NO.446 力を尽くして安息に入る(2)


テキスト:ヘブル4:8 もしヨシュア(KJV: イエス)が彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

本日は「力を尽くして安息に入る(2)」としてこのことがらをさらに見ていきたいと思います。
テキストを順に見ます。

”8 もしヨシュア(KJV: イエス)が彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。”

ここでヨシュアが民に安息を与えたことが書かれています。
ヨシュアは、イスラエルの民を荒野から、約束の地へと導いた人物です。
かつての日、エジプトを出た全てのイスラエル人が約束の地へ入ったわけではありません。
逆に彼等の多くは荒野にしかばねを横たえました。ほんの小数の人が約束の地に入りました。
このことは後の日に起きる2つの民、安息に入る民と入らない民との型です。
同じことが終末の日に再現されるとこの箇所は語っているのです。

約束の地へ入れなかった人々の特徴はぶつぶつ不平をいい、神のわざなど信じなかった人々であることであり、彼等は同じ様な教会生活を送り、不満たらたらのクリスチャン生活を送っている現代のクリスチャンの型です。

さて、ヨシュアということばはKJVでは、 イエスと訳されています。
この2つの名前は実は同じ名前なので、確かにイエスとも訳せます。
その様に訳すなら、この箇所は、イエスの時よりも後の日について、すなわち、実は終末の時について語っているとも理解できます。

”9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。”

ここでいわれているのは、安息の休みに関することがらは、過去のこと、もう
終わったことでなく、これからのこと、先のこと、「神の民のためにまだ残っている」ことがらだということです。

これは、未来に関する話なのです。

”10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。”

終末の日、神の民は2つに分けられることを知らなければなりません。
一つは、ラオデキヤ教会として預言される、豊かになった、富んでいると、自画自賛している、また
聖霊のたまもの、能力、恵みにあふれていると妄信している教会です。彼等は、
行いにつぐ、行い、断食、奉仕、集会とすばらしい教会に見えますが、
その実体は、行いに、縛られ、拘束され、重荷を負わされる教会です。
変身しなければ(トランスフオーメーション)、変化して、すばらしい聖徒にならないと、
肉体をもって再臨するキリストに会えないなどと、強迫観念に支配された人々です。
 

そして、もう一つはフイラデルフイア教会として預言される、「私のことばを守り、
私の名を否まなかった」と賞賛される教会です。
彼等はみことばに忠実であり、嘘つき使徒や預言者の熱狂に惑わされなかった忠実な
人々です。彼等は安息に入ります。
「神の安息にはいった者ならば、..自分のわざを終えて休んだはずです。」とは
彼等のことです。


11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。”

かつての日、約束の地に入れず、神の安息に入れなかった人々は、皆、不従順な人々だったと
聖書は語るのです。安息は安息日に通じ、安息日は7日目であり、今の7つ目のミレニアム
に通じます。ですから、これは今の時代に関する預言なのです。

今のこの時代こそ、多くの神の民から安息が奪われ、果てしのない行いに入っていく時代なのです。
今日本においてもその正体をあらわしつつある第3の波系の偽りの教理のその最終目標、
方法は、惑わされる人々の目の前ににんじんをぶらさげ、大きなフイーバー、エキサイト、
熱狂の中で、クリスチャンを惑わそうというものです。かつての中国の文化大革命の
時の様にクリスチャン群集を扇動して、「ユダヤの」敵を攻撃しようというものなのです。

この惑わしに入り、自分の兄弟を憎み、死に追いやり、結果として、神の裁きに入る
愚かな人々の特徴は?
それは、彼等が「不従順」であるということです。
かつての日、モーセを通して与えられた律法に文句をいい、不満をいい、従おうとしなかった
人々は、結局安息に入れませんでした。同じ様に今の時代、神のことば、教えにあらゆる、
不満をいう人々、不従順な人々は、結局安息に入れないのです。

”あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。”

私達がよく知らなければならないのは、聖書の預言、警告の正確さ、恐ろしさ、
そしてそれらのことばを知りつつなお、惑わされてしまう神の民の愚かさです。
聖書がこう書く時、すなわち「落後する者が、ひとりもいないようにしよう」という時、
それを読みつつなお、落後し、惑わされてしまう多くの人がいることが
暗示されるのです。
そして、それは残念ながら、やはりそうなってしまうのでしょう。

しかし、私はこのことに関して、安息に入れないことに関しては、すでに何度も何度も書きました。

”12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”

安息に入ることと関連して、突然の様に、神のことばについて書かれています。
これら2つ、安息にはいることと神のことばとは実は関係しています。
何をいっているのかというと、7日目すなわち、7つ目のミレニアム


神の民から、安息を奪うという惑わしは「神のことば」に関する巧妙な惑わしを
方法とするからです。
そして、神のことばに不従順な人はこの惑わしから免れることはできません。
「神のことばは生きて」いるので、私達個々の信者をそれぞれの思い、行いに従い、
対応するのです。
その結果、ある人々はみことばを理由にまたみことばを大いに用いて、ことばたくみに
語られる偽り、惑わしに惑わされていきます。

かつての日、エバがエデンの園で蛇に惑わされ、命の木から、離されてしまった時、
その時の試みは、実は、彼女の本当の心をあからさまにあらわしてしまったのだということを思い出してください。

彼女の心には、実は神のことばを絶対視し、不同のものとして、受け入れる心が不足していました。
それは、彼女の答えを見ればわかります。
彼女は神の「この実を食べれば必ず死ぬ」ということばをあいまいにして、「死ぬといけないからだ」などと変型させています。また、「触れてもいけない」などと、神がいいもしないことを付け加えています。
この時、神のことば、「この実を食べてはいけない。食べれば必ず死ぬ」ということばは、「生きていて」
「両刃の剣よりも鋭く」彼女エバの、「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別」してしまったのです。
彼女の真の思い、考え、願い、実際はこの神のことばのためしの前にあからさまになってしまったのです。

さて、同じ様な神のことばを用いた惑わしはこれから、大々的に行われるでしょう。結果として、
多くの人々の「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別」することになるでしょう。

彼女エバにとって、死に至らせる実が「見るによく、食べるによく、賢くなるにふさわしく」見えたのは、
要するに彼女の思い、「心のいろいろな考えやはかりごと」が、よからぬものであったからです。
すなわち、
「神の様になりたい」という思い、また、神のことばよりは、「見るによく、食べるによく、賢くなる」ことの方が大事だという隠れた思いがあったからです。これは事実です。しかし、
この思いに実は彼女自身も気付いていなかったものかもしれません。

試みに彼女に誰かが、「あなたは神の様になりたいですか?神のことばより、
見るによく、食べるによく、賢くなることの方が大切ですか?」と聞くなら、彼女の
答えは、「とんでもない。そんなはずないでしょう。」というものだったのではと想像できます。
しかし、たとえ、彼女自身が気付かなかったとしても恐るべきは神のことばであり、
やはり、彼女の心は神のことばの前にありのままあらわされてしまったのです。

さて、エバの誘惑は、エデンの園の話、昔昔の話ではありますが、しかし、
聖書、黙示録3:10に記されている、「全世界に及ぶ試練(誘惑)の時」の型でもあります。
かつてのエデンの園の預言は終末の日に再現するのです。

具体的にはその誘惑はどの様にしてくるのか?
エバの時の様に、これからの時代、キリスト教会には、うまい話、良い話、積極的な話が
飛び交うでしょう。
もっとはっきりいえば、人が神の様になる、キリストの様になるという話です。
そうエデンの誘惑の焼き直し、再現なのです。

これは、私の妄想話ではなく、既に第3の波系の人々が声高に語っていることです。
彼等はキリストの変貌山の変身をもじり、トランスフイギュレーション(変貌)と語り、
また、パラダイムシフト、トランスフオーメーションといいます。
要するに人がキリストの様になると語っているのです。
そして、そのニンジンを前にぶらさげ、惑わされた人々を限り無い行いの中に誘おうと思っているわけです。

そして、その惑わしの中で、多くの人の思いがあらわにされるでしょう。
すなわち、真に堅く主のことばにつかない人はこれらの惑わしに入っていくのです。

”13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。”

私達人間にとって、誰が本当の信仰を持ったクリスチャンなのか、また誰が、
心の奥底で、実は神のことばに従うつもりがないのか、などと区分することは不可能です。
しかし、神の前ではそうではありません。「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されて」いるのです。

それで、この神のことばが、人々の心の奥底をあらわし、真相をあらわすべく
用いられていきます。

建て前はともかく、本当はキリストのために艱難などに会いたくない人々は、
艱難の前に都合良く挙げられるという、近代になって創作されたほら話、艱難前携挙説(1830年に
イギリスの霊媒少女マーガレットマグドナルドの見た幻が発端)などという聖書に何らの根拠もない、
うそ話を喜んで受け入れていきます。

彼等の本音、実際の心が、神のことば、艱難時代に関するみことばを境に明確に明らかにされてしまったのです。

またしるしやら不思議を行い、悪霊をやっつけてしまう凄い器になりたい、要するに
神のごとくなりたいという人々も聖書とほど遠い、妄想教理、霊の戦いを始めとする
第3の波系のトンでも教理を受け入れることにより、その心が明らかになってしまいます。
これらのたわごとを受け入れるという事実を通して、彼等の心の様が神の目の前に明らかになってしまうのです。

”私たちはこの神に対して弁明をするのです。”

ピーターワグナーを始めとする第3の波系の聖書からずれた妄想教理に関しては、
欧米の主につく多くの人々から、批判があがっています。そうであるのに、片や
たわいもなく、これらの偽りを受け入れ、それでよしとした愚かそのもの、吟味もみことばへの
忠実さもない日本のペンテコステ、福音派の面々はその日、このことに関して神の前に弁明するようになるでしょう。

”14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。”
 

「私たちの信仰の告白を堅く保とう」とここでは書かれていますが、7つ目のミレニアム
とは善悪が逆転し、主への告白が難しくなる時であることを覚えましょう。
つくられたムーブメント、世論の中で、主に堅くつく人、聖書に忠実に生きようとする人々は、
頑固な原理主義者であり、宗教的に不寛容な人々などと、へ理屈のもとに白眼視されるようになります。しかし、
この世で十字架につけられた主イエスの時以来、また真理のために迫害されたパウロの時以来、
この世には永遠の都があるわけでなく、また我々クリスチャンが安住する地でもありません。

”15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。”

エデンの園のエバの様に主イエスも試み、誘惑に合いました。
そう、あの荒野の誘惑の日のことです。

石をパンに変えろ、また宮から飛び下りて、奇跡的な力があることを示せというサタンの誘惑に
対してしかし、主はのせられませんでした。
彼はパンを石に変えず、また、宮からも飛び下りなかったのです。
誘惑されてすぐその気になって、禁じられている木の実を食べたエバとは対象的です。
また、悪魔を礼拝してこの世の全てを得るという目的を達成せよとの誘惑にも乗らなかったのです。
彼は神にいわれた、自分の位置に最後までとどまりました。

これらの誘惑すなわち、エデンの園の誘惑また、主イエスの荒野の誘惑を考えると、
その誘惑の特徴は、何か積極的なもの、自己実現、自己成長、発展、進展、
名声に類するものであることがわかります。

しかし、その裏にはわながあり、エバを命の木から遠ざけ、また主イエスに関する
神のみこころをとどめようとするものでした。

終末の日の誘惑も同じく、何か積極的なもの、自己実現、自己成長、発展、進展、
名声に類するものであることであることを覚えてください。
そして、しかもそれは、一見聖書的にさえ見えるのです。

サタンが主イエスに宮から飛び下りてみろといった時、みことばを引用しているのがその例です。

第3の波系の人々がいっていることは、確かに何か積極的なもの、自己実現、自己成長、発展、進展、
名声に類するものです。また聖書を引用しているので、一見聖書的にさえ見えます。
彼等は、霊の戦いで、すばらしい伝道のわざが進む、また使徒、預言者らの権威に従えば、
すばらしい守りの下に入るといっているのです。
しかし、前もっていいますが、彼等の教えに従っていく、そのゆくさきは、
限り無い行いの道であることを覚えておいてください。

多くの終末の預言が今私達の目の前に成就していますが、
黙示録にしるされた「誘惑の時」ということばも実現しつつあることを知ってください。

しかし、この誘惑に惑わされたその先は安息を失う、限り無い行いの道であり、その日を前もって神は警告されたことを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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