NO.445 力を尽くして安息に入る


”テキスト:ヘブル4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
 

本日は「力を尽くして安息に入る」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストを順に見ます。
 
 
 

”1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。”
 

ヘブル書の記者は、かつての日のこと、モーセの出エジプトの記述、ことがらを
持ち出し、この約束はまだ残っている、これからの時代のことであること、
また、この安息に入れない人がこの後、いることを語りました。

それで、このこと、かつて起きた出エジプトのことがら、安息に入れない人々が
いたということがらは、実は、過去のことにとどまらず、未来のこと、
恐らく終末の日にかかわることがらであることを私達は理解できるのです。

彼はこのこと、神の安息は残っているのに、なおかつこれに入れない可能性について
語りました。そして、聖書の中で、ことさらに警告されていることには、
我々は恐れを持ち、警戒と警告の思いを持って対応すべきと思われます。
それは、そう書かれていてもやっぱり安息に入れない人々が出る可能性があるからです。
 

というよりもこれからの時代は「安息に入れない」、すなわち、
果てしのない行いと奉仕と、仕事に熱病の様にうかされ、走り、ばく進していくクリスチャンが
たくさん起きてくる時代になるからです。

彼らは今、エホバの証人の人々が、月100時間の野外奉仕だの、何だの
果てしのない奉仕にまい進し、しかも救いを受けていないと同じ様に、
いえ、さらなる果てしのない、奉仕へと駆り立てられるようになるでしょう。
また、カソリックの人々の様に救いを得るために果てしのない善行の奔走するようになるでしょう。
 

”2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

何故彼らは愚かにもそれらに奉仕の狂奔に巻き込まれていくのでしょうか。
果てしのない、断食、奉仕、善行、実行に駆り立てられ、しかも心には焦燥感のみ、
安息のない状態に入るのでしょうか?
その理由を聖書は、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」と語ります。
何をいっているのかというと、この様な果てしのない、奉仕やそれを駆り立てる扇動に簡単に乗せられるその理由は彼らが神のみことばを持っていても、それを「信仰によって、結びつけ」ていない、
すなわち、みことばを持っていても、そのことばをろくすっぽ信じていない、気にとめて、
いない、本気にしていない、だからやすやすと惑わされるのだというのです。

この様な言い方は語りかけるものがあります。また、
みごとに現状を反映しています。
第三の波系の教理は惑わし、偽りであり、いずれ、これを受け入れる人々を
果てしのない奉仕へかりたてるものですが、これを受け入れ、惑わされる人々の
特徴は他でもない「神のことばなど信じていない」「神のことばの警告など本気にしていない」人々だからだというのです。

そんな馬鹿な、こじつけだと思うかも知れませんが、
他の例を考えれば、この言い方には一理あることがわかります。
安息に入らない、すなわちせっかく聖書を読みながら、その聖書に約束されている、
神による平安、安息、やすらぎに入らない、ただ、馬車馬の様に
果てしのない、終わりのない奉仕にあけくれる宗教の一つの例はものみの塔の教えでしょうか。

彼らがこの様に果てしのない奉仕に入る、安らぎのない信仰生活に入ってしまうその
理由は何か?

もちろん、この教団の偽りの教理に問題があるのですが、しかし、それだけではありません。
もう一つの理由はこの教団の信者達が、聖書のことばを文字どおりに信じていないからです。

そういわれたら怒る人もいるかもしれませんが、しかし、それでもその様に語る聖書のことばの
方が正しいのです。

何をいっているのかというと、たとえば、
聖書は以下の様に救いは信仰によること、また「自分自身から出たことではなく、神からの賜物」であることを語っています。
 
 

エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

しかし、ものみの塔の人々はこのことばを信じず、聖書の言い方をするなら、「信仰によって、結びつけられなかったから」果てしのない行い、仕事、すなわち、安息からかけ離れた
不安と焦燥の信仰生活に入っていくのです。

”3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。”

「信じた私たちは安息にはいるのです。」と書かれています。
ですから、ここでいわれているのは、2種類のクリスチャン生活に関することがらなのです。
クリスチャンを分類するのに色々な方法があるかもしれません。
あるわけ方はカソリックとプロテスタントの区分、さらに教団や教会による区分もあるかもしれません。
しかし、ここでは、それ以外の分類について語られています。

それは、
1. 安息に入ったクリスチャン
2. 安息に入れないクリスチャン

以上の2つです。
そして、ある意味ではこちらの方がずっと重要な分類かもしれません。

信じた私達は安息に入るのですが、
是非、その安息に入ることを求めましょう。
たとえば、ウオッチマンニー兄により書かれた「キリスト者の標準」は、
私達が行いによらず、信仰により安息に入ることを扱った、また説明する
良い本です。

”「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。”

さて、ここで恐ろしいこと、ある種のクリスチャン、神の怒りを買うクリスチャンに関して書かれています。
そして、彼らは神のことばを信じず、神をまこととしないため、
その結果、安息には入らせないと神は語られているのです。

もし、神が怒りを持って、その様に定めたなら、すなわち、ある人を安息に入れないと定めたなら、誰が安息に入ることができるでしょうか。本当にこのことは恐ろしいことです。
 
 
 

カソリックや、ホーリネス系の教会は、罪が許されるために、人の前での告白が必要であると
説きます。しかし、これは行った人から聞く限り、つらい行いです。
誰だって、人前で罪などいいたくないからです。
そして、たとえある日、罪を告白したとしても、私達人間は次の日には、また
罪を犯してしまいます。

そう、この様な方法、人前で告白しないと罪が許されないとするなら、その人は一生涯の間、
果てしのない行い、罪の告白を続けなければならなくなるのです。これも、
安息のない、行いです。
聖書はその様なことを命じていないのですが、この誤りに入るなら、これも
安息のないクリスチャン生活です。

またホーリネス系の教会では、きよめという段階、救いより高いクリスチャンのレベルがあると
語ります。時には完全なきよめなどということをいいます。
これは、欧米のクリスチャンの間では、異端とされる教理です。
何故なら、パウロはその様な考え方を否定して、「私は既に得たのでもなく、完全にされたのでもない。
ただ、これを得ようとして求めている」とだけ、述べました。
それなのに、完全なきよめなどと誰がいいだしたのでしょう。フリーメーソンだとの
噂の高い、ウエスレーあたりですか。

完全なきよめ、高い霊性とピエタニズム(敬虔主義)といい、何かよさそうですが、
しかし、これもだまされたクリスチャンをひっかけ、安息を奪うための巧妙なわなであることを知ってください。これに惑わされる人は終わりのない、行いと
決して安息に到達しない、律法的な焦燥のクリスチャン生活に入っていくでしょう。

人はこの世において、完全なきよめなどには入りませんし、パウロも聖書もそんなことを語ってはいません。

まともに神のことばを信じず、ことばを聞いても、「信仰によって、結びつけられなかった」人は
この様な惑わしに入っていきます。たとえウエスレーだろうとルターだろうと、はたまた、
中田重治だろうと、W.ニーだろうと、誰が語ったとしても、みことばと異なった教えを受け入れるべきではありません。


4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。”
 

さて、安息に関連して「7日目」に関して聖書は語ります。
ですから、このこと、クリスチャンを安息から引き離す、扇動、迷わし、
「まだ得ていない、これを得なければ御国に入れない」などの窓わしが大々的に
キリスト教会に巻き起こるのは実は7日目、7つ目のミレニアムなのだということを
我々は理解しなければなりません。
だからこそ、聖書は安息と関連してただ一つの日のみを挙げ、それが7日目なのです。
7日目、すなわち、今我々がいるミレニアムは「神は..七日目に休まれた。」
という日なのです。
それで、この時代に新しく神が今まで聞いたことのないわざを始めるのだなどという
人々は間違った教えをいっているのだと理解してください。
私はピーターワグナー、オーチスだのがいっている、ニュースイング(
new thing)、パラダイムシフト、
リニューワル、トランスフオーメーション、キングダムナウ、再建主義等について
語っているのです。

”5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。”

神が7日目に休まれたこと、それとともに、安息に入れない人のこともここで書かれています。
何を聖書はいっているのでしょう。
いわんとしているのはこういうことです。すなわち、7日目、7つ目のミレニアムは
神は安息の日に定めた、しかし、神の怒りを買う人、神のみことばを偽りとし、曲解する
人々は、裁きに入り、「安息から外されてしまう」そのことを言っているのです。
安息から外されるとは要するに仕事、行い、限り無く行いに縛られるクリスチャン人生に
入っていくといっているのです。

たとえば、統一教会の様に限り無い奉仕と行いに入っていくことになります。彼らは、
95%の神のわざ、5%の人のわざなどとの、インチキ教理にだまされ、花売り、
つぼ売り、財産寄付、合宿による、奉仕活動など、限り無い、
行いをなしています。絶頂を超えよなどとトンでもない
スローガンを行う、嘘つきオヤジ文鮮明の妄言集、間違えを
何度も改版する、情けない教典、原理講論の
嘘つき教理にだまされ、ろくに聖書を読んでいないため、
愚かな行いの中にはいっているのです。
その上、それらを行っても
いまだに達成すべきところにも達していないと思える、安息のない
信仰生活を行っています。

