No. 435 モーセ、アロンに聞き従わない


”テキスト:出エジプト11:1 主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。
2 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」
3 主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。
4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。
5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。
6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』
7 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。
8 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。
9 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」
10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。”

本日は「モーセ、アロンに聞き従わない」として更に出エジプトに関する記述を見て行きたいと思います。

テキストを順に見ます。

”1 主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。”

黙示録は明らかに終末の日に再度、出エジプトが再現することを
暗示しています。そして出エジプトの意味あいは、終末の日にエジプト化してしまった、
世界規模の教会から、イスラエル、すなわち、主につく教会が出ていくと言うことがらの
預言です。そして、その日、出エジプトの本番が起きる時は、ここに、
「彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう」と書かれている通り、主につく人々は全て、この世についた教会からは追い出される日なのです。

その日はこの世についた教会にとっては、「全ての過激な原理主義者、狭量な信仰者、異端的なカルトが追い出されたすばらしい日」のことです。
このことは、かつて主イエスの時、実現しました。全てのカルト信者、すなわち、ナザレのイエスの教えを奉じる
カルトは「シナゴーグ」すなわち、エジプト化した集会、会衆、教会、エクレシアから追い出されました。
このカルト認定、追い出しが終末の日にさらに大きな世界規模で再現されるわけです。

”2 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」”

イスラエル人に与えられた金銀のかざりとは、「金の信仰」のたとえであり、要するにその日、堅く主への信仰を持った、
人々が出エジプトするということを暗示していると思われます。

”3 主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。”

追い出されたモーセもその民もエジプトから好意を受け、尊敬されていました。
このことは、イエスの時代の出エジプトの日にも実現しました。
その日、シナゴーグから追い出された民に関して、以下の様に書かれています。
 

使徒5:13「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」

ですから、終末の日、この世についた教会から老いされる人々は、実は教会の中で、尊敬される
人々であることがわかります。彼らは、主とそのことばへの忠実さ、その為に追い出されるのです。


4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。
5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。
6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』”

その日、エジプトの初子が打たれ、死ぬことが書かれています。
このことの意味あいは何でしょう?まず思い出すことは父なる神の初子とはイエスキリストのことだということです。神の初子であるイエス・キリストが死なれたのは我々の罪をあがなうためなのですが、
しかし、この日、エジプト、この世についた教会においては、このあがないがなくなります。何故か?
それは、エジプト化した教会では、
彼、イエスの血を否定し、聖霊を悪霊と呼ぶからです。今、さかんに広がっている「霊の戦い」の行き着く先は、聖霊を悪霊と呼び、神の子を踏み付ける日です。彼らの冒涜、
そのゆえにエジプトの初子は死にわたされます。

そんな日がエジプト化した教会に訪れるのでしょう。この日を暗示する様な以下のことば
がヘブル書に記されています。

ヘブル10:29「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

次を見ます。


7 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。”

かつての日、エジプト人とイスラエル人とは明確に区分されました。
同じく、イエスの時代における出エジプトの日には、主につくクリスチャンとイエスを受け入れない、
エジプト化した教会とは明確に区分されました。
この区分は、具体的にはユダヤ人がイエスを信じるクリスチャンを追い出すことにより
実現しました。
この区分はクリスチャンにとり、迫害の様に見えましたが、実際は彼らを救いました。
彼らは来るべき災いの日、エルサレムがローマ軍隊により囲まれた日には、救いを受けたのです。

同じ様に終末の日の区分、主につく民とエジプト化した民との区分は、結果として、
主につく人々にとって、救いをもたらすのだということを知りましょう。
これは祝福と救いをもたらします。

”8 あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った”

かつての日、エジプトの王と民はイスラエル、すなわち、堅く神のことばを守る民に対して、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と願いました。
同じく終末のその日、この世についた神の民は、これらの原理主義者と共存はできないと思い、
教会を出ていってくれと願うようになるでしょう。

”9 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」”
 

さて、このことばです。出エジプトの日、神はパロは彼ら、モーセ、アロンのことばを聞き入れないことを語りました。モーセは聖書的にいうなら、律法を代表する、すなわち、神の戒め、ことばを代表する
人物です。またアロンは最初の祭司であり、神への礼拝、仕えることを代表する人物といえるでしょうか。
これを今の時代にあてはめるなら、パロ、大きな家、すなわち、世界大のキリスト教会は、
神の教えにも従わず、礼拝、仕えることをも拒否するようになる、そう理解することができます。

”それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

さて、ここでは、エジプト王パロがモーセ、アロンに聞かないことと関連して神の不思議が、
エジプトの地で多くなることが語られています。
エジプトにおける神の不思議とは、すなわち、水が血に変わったり、かえるやいなごの害のことです。

それで、終末の教会でこの神の不思議が多くなるのは、その原因はまさにこのこと、今の
エジプト化した教会が、もうモーセ、アロンに聞かなくなった、そのことと関係があることがわかります。
 

そう、これらは関係があるのです。
もし、私達の目が開かれるなら、今の時代こそ、エジプトにおいて不思議が多くなっている時代であることがわかるでしょう。水は血に変わり、悪霊のリバイバルはさらに教会を席巻しつつあります。
また、いなごの害は広がり、教理、解釈は、ますます食い荒らされています。

それで、私達は立ち止まって考えなければなりません。
何故これらの災いは今の教会を襲うのか、これらの不思議が許されるその理由は何か?
その理由は明白であり、今の教会がもうモーセにもアロンにも聞き従わなくなった、
そのためなのです。

カソリックにおいてはモーセ五書最初の書、創世記を捨て去り、進化論を正しいと認めました。
それゆえこの教会において水は血に変わり、悪霊マリヤの霊またオカルトまがいの霊言は
ばっこしています。しかし、この霊がきつねやたぬき以下の低級な悪霊であることは、
度々外れる嘘予言を見ても明らかです。

プロテスタントにおいてもモーセ、アロンまたみことばに明白に対抗する、エキュメニカル運動、
フェミニズム神学、エコロジー神学等をうのみにしています。
それゆえ、これらの教会においては、もうみことばの教理はすみずみまで、
いなごにやられています。

”10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。”
 

エジプトに起きる災い、しるしはモーセ、アロンを通して行われたことが書いてあります。
それで、この不思議、災いとはモーセ、アロンと関係のあるできごとであることがわかります。
モーセはみことばと関係し、アロンは礼拝、すなわち霊に関係しています。
それで、ここで書かれているエジプトに起きた災い、不思議とは実はみことば、霊に関係するものであることが想像できるのです。
エジプトはこの世につく教会であり、そこにおいては、あらゆる種類のみことばに関する災いが起き、みことばはは食い荒らされていきます。また、あらゆる種類の悪霊の働きはエジプト化した教会に満ち、
悪霊のリバイバルに狂奔していくようになります。

しかし、イスラエルは出エジプトし、主につく民はこの災いの教会から出ていくことが明確に予言されています。
そう私達がこの教会、裁かれるべき教会から出るべき日は近付いているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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