NO.437花婿が取り去られる日(1)


テキスト:”ルカ5:33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」”
 

本日は「花婿が取り去られる日
」として、ルカ5章の記事を見ていきましょう。

聖書に書かれているたとえ話はその意味を理解していくと実に驚くべき日、恐るべき日を
預言していることばが多いです。
この花婿が取り去られる日のたとえも同じく恐るべき日についてのことと思われます。

たとえの意味あいとして、まずここでいう花婿とは何かを考えなければならないと思われます。
花婿の反対語の花嫁とは聖書的には何と言っても教会をさします。ですから、その反対の花婿とは、イエスキリストのことをさします。そう花婿はキリストなのです。

さて、それは確かなのですが、もう一つのことがあります。現在の教会時代においては、
イエスは肉体をもっておられるわけでなく、イエスの御霊すなわち、聖霊として、
教会におられます。

以下に書かれている通りです。

 ”ヨハネ16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」”

ここで、主が「またしばらくするとわたしを見ます。」といわれた様に教会は、聖霊として
来られたイエスを見るようになるのです。この方が花嫁なる教会の花婿です。
それで、テキストでいう「花婿の取り去られる日」とは実は何と教会から、聖霊が
取り去られる日について語られることがわかります。

さて、ところでというか、何というか、そもそも聖書はそんなことを語っているのか?
教会から聖霊が取り去られる日などを語っているのか?
それを考えたいのですが.;

そうですね、あからさまというわけではないのですが、しかし、よく読むなら、また
啓示により読むなら、それを暗示していると思われる箇所は聖書に多いのです。
2テサロニケの箇所は明らかに聖霊が取り去られる、追い出されることを明示しています。

”2テサロニケ2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。”
 

(反キリストの霊を)引き止める者とは、同じく霊である方、聖霊なのです。
それで、教会の中に反キりストが自由に働くことはできなかったのですが、終末の日において、
その聖霊が「取り除かれる時」が来ます。
その結果、教会は反キりストが自由に支配し、人々は悪霊のリバイバルにだまされて
狂奔するようになるわけです。
ここでいう「取り除かれる」という原語は、「結婚関係を解消する」という意味あいがあり、
花婿が取り去られるとの表現に対応します。

この箇所は明らかに聖霊が教会から追い出される日について語っており、これは、
花婿が取り去られるということの別の表現です。

”黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

この黙示録の箇所も明らかに終末の日、家から追い出され、すなわち、家から取り去られた
花婿なる方、聖霊として来られたイエスキリストについて語ります。

夜中にドアをばんばん叩くのは、酔っぱらって遅く帰って奥さんに外に閉め出された
だんなでしょう。ちょっとあまり良いたとえでないので、恐縮でしたが、同じく主が外で
戸をたたくというのには、その前に主が外に追い出された、
家から追い出され、取り去られた花婿であることを暗示していると見て大きな間違いは
ないでしょう。

この箇所は終末の日、ラオデキヤなる教会においては、普通のこととして、
聖霊はもう悪霊として、教会の外に追い出されているのです。
これがこの教会のノーマル状態なのです(!!)これは、
666の獣の印を受けていない、獣の霊を受けていない
働き人は奉仕ができない、そんな背教の教会をさします。

しかし、その様な背教のきわみの教会に対しても、主の最後の語りかけがあり、「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら」、すなわち、追い出した、取り去られた花婿を再度受け入れるなら、「わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」すなわち、
真に神からのみことばと聖霊の働きにあずかることが述べられているのです。

”マルコ3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。
28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。”

この箇所は、その日、花婿なる聖霊がどの様にして、家、教会から追い出されるかを述べている箇所と
理解できます。

ここでは、「強い人を縛り上げる」とのことば、今、第三の波系の人々が霊の戦いとして、さかんに引用することばが、「聖霊をけがす罪」と関連して語られています。

聖書は神の知恵により書かれたものであり、これらには関係があるのです。このことは、実は、今、
ペンテコステ系の人々が夢中になって、盲信している「霊の戦い」とは、いずれ、最終的には、聖霊を
冒涜する運動になる可能性が大いにあることを語ります。

というより、この運動は用意周到にしくまれた、隠れた目的をもった
運動であり、その目的は、この家、教会を治める強い方、聖霊となって来られた
主イエスキリストの霊を縛ることにあるのです。
決して惑わされてはいけません。

自分ではすばらしい霊の運動をしているつもりで、結果として、教会を破壊し、聖霊を
冒涜し、永遠に許されない罪へとまい進するこの運動に惑わされてはいけないのです。

歴史を振り返るなら、自分では、すばらしい事業、運動に参加しているつもりでも、
結果として、国を滅ぼす働きに加わると言う愚かな話には事欠きません。

フランスで革命運動に
扇動され、協力し、結果として、祖国をギロチンの血で染め、
王や王妃の首を切りおろし、キリスト教への背教の道を歩んだ愚かな
フランスの人々がいました。彼らは愚か者の先駆者であり、今の第三の波に
愚かにも狂奔する人々の先輩です。

ロシア革命に狂奔したロシアの民衆も同じくであり、
彼らは良い運動に加わったつもりでも、結果として、
何千万人もが殺害される恐るべき無神論の国を招いてしまいました。
王とその家族は惨殺され、強い人は消え、
ロシアは狼の下に蹂躙されたのです。
この国において聖書を持つことは禁じられ、
クリスチャンはクリスチャンであるために、投獄、拷問、
殺りくされたのです。
 

これらは歴史の教訓として、我々に語り、「すばらしい変化」「魅惑的な革命運動」などとの
キャッチフrーズにうかうかと乗ってはいけないことを我々に示します。

しかし、愚かな何にも知らない無知な島国のキリスト教会においては、
これらの歴史から学ぶことをせず、パラダイムシフトだの、トランスフオーメーションだの、
ポストモダンにおけるキリスト教の改革だの、横文字にだまされて、
ほいほいとこれらの変革に盲目的に盲従する愚かな牧師や、神学者や教師が多いとのことです。

しかし、これらのたわごと、狼少年ピーターこと、外れ預言を悔い改めることもしない、嘘つき
ピーターワグナーらがうそぶく第三の波の運動は、すばらしい変革をもたらすのではなく、
その真の目的は霊の戦いと称して、実際は聖霊を悪霊と呼ぶ日を来らせようとしていることを
知るべきです。

本日はここまでにします。
次回、「花婿が取り去られる日(2)」としてさらに詳しく見ていきたいと思います。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d51817102e2 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream