというと、その日、7つ目のミレニアムに「みことばのききん」に
耐えかねて自分で麦の穂をつむ弟子達が非難されることを預言しているのです。
パリサイ人という種類の人々は今でもユダヤ教の中に存在しており、またキリスト教会の中に
神学者、聖書学者という肩書きで身分を隠して潜入しています。そして、キリスト教会は愚かにも、
彼らの毒のいっぱい入った聖書註解書を「正統神学」として宣伝しています。
そしてそれから少しでも異なることをいう主の弟子を非難するべく待機しているのです。
日本の多くの神学校が例外なく、すでにそうなっています。

”3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。”

さて、ここでも「ひもじい」ということばが使われています。ですから、この「ひもじい」ということばがこの箇所におけるキーワードであることが理解できます。
ダビデ はイエスキリストの型であり、ダビデがひもじくなるとはすなわち、主もまた終わりの日にパンにうえることがわかります。
イエスがパンにうえるとは要するにパンが教会から消え失せること、みこころに沿ったメッセージ
が教会から消失したことに対しての飢えなのです。

「ダビデとその連れの者たち」とは今でいえば、イエスとその弟子でしょうか。
かつて「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかった」様に今も主とその弟子はパンにうえているのです。

”4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。”

ダビデとその供の者とのうえを満たすパンは、普通の人が食べてはいけない、神の宮のパンでした。
同じく終末の日、ききんの日に主とその弟子達のうえを満たすパン、メッセージは、
この世の知恵に満ちた注解書由来のものでなく、神の家、すなわち天からのものです。
そして、それを彼らは「食べる」のです。その時、ダビデの飢えが満たされた様に、主の
うえはその日、満たされるのです。
 
 

”5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。”

安息日は冒すべきではないのですが、しかし、「安息日に宮にいる祭司たちは安息日」を冒しても
とがめられませんでした。同じく、宮よりも大いなる方、イエスとともなる
弟子達は安息日を冒し、「パンを求め」それを食べることは許されています。

このことを今のことばでいえば、安息日、7日目には、何らのわざをもなすべきではないのですが、
しかし、唯一許される行い、働きがあり、それは主につく弟子が「麦の穂をつむ」すなわち、
みこころのメッセージを語る、啓示を開くことです。このことのみ、この奉仕のみは
例外的に7日目の働きとして許されているのです。

逆にそうでない働きは安息日、7日目には許されていません。
そうでない働きとは、第三の波を始めとする7日目にクリスチャンを大いなる奉仕に誘う教理のことであり、これらは結果としてクリスチャンに重荷を負わせるものです。
これは許されていないのです。
 

”7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。”

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とは以下の箇所の引用です。
 
 

”ホセア6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。
8 ギルアデは不法を行なう者の町、血の足跡に満ちている。
9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。
10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。
11 ユダよ。わたしが、わたしの民の捕われ人を帰らせるとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。”

ここには、「誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。」こと、また「全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」ことが描かれています。
これらのことばにもかかわらず、主イエスの時のパリサイ人は自分のいけにえ(行い)を誇り、「我々は安息日を守っているのにこいつらは何だ」と
弟子達を罪に定めていたのです。

さて、同じことが終末の日にも起きることでしょう。
その日にも自分たちのいけにえ、すなわち、行いを誇り、自分の兄弟達をカルト呼ばわりして非難する
悪霊に酔った人々があらわれるでしょう。

彼らは既に欧米のキリスト教会に現れており、ヨエルの軍隊などとの名称で、
「自分達のトンでも教理」に従わない人々を「反キリストの霊にやられた人々」であると
罪定めし、削除する(!!)などと語っています。

自分の兄弟であるクリスチャンを「削除する」(!!)とは。一体、どうしたら、そんな
結論に至るのかほとんど理解不能ですが、しかし、わかることは確かにそんなことを叫ぶ人々の心は「いけにえ」(行い)はあっても、何らの「あわれみ」もないことです。

「罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」

かつての日、主の弟子達は安息日に罪に定められてしまいました。
神のみこころもわからず、そしてその上聖書も本当はわかっていない人々に、
罪に定められてしまったのです。しかし、主イエスは彼ら弟子達を罪に定めはしませんでした。

ですから、同じく安息日、7日目に同じことが再現することを覚えてください。
その日、7つ目のミレニアムの時においても、イエスとともに歩き、また人々の飢えを満たすために、麦をつみ、真のパンを分け与える人々は非難を免れえません。
しかし、それは人からの非難に過ぎず、主は実は非難してはいない、むしろ賞賛していることを
覚えましょう。

まどわされてはいけないのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
  -----------------------------7d55d24202ac Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream