No. 436 430年の後、エジプトを出る

テキスト:”出エジプト12:
40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。
41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。
42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。
43 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。
44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。
45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。
46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。
47 イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。
48 もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。
49 このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」
50 イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。
51 ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。”
 

本日は「430年の後、エジプトを出る」という題でメッセージと思います。さらに、
出エジプトの意味あいを見ていきたいと思います。

テキストを順に見ます。


40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。”

イスラエルが出エジプトを行ったことは、歴史的な事実ですが、しかし、それはまた
予言的な意味あいがあります。その意味あいを解く一つの鍵はここに書かれている
数字、430年という数字です。聖書の数字を研究する学問があります。
それによると何桁もある聖書の数字に関しては、足し算をするそうです。それに従い、この数字をたすと4+3+0=7という数字になります。それで、430年とは、実は7に関係する数字なのだということなのです。
7の意味あいは色々あるかもしれませんが、一つはっきりしているのは、この数字が教会と関係していることです。黙示録には7つの教会ということばが出てきます。8つでも6つでもなく、教会に関しては
7の数字が使われているのです。他にも7つの燭台、7つの神の御霊等、教会に関連して、聖書では
7の数字がよく使われています。

それで、このことばの意味あい、「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。」
とのことばの意味あいは、実は7の期間をさすものであることが類推できます。
7を教会の数字と考えるなら、7つの教会の時代、すなわち、教会時代が完了したまさに
その日に神の民は出エジプトする、その様に語っていると理解できます。

このことの意味あいは深く、また示唆的です。
一つはっきりいえることは、教会時代とは、未来永劫に続く、始りもなく、終わりもないという
類いのものではなく、そうではなく、はっきりと終わりがある、はっきりと
終わりの時が定められているものであるということです。

私達はこのことを明確に明確にとらえなければなりません。
かつてダニエルの時、神から送られた指が壁に現れ、「はかった、はかった、たりない、たりない」
と告げ、バビロンの終わりを告げた様に、教会の時、寿命というか、その期間は定められており、終わりが来ると言うことをのです。

その終わりは良いものではなく、聖書がノの時、 ロトの時というように、裁きにより終わります。
皆、洪水、悪霊の洪水の中で滅んでいくのです。

しかし、全ての人が滅ぶのではなく、ノア、ロトの様に裁きを免れる人々がいます。
その人々に関して、聖書は色々な方法で、色々な表現で語っていますが、この出エジプト記においては、
ほろびるエジプト人、そして、そのエジプトを脱出するイスラエル人という対比で語っています。

そう、この日、裁かれるエジプトを脱出したイスラエル人、彼らの救いは、
ノア、ロトが救われたことの別の表現なのです。

そして、その日に関して、聖書は明確に語り、430年が終わる日、すなわち、教会時代が終わり、
教会が裁きに入ろうとするまさにその日、主につく人々、教会は、この世につく教会から、
脱出、出エジプトすると聖書は語り、かつ予言しているのです。

”41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。”

再度繰りかえして、「四百三十年が終わったとき」、出エジプトが始ったことを述べています。
ですから、この数字には意味があるのです。この数字は教会時代、7で象徴される
教会時代が終わる日を暗示しており、予言しています。
我々はそれを読み取らなければなりません。

その様なわけで、今の時代、まさに聖書が前もって語られた終末の時代に生きる我々は今から
こころしなければならないことがあります。
それは、出エジプトする者は幸いであるということです。
そして、現実はそうは見えないだろうということです。

かつて、出エジプトしたイスラエルの民は、色々とぶつぶつモーセに文句をいっています。
「エジプトにいた方が幸いだったのだ」などというのです。

同じ様にその日、本番の出エジプトをする神の民にも不満と疑問と失望が起きる可能性があります。
「キリスト教会にとどまり続けるべきだったのではないのか」ということです。

また、出エジプトそれ自体があまり楽しいこととは想像できません。恐らく、
キリスト教会内において、カルト呼ばわりされ、追い出されるわけですから。

しかし、我々はかつての出エジプトの結末を知っており、見ています。
出エジプトしたイスラエルの民は約束の地に入り、彼らを追い出したエジプトのパロは滅んでしまったのです。また、イエスの時代の出エジプトの結末をも知っています。
その日、エジプト化したユダヤシナゴーグを追い出されたクリスチャンは
祝福を受け継ぎました。

”ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た”

430年が終わったちょうどその日にイスラエルの民は、出エジプトしました。
逆にいうと彼らが追い出され、エジプトを出ていった日は、また430年が満ちる時だったのです。430年は7に通じ、それはまた教会時代を示す数字です。

ですから逆にいうと、出エジプトが再度繰りかえされるその日は、他でもない、教会時代が
終わる日でもあるということがわかります。
ですから、我々は知らなければならないのです。カルトを追い出せ、原理主義者を非難しろ、
同性愛者を差別するのはけしからん等の合唱とともに主につく人々が追い出される日、
それは、かねてから予言されていた、教会の終わりの時であり、終わりの鐘、試合終了のゴングが鳴り響く日だということを。

後は何が起きるのか?その鐘、それは、70週が終わり、裁きが始る鐘なのです。
そう、「書かれている全てのことが成就する報復の日」が始るのです。
かつての日、イスラエルの民が腰を引きからげ、靴をはきながら、せわしない格好、旅支度で、
過ぎこしの祝いを行い、出エジプトを敢行したように、我々もエジプト化した教会を
急いで出るべきなのです。

”42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。”