そして、7日目に惑わされる人は、監獄宗教、統一原理の様な
クリスチャン生活に入ると聖書は語っているのです。

”6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、”
 

この7日目、今の7つ目のミレニアムの時代、限り無い行いの呪いと安息のないクリスチャン生活に
入っていく人々はどの様な人々でしょう。変身した、神に近付いた、などと思い込まされ、
実質ラオデキヤ状態になり、富んでいる、豊かになったと思い込んでいるが、神の目の前には、
貧しい、みじめな者としか見えない愚かな人々、彼らは何故その様に惑わされ、
安息に入れないのでしょうか?
その理由は、「不従順のゆえにはいれなかった」と聖書は語ります。
 
 

不従順?
すなわち、神のことばを行わないことです。
兄弟を憎む者は人殺しであると書かれているのに、兄弟を呪い、
悪口雑言を語り、ののしるなどをすべきではありません。

神のことばを守らず、語りかけに不従順な人々は、この惑わしに入り、
安息には入れません。

その様な人々がこのミレニアムにはたくさん出てくるようになるでしょう。
彼等は自分はどんどん霊的に豊かになっている、富んでいると思い、あらゆる、
奉仕、行いに入るのですが、しかし、それは、空しいだましごとであり、彼等の実質は
貧しいものです。

その様な人々が大量にあらわれる日を預言して黙示録はラオデキヤの教会について
語っています。

彼等は自分達の奉仕、行いを自画自賛して「豊かになった、乏しいところはない」と
いいますが、それは、ただ、惑わされているのに過ぎず、神は彼等を貧しい者、みじめな者と呼びます。

彼等は第3の波系の窓わしを「見るによく、食べるによく、賢くなるのにふさわしい」と
思って受け入れるのですが、それは、彼等から安息を奪います。
彼等が惑わされるのは、何故か?それは、かつて蛇に惑わされたエバが「この実を決して食べてはいけない」といわれた方のことばに不従順であったからである様に、彼等も神のことばに対して不従順だからです。
それゆえ惑わしに入るのです。不従順な
エバの目には、死に至らせる木の実が、「見るによく、食べるによく、賢くなるのにふさわしい」ものと見えた様に、彼等にとってもこの窓わしがすばらしい信仰生活に入らせるものの様に見えるのでしょう。

”7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。”

ここでは、安息日に入る入らないということは、昔すでにおわったことではなく、
ある先の日、未来に関することであると語っています。
それは、「長い年月の後」の日のこと、そう終末の日の型と思われます。
この日にも安息に入る人と入らない人とがあります。
入らない人のその入れない理由は?
それは、彼等が心がかたくなであり、また不従順だからです。

具体的には不従順とは、どの様なことでしょうか?
それは、出エジプトの日に荒野にしかばねをさらした人々ののことであり、彼等がその不従順な人々の例です。

彼等は水がない、パンがない、エジプトがよかったのに、などと何しろぶつくさぶつくさ不平ばかりいっています。彼等は、
教会に来ては奉仕ばかりでは大変とつぶやき、またちょっと教会を休んだからといって、すぐ連絡をよこすのは、
おかしいなどぶつぶつ何でも文句をいう現代のクリスチャンの型です。
うわさでは、どこかの国のキリスト教雑誌では、そんなクリスチャンの不満を増長、増幅させる様なマンガ記事が掲載されていると聞いたこともありますが、本当なら困ったことです。

また、かつての日、神が遣わされたモーセの権威に逆らい、あらゆる
反抗をした人々も同じく、安息には入りませんでした。
今の時代も教会の牧師や教師をあなどり、信仰的な虐待を受けたなどと、
色々不満をいうことが、多い様ですが、しかし、神のことばが正しければ彼等は安息には
入れないでしょう。この時代にこれから起きる熱狂的な
行いのムーブメントに巻き込まれ安息を見い出すことはないでしょう。

この様な人々は心がかたくなになり、うなじがこわく、神のことばに聞き従うよりは、
あらゆるへ理屈をつけることを選び、何一つみことばに従おうとしない人々です。
彼等を惑わすために7日目、このミレニアムには、安息を奪う仕事、すなわち、
あらゆる行いを強調するわながしかけられていることを知りましょう。
みことばに従わない不従順な人々はそれに陥ります。

終末における主のみことばを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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