NO. 432 知者の知恵(2)


”テキスト:1コリント1:
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。”

本日は、「知者の知恵(2)」として、教会においては、この世の知恵
を用いるべきではないことをさらに見ていきたいと思います。順に見ます。

”21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。”

「この世が自分の知恵によって神を知ることがない」と聖書は神を知ることとこの世の知恵を用いることとは全く関係がないことを明確に語ります。
それで、このこと、神を知るためには、また本当に神を知るつもりなら、この世の知恵の方法、
いわゆるこの世的な学問、手段によっては決して到達できない、そのことを知らなければなりません。

この世の方法、すなわち、心理学だの、セルフイメージだの、カウンセリングだの、
また、文献学だの、そして、もっとはっきりいえば、この世の方法を用いているに過ぎない、
神学によっては、決して神を知ることはないのです。

そして、このことを他ならぬパリサイ人、ガマリエル門下のかつての俊才、
パウロが語っていることを思い起こすべきです。

彼、パウロは、律法の教えに進んでいた者、今でいえば、新進気鋭の神学者というところだったのです。彼はこの様にかつての自分の境遇を書いています。

”ピリピ3:きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。”

彼は神の民の中においてもエリート、また神学や、聖書のことばの学びに関していえば、
他のものにまさる知識と才能を示していたのです。
今でいえば、エリート神学者とでもいうのか。

彼、パウロはしかし、また失敗した宗教者でもあり、これらの学び、方法、論法、手段、学問方法では、真に神に達せず、またその神が
定めたキリストを知ることはありませんでした。
逆にクリスチャンを迫害してしまったのです。

これらの「この世の方法、手段を用いた神学、学問」の空しさ、限界を知り、これらが無用の長物であることを深く悟った上で、彼パウロは語っています。

上記ピリピ3章はこう続くのです。

”ピリピ3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。”

彼、パウロはこれらの神学、この世的な学問、方法によっては、キリストを知ることができず、それゆえ、これは損、ロス、マイナスだと思うようになったのです。
それどころか、これらの学問、方法、人の知恵をさして、彼はあろうことか、
「ちりあくた」と呼んでいるのです。

パウロがこの様に人間の知恵に満ちた方法、知恵、神学、学問によっては、
決してキリストを知ることもなく、神を知ることもない、逆にこれらは、損だとさえいっているのに、
悲しいかな、終末の教会、あらゆる面で神のことばの逆を行う教会においては、
これらの「パウロの捨てたもの」「この世の知恵」が幅をきかせています。

教会においては、肩書きや学歴は立派でもどう考えてもろくな信仰はない、
逆にキリストの復活も再臨も信じないことを公言しているような不信仰な人々が、
神学者様、先生様、キリスト教会の代表ということで幅をきかせているのです。

この状態を我々はどう思うべきか?喜ぶべきか?
否、恥はこの国の教会を覆っていることを、その事実を悲しむべきと思います。

泳げないかなづちが水泳を教えるスイミングスクールは存在せず、
そろばんのできない先生がそろばんを教えるそろばん塾は存在しません。
たとえ、そんなスクールが開校しても誰も生徒は集まらないでしょう。
しかし、悲しいかな、ことキリスト教会においては、世間の常識は通用せず、
キリストが処女から生まれたことさえ、またキリストが復活したことさえ、
信じることのできない、信仰の基本の基本さえ、マスターしていない、
愚かな不信仰な、神の前には無価値な人々が、神学校で、またある種の
不信仰の教会においては、驚くべきことには、牧師までやってのけているという「噂」です。
幸いそんな不信仰な教会には行ったこともないし、また特に行きたくもないので、私サイドでは、
噂にとどまっていますが、そんな牧師のいる教会はどんなものか、想像しただけで、情けないものがあります。


宣教のことばの愚かさ」

パウロは自分が伝える福音、宣教に関して、知的、理性的、高尚、学問的とはいいませんでした。
それどころか、キリスト教会第一の宣教者である彼は自分の伝えている宣教、福音のことばを
「愚か」であると語りました。

だから彼は十分、自分のしていることが分かっていたのです。
自分が人からどのように思われることを語っているのか、こんなことをいえば、他人から
どう思われるのかを。

しかし、神はこの方法、福音の愚かさを通して人を救う方法を定めたので、パウロを始めとする、
神のしもべのすべき方法はただ、一つ、忠実に神の方法に従う、そのことだけです。
分かりずらかろうと信じにくかろうと、それは、神の方法なので、
我々サイドでどう変えることもできないのです。
 

我々は死人のよみがえりについて語ります。
現代の人にとって、受け入れがたいかどうかは知りませんが、聖書の福音は
そう語るのです。それで、我々は死人のよみがえりについて語るのです。

そして、この様な話、死人がよみがえるとか、キリストの再臨があるなどとの話が、人には
愚かな話に聞こえるだろう、そのことは、パウロの時代からわかりきっていたことなのです。

”22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

神の福音、また救いは値なしに受けられるものである、それは確かなのですが、
しかし、そのハードル、福音のハードルは低いものでなく、少し高い、また、
簡単に、人には受け入れられないものであることも事実です。
十字架につけられたキリストの血により救われるなどとの話は、「異邦人にとっては愚か」な話なのです。
 
 

”24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。”

何故、福音はこの様に万人に受け入れられるような話ではないのか?
かえって、理性にはかると愚かな話に見えるのは何故か?
それは、私が思うには、真に神を求めるもの、正しく真理を求める者にのみ、開かれるべく、
用意された神の方法なのです。

私達はこの神の定めた方法に異義をとなえることはできません。
福音は神による恵み、救いであり、それを当事者である神がどの様な方法を用いたからといって、
どうこういえるわけではないのです。

この様に若干ハードルの高いキリストの福音ですが、しかし、それを信じる者は、「神の力、神の知恵」を受けます。それは私達がよく経験しているとおりです。

”25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。”
 

ここでパウロは召しのことについて語ります。
召しとは聖書においてよく語られる特別なことばです。
すなわち、神により、召される、任命される、
神の働きに招聘されることについて語っているのです。
誰も招待状なして、結婚式、披露宴に参加することはできません。
同じく、神の働きも召されること、英語でいうcallingなしに
その働きにつくことは誰もできません。

かつて、主の働きをになった12弟子全てが、主により、声かけられ、召し出された者であったように、
主の働きにつく者の第一条件は、主の召しです。
 

パウロは他でもないその召し、calling,特別なことがらについて語っているのですが、
彼はその召された人々について、特徴を述べています。
それは、「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。」
すなわち、知者でない、あまり頭もよさそうでない、学問もなさそうな人が多く召されるというのです。
また権力者でない、すなわち、えらくはない人、また身分の高い人でない、すなわち、
身分の低い、下層の人が多く神により、召されているというのです。

このことは確かに事実であり、実際12弟子の召命を見てもあまりえらそうな人、学問のある人も見当たりません。ペテロ、ヤコブ等は魚を取る漁師でした。職業差別はいけないなんていう人がいるかもしれませんが、しかし、あまり知的なふんいき、学問のかおりがある人々ではありません。
しかし、何故神はあえてそんな人ばかり集めたのか?

もっと知的で学問のかおりがあるセレブな人々を集めたら、もっとキリスト教も発展したのではなんて
意見があるかもしれません。しかし、このことをあえてその様にし、あまり知的でない人を集めたのには、神の特別な考えがあります。
 
 

”27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。”

何故神はそうしたのか?それに関する解答がここに書いてあります。
「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」ということばがその解答です。

その知者とは具体的には誰か?神が辱めようとされた知者とは、誰のことなのか。
その具体的な例は「神のことば」なる方に論戦をいどみ、真理を曲げ、
盲人を導く盲人となってしまったユダヤ蛇学者、律法学者、パリサイ人等のことです。
彼等は自分達の聖書知識、宗教知識、知恵、方法、学問を誇っていました。
しかし、彼等には問題があり、知識やこの世の知恵を持っていてもその行いの伴わない、
白く塗った墓、偽善者だったのです。彼等ユダヤの知者達は愚かな知恵に満ちたタルムードにより
神のことばを空しいものとしました。

神はこれらの偽善者、聖書の真理を曲げるこの世の知恵を憎んでおり、
それで彼等がくつがえされる大逆転の日をもくろんでいました。また、
これらの空しいこの世の知恵に頼らない真の信仰者を求めていました。
それが、主イエスが12弟子、この世の知恵に頼らない人々を選んだ理由です。

彼等、この世の知恵に満ちた人々は、イエスをキリストであると理解できず、
そして、結局裁きに入っていってしまったのです。しかし、この世の知恵や、
身分は低くても真に神を求める12弟子を始めとした人々は、真理なる方、
キリストを知ることができました。

さて、終末の時代においても同じくこの逆転は再現しようとしており、神は、
わけのわからないたわごとを語り、神のことばを曲げる、自称知者、
実質ただの愚か者に過ぎない、神学者や、聖書解釈者の「知恵」を憎んでいます。
それゆえ、神学校でわけのわからない、冒涜的な論議を語っている人々に対して、
再度、「知恵ある者をはずかしめる」日が来ることを知りましょう。

これらの愚かな「知恵ある者」達は、蛇民族の偽りの教理を見抜くことができず、倒されていく様になるでしょう。否、もうすでにその多くは倒されています。
自由主義神学だの、死海文書をもとにした偽りの発信地は某民族であり、
愚かな学者達はすでにこれらの偽りの下で情けなくも倒されています。

”28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。”
 

しかし、これらの役立たずな自称知者、実際は痴者(しれもの)と異なり、今の時代においても、
主の選びに招きにあずかる人々がいます。それは、「この世の取るに足りない者や見下されている者」
、しかしこの方を神とする人々です。

”28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれ」たのですが、しかし、悲しいかな、
この世とあまり変わらなくなった現代の教会においては、この世で尊ばれていることがら、
すなわち、神学博士だのの学位や、この世からの借り物である有名神学校卒だのの
身分や、教団における地位等が幅をきかせています。
この世的な評価や、ステータスが幅をきかせているのです。
その結果、キリスト教会で一番有力な意見はローマカソリックの長である、あの獣法皇、
進化論は科学的(創世記は神話?)であるなどとぼけたことをいっている
不信仰なじいさんが、キリスト教会の代表なんていうトンでもないことになっているのです。

またプロテスタントの「ある者」である神学者達は、フェミニスト神学だの、エコロジー神学だの、
死海文書だのを吟味もなくうのみにし、後を追う愚か者となりました。
確かに「有るものをない者のようにするため」とのことばは厳粛に成就しました。
彼らは自分では有名人、学識のあるものなどとすっかり自己満足しているかもしれませんが、
神の前には役立たず、無に等しい、否、神の教会に対してマイナスの働きをしている役立たずの破壊者に過ぎません。

しかし、神の目、招命は今も変わらず、神は今の時代においても「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれ」ているのです。
そう、今の時代においても、否今の時代こそ、かつてのペテロ、ヨハネ、ヤコブの様に、無名、また
太して学問があるわけでもない、しかし、神の前に忠実な人々を神は選ばれています。
それらの勇士は今、選ばれつつあり、神の召し(calling)の声はそれらの人々に届きつつあります。

まとめますが、かつてパウロ、この世の知恵や、学問、方法に満ちたユダヤ、タルムード、神学の世界の
優等生であったパウロは、これらの「この世の知恵」は神のみこころとかけ離れていること、これを
もって神を真に知ること、キリストを知ることは決してないことを明確に語りました。
これが聖書の標準なのです。しかし、あらゆる面において神にきかず、理屈をつけて、何一つ聞き従おうとしない現代の教会はこの面においてもやはり、正反対の道を進み、あらゆる種類のこの世の学問、
方法、この世の知恵、知識は教会、神学校、キリスト教書店にあふれるようになりました。
彼らはわざわいです。

先生のいうことを何もきかず、宿題もせず、教科書も開かず、授業を妨害するようなあほたれなガキ、
もとい、少しお行儀のよろしくないおぼっちゃま、お嬢さん達は結果として、
上の学校にも行けず、非行、犯罪に手をそめたりして、最後は少年院や、刑務所にはいるようなはめに
至ります。
同じ意味あいで、あらゆる聖書の教えに逆行し、この世の知恵を教会に持ち込む「いうことをきかない
あほたれガキ」、もとい、大変すばらしい知恵と教養と学識に満ちた人々は、結果として、
蛇民族主導の偽りを見抜くこともできず、フェミニスト神学、エコロジー神学だの、
最新の嘘にだまされ続け、その上で主につく、聖書に忠実な人々を非難、訴えるような愚か者になるのでしょう。彼らへの裁きは前もって語られています。

教会は進化し、進歩し、完成へ向かっているなんてそのうち、きっとどこかの
惑わされたクリスチャンが日本でもいうようになるでしょう。
この「教会の進歩」などとのとんでもない嘘は欧米の第三の波系の教会でもてはやされています。
使徒、預言者の下で、これから教会は完成するそうですよ。

しかし、だまされてはいけません。
現代の教会はあらゆる面で、神のことばに逆らい、逆行しているのです。
「死に至らせる木の実」が見るによく食べるによく、賢くなるのにふさわしく見える、
アダム、エバの惑わし状態に入ってはいけません。

今の教会に対しては、神の怒り、裁きが今来らんとしているのです。神の民は教会に今、来らんとするわざわいから身を隠すべきです。

これらのことは前もって預言されています。しかし、主につく人々はこの様な時代にあっても、
かたく主のことばを行いましょう。

終末における主の御心を行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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