主はその晩、正月の前の晩に寝ずの番をされました。それで、「この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」と書かれています。
これは、日本に今でも残っている大晦日の夜、寝ないで起きている風習と一致します。

ですから、我々は本番の出エジプトの日、教会時代が終わり、裁きに向かう、エジプト化した
教会を出る時には、決して寝ないこと、目をさまし、起きていることが大事であることがわかります。
これは、あの日、ゲッセマネの日、弟子達に眠らずに目をさまして祈っているように告げた
主のことばと対応します。その日、我々は起きているべきなのです。

何故か?それは、その日は、多くのクリスチャンの目が閉じてしまい、皆眠りに入る時代だからです。
また、眠りは以下のことばと通じます。

”エペソ5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9 「「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。「「
10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」”
 
 

この箇所を通して眠るとは要するに罪の中に入ることだと言うことがわかります。
そう、眠ってはいけない、罪の中に入ってはいけないのです。
 

何故ある人々は、今の時代を見分けることができず、また悪霊のリバイバルを見分けられず、
また、今のキリスト教会が崩壊のきわみにあることを理解しないのでしょうか?
それは、恐らく、彼らが眠っているからなのでしょう。
眠っている人はベッドのそばを泥棒が歩いても気付きません。

私達は何度も警告をしたのですが、しかし、
彼らは私達の警告を一笑に付しました。彼らの血は彼ら自身の頭に帰するべきでしょう。
主と人との前ではっきりといいます、彼らの血、この血に関して私達は責任がありません。
 

”43 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。
44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。
45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。”

過ぎこしの小羊を食べるものは裁きを「過ぎこし」ます。
それを逃れるのです。
過ぎこしの小羊はパウロのいうように、イエスキリストであり、
それを食べるものは終末のエジプト化した教会の裁きを免れます。

そして、過ぎこしのいけにえ、羊を食べないものは裁かれました。
そう、終末のエジプト化した教会は小羊イエスを拒否し、
その結果自ら裁きに入ります。

教会がイエスを拒否する?教会へ行けば、どこでもイエスキリスト
というではないか?と疑問に思う人がいるかもしれません。

彼らは確かにことば、口先ではイエスというのですが、その実態は、小羊
イエスと何の関係もないものとなっています。

何をいっているのか?
人の体は肉体と血とからできています。
そして、
第一コリント11章にパンはイエスの肉体、ぶどう酒はイエスの血であることが書かれています。
パンはみことばのたとえ、ぶどう酒は聖霊のたとえです。
すなわち、主イエスの体とはみことばと聖霊とからなることがわかるのです。
終末の教会は、イエスのからだであるみことばを拒否し、これを
誤りがある、歴史的事実ではないと拒否します。また、その血である聖霊をも
汚れた霊として、排除するようになるでしょう。今、盛んに起きている、
トロント、ペンサコーラの悪霊のリバイバルはいずれ、神からの霊を攻撃するようになるでしょう。

そう、終末のエジプト化した教会は、過ぎこしの小羊を拒否し、自ら、裁きに入っていくのです。
結果、彼らは裁きを「過ぎこす」ことができません。イエスの血、聖霊と無関係な、外国人であり、過ぎこすことはできません。
「外国人はだれもこれを食べてはならない。」と書かれた通りです。

”47 イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。
48 もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。”
 

「無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。」と書いてあります。無割礼とは、
すなわち、肉が切り離されていない者のことです。もっとわかりやすくいうと、
聖霊にある歩み、霊に導かれる歩みをしていない、クリスチャン用語でいう「肉のクリスチャン」のことです。彼らはその日、危ないのです。
 
 
 

”50 イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。

イスラエル人は「主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。」のです。
逆にいうと、モーセとアロンの命を聞く民、彼らを遣わされた主に聞く民、それが、
イスラエル、出エジプトする民であるといえます。
そして、対照的にモーセとアロンにきかない王それがエジプト王パロであり、エジプトの民なのです。
モーセは律法、すなわち、みことばを象徴しており、アロンは礼拝を象徴しています。
そう、エジプトとは、もう聖書のことばなど、気にもとめず、逆にそれを攻撃し、
非難する神の民の住む国であり、フェミニズム神学だの、カルト、バルトだの、
エコロジー神学だの、同性愛受け入れ神学だのを喜ぶ愚かな今の教会を預言したものです。

これらの冒涜神学は世界中の教会を席巻するでしょうが、主につく民は、その
日、これらの冒涜教会を出るのです。
それが出エジプト記に預言されていることの本当の意味あいです。

”51 ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。”

「ちょうどその日に」イスラエル人が出エジプトしたことが再度強調されています。
その日とは、430年が終わったまさにその日であり、それは7
の数字と関係しており、教会時代が終わったその日をさします。

その日、出エジプトの日、その日に教会時代は終わったと聖書は数えており、そうみなしており、
計算していることを知りましょう。

この世の人の目には、その日が過ぎても教会堂は存在し、教団の連立は進むかもしれませんが、
しかし、神の前では、それは終わった、430年は過ぎた、教会時代は終了したと数えられるのです。
そして、神がそうみなしたのなら、誰がそれに意義を唱えられるでしょう?
その日、教会は、黙示録13
章に書かれる、2本の小羊の様な角を持つ「獣」になっており、もうすでに、
神の前には別の存在なのです。彼らの前に既に70
週は完了し、彼らは裁きに入るのです。

エジプトに戻ることに心を費やしてはいけません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d523d3b102e2 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream