NO.431 知者の知恵 (1)

”テキスト:1コリント1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 

本日は「知者の知恵」という題でメッセージをします。今の
キリスト教会はこの世の知恵に満ちたところであるということを見ていきたいと思うのです。
テキストを順に見ます。

”17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。”

パウロは、福音、十字架に関して明らかに、「ことばの知恵」によってはならないことを
述べました。

ところで、「ことばの知恵」とは何でしょう?少し考えてみましょう。
ここでいう知恵ということばのギリシャ語は、ソフイア:sophiaということばです。
このことばの派生語、sophisticatedとは、洗練された、知的(単純ではない)という意味あいです。
また、sophistとは、雄弁家、詭弁家という意味あいです。ですから、このことばの意味あいは
要するに知的なこと、理屈を言うこと、単純な方法ではないこと、
もっと端的にいえば、学者然、知識人然とした方法、議論、方式ではいけないということ、
その様な、話し方ではいけない、その様な福音の伝え方、説教ではいけないと語っているのです。

何故か?それは、その様な知的な方法、へ理屈をつける伝え方では、「キリストの十字架がむなしく」なってしまう、効力を発揮しない、真価が発揮できない、そのためであると語られているのです。


18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”

何故福音を伝える人が知的ぶったり、その様な方法を用いてはいけないかというと、それは、
そもそも十字架の福音ということ自体、それは、一見愚かなことだからです。
勿論それは、「滅びに至る人々に」とってそうなのですが。

そんなわけで、ここに書かれているのは、我々が伝えようとしている、神の福音とはどんなものか、
そして、それを伝えるにふさわしい態度、方法とはどの様なものなのかということがらなのです。

今さらいうまでもないかもしれませんが、我々は聖書のいう、また神のいう福音とは、
一見愚かな話、人がそうそう簡単には受け入れられない話であるということを、
知らなければなりません。

人は普通死んだら、生き返りません。しかし、我々は死人の復活、キリストの復活について語るものです。

また、人は普通結婚して生まれてくるものであり、
処女は子供を産みません。しかし、我々は、処女マリアから産まれた方について語ろうと志すものです。
また、人は、死んだ後、戻ってきません。しかし、我々は再び来られる方、
生ける者と死ぬ者を裁かれる方について述べるのです。
そう、この福音にはそれにふさわしい語り方、伝え方があるのです。
 

八百屋には、八百屋にふさわしい野菜の売り方、かけ声というものがあります。
八百屋のおじさんが、買い物かごをさげた奥さん方を前にいきなり、「本日は、近代における草植物、特にトマトの育成に関して、少しく、論議したいと願っております。まず、始めに、言語の定義から始めたいと思います。」なんていっていると、お客さんはあきれて次の店へ行ってしまいます。

我々皆が八百屋に召されているかどうかは知りませんが、しかし、我々は
十字架の福音を伝えるよう召されており、その召しと働きはこんな風なしちめんどう臭い、議論や
論ぽうでは達成されないとパウロはいっているのです。

”19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」”

人の知恵は空しく、その方法は空しく、それは神の方法でないことを神は述べています。
逆に「知恵ある者の知恵は滅ぼされ」、また、「賢い者の賢さ」は空しくされる運命にあります。

このことばは今の世の中で成就しています。たとえば、これは経済における知者に関して成就しています。
経済における賢い、知恵があるとはどんなことでしょうか?
それは、簡単にいえば、金をもうけ、借金をしないということです。
しかし、あらゆる近代的な経済学者がそろっているはずのこの日本において、全ての経済学者の
知恵は空しく、賢さは単に愚かさであることは今や明白です。
これらの経済の専門家にまかせた日本の財政は破綻し、今や1000兆円、
国民ひとりあたり、1000万円もの借金を日本はかかえるようになっています。
 

これほど、愚かな世代は日本の何千年もの歴史の中でもかつてありませんでした。

また、政治の世界においてもあらゆる知恵があり、賢い人が満ちているはずでした。
しかし、20世紀は政治的にもっとも愚かな時代でした。この世紀に起きた共産主義により、
世界で一億人もの人が死んでいるからです。かつてはそんな時代はありませんでした。
政治とは世の中をよくするもの、不慮の死をなくすものという定義なら、賢いと自分では思っている現代の政治家とはもっとも愚かな人々であることになります。

さて、これは、世の中だけに限らず、キリスト教会においても同じです。
キリスト教会の方法とはパウロがいったように、しち面倒くさい理論をふりかざす方法、
わけのわからない果てしのない議論を行う方法ではないのです。
何故なら、聖書がそう語っているからです。
しかし、そんな聖書のすすめや、教えなどどこ吹く風、わけのわからない、
自分でもわかっているのか、わからないのか、定かでない、果てしない論理、議論を行う人がキリスト教会、特に日本には多すぎます。
 

日本のキリスト教会とは非常にマイナーな世界なのですが、
何故だか、何とか神学だの、何とか教理だの、しちめんどうくさいことをずらずらいう人が多いのです。
しかし、その様な方法に関しては、既にパウロが、「キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならない」と命じていることを思い出すべきです。

そして、この様なキリスト教会における知恵や、賢さに関しても、否それらの
この世的な知恵や賢さに
関して、「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」と書かれていることを
知るべきです。
すなわち、これらの自己満足、誰のためにもならない、偉ぶった、知恵や賢さは、
結果として滅ぼされたり、空しい結論に至るというのです。
このことは、現在、明確な形で現われています。

自称知者、賢者の集まり、実質あほたれな愚か者のあつまりである、神学校や、神学者の集まりにおいては、神は死んだ、聖書の記述は神話にすぎない、キリストは何らの奇跡も行っていない、
ただの大工のおっさんだなどというあほたれな議論が真面目に論議されています。
そうこれらの「知恵ある者」「賢い人々」のおかげで、キリスト教は滅び、空しいものへと
変わっていってしまったのです。まことにみことばは厳粛に成就しています。

もっとつけ加えるなら、キリスト教も仏教も、イスラム教も一つにしようかという多元主義や、
聖書をフェミニストやホモ(同性愛者)の考えに合わせたものにしようとの
冒涜的な試みもこれらの「賢い」方々の主導のもとで行われています。
NIV訳聖書を始めとする英語訳聖書はすでにそうなりつつあり、アメリカ聖書の
後を吟味もなくただ、忠実に追うことのみがとりえの、
日本の聖書も確実にその後を追っています。

”20 知者はどこにいるのですか。(律法)学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。”
 
 

ここに学者と書かれていることばは、KJVでは、scribe(律法学者)と訳されています。
ですから、ここで問題、論議されているその対象は、第一義的には、この世のことというより、
教会のこと、神学者や、注解者に関することがらなのです。
他人ごとではないのです。

「知者はどこにいるのですか。(律法)学者はどこにいるのですか。」とパウロが語る時、教会内に
この世的な知恵、方法を持ち込む自称知者や、聖書学者、注解者を賞賛、推薦して
ほめているわけでは、もちろん、「ありません」!
そうではなくて、これらの方法は教会を破壊し、信仰を破壊し、神のみこころから外れていくことを
憂慮して語っているのです。

「この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」

神はこの世の知恵を愚かなもの、役立たずなものと断定し、かつそれをパウロを始め、昔から語っているのですが、しかし、悲しいかな、今の教会、神学校でもてはやされ、賞賛され、
用いられているのは、他でもない、この世の知恵であることを思い出しましょう。

神学校で、よくいわれる「心理学」とは、聖書由来のものでなく、要するに
この世の知恵に過ぎません。キリスト教会ではやっている、
セルフイメージがどうとか、こうとかいうのも、聖書と何の関係があるのか?
これらはこの世のものに過ぎません。

「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」と書かれていますが、
この世の知恵が空しいこと、愚かなことを神はたびたび明らかにされています。
たとえば、知恵ある医者により、
医学の研究が大発展したはずの現代において、エイズをはじめとする
不治の病が世界をおおっています。ますます医学的に悪くなっているのです。

キリスト教会においてもこの世の知恵が愚かな結論に至るとは同じであり、
愚かなアメリカキリスト教神学は、「聖書は同性愛を禁じていない」という結論に
至った様です。その結果として、ホモの集会に対して、
聖書を片手に警告を呼び掛けたクリスチャンが逮捕され、何と
懲役40年の刑に処せられたということです。(小石牧師のHP参照)

またとてつもなくうさんくさい、死海文書を始めとしたユダヤ人の
偽りをすっかり信用して、キリスト教の福音書は歴史的な事実ではないなどとの
ガセネタが本物と思えてしまう人も
自称知者、神学者の間には、多くなっているようです。

死海文書というのは、ユダヤ人が策略をもうけて、もとは複数の人がもっていたものを、
たくみに自分達の手のみに集め、「キリスト教は嘘だ」というスローガンを
発展させるために、色々と企んでいるいかにも怪しそうな企みなのですが、
「自称知恵のある人」、実質愚かな神学者どもはそんなことも
気付かず、すぐ本気にしてしまうようです。

まことにキリスト教会においても、「自称知者」の知恵とはこの程度のもの、愚かというのも
恥ずかしいものであることがわかります。
彼等は愚か者であり、CSの子供さえ、本気にしない空想話にすぐ飛びつく、情けない
盲人です。
 

くり返しますが、現在のキリスト教会は
何もかも聖書と反対のこと、ことばは神であるといわれた方のことばを
踏みにじること、冒涜することが行き渡っており、「ことばの知恵によってはならない」という
みことばも守られておらず、逆にそれに逆行するような、
あらゆること細かい議論、この世の知恵に満ちた論議にあふれていることを知ってください。

これらの神のみことばを守らず、逆行し、あらゆるこの世の知恵に満ちた教会、神学、神学校の
いきついた先は究極の愚かな冒涜、神はいないだの、イエスは神の子でない、ただの大工のおっさんだの、
福音書は、作り物だの、あらゆる「愚かさ」に満ちたものとなったことは、
とりあえず覚えておいてください。
逆接的ですが、ここにおいても神のことばは真実であり心理学だの、考古学だの、文献学だの、
あらゆるこの世の知恵を持ち込む人々に対して、「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」
とのことばが厳然と成就していることを知りましょう。

わけのわからない神学を語る人々は確かに「愚か者」となりました。
 

本日はここまでにします。
知者の知恵(2)に続きます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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