NO. 430 私はあるという神


”テキスト:出エジプト3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。
17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』”
 

本日は「私はあるという神」という題でメッセージしたいと思います。

神の名前が「私はある」という名前であることを見ていきたいと思うのです。テキストを
見ていきます。
 

”13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」”
 

ここでのモーセの問い掛けの意味あいを考えてみましょう。ここでモーセは神の名前を尋ねています。
名は体を表すといいますが、名前はそのものの本質を明確に表します。
キツツキという名前の鳥がいます。この鳥は
文字通り、コンコンと木を突いて穴をあけます。
ナマケモノという名前の動物もいます。この動物はその名前の通り、もったりして、どうにもなまけもの
です。

こんな風に名前は本質とかかわっています。
我々が神の名前をきく時、それは、実は神の本質、神の
もっとも重要な性格、性質は何かと問いかけていることにもなります。

”14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」”

そのモーセの問いに答えて、神が語られたその名前は「私はある」という名前でした。
「私はある」?日本語では聞きなれない名前です。英語では、I AMと書かれています。
このことばをどんな風にとらえればいいのでしょうか。

このことばをわかりやすくいうなら、要するに「私は存在する」という意味あいに
なります。神はこの名前を語ることにより、神御自身が「存在する」方であることを
主張されているわけです。

このことばを実は主イエス御自身も自分に関して語られました。
以下の箇所です。

ヨハネ8:58「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」新共同訳

たとえば、美子ちゃんという名前がついた女の子がいるとします。
この名前をつけた両親の願い、希望、力点、強調点は何かと想像するのです。
美子という名前の強調点はたった一つ、「美しい」という漢字であり、
両親の願いも明白です。何しろこの子が美しい、美人になって欲しい、そんな願いがあふれているのです。
さて、それでは、「私はある」「私は存在する」と自分の名前を紹介した方の希望、願い、意図はどんなものなのでしょうか?

それは、明らかに「神の存在」ということに大きな力点、強調点があるのです。

さて、ところで何故神は御自分の名前について語る時、わざわざ、存在するということを
強調したのでしょうか?
何故ときくのは、このことはあまり人の世界では類がないからです。
たとえば、存在子という名前の子はあまりきいたことがありません。
存子さん、在男君なんて名前もやはりあまりききません。わが子が存在するか否か、
こんなことを気にする親はいないのです。

しかし、神は「私はある」「私は存在する」といわれ、明らかに存在する神であることを
語ることに強調点を置かれたのです。しかしそれは何故なのか?

”15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。”

しかし、神はこの名前にこだわり、さらに「これが代々にわたってわたしの呼び名である」とさえ、
いわれました。
このことに神が大いにこだわっていることは確かにわかるのです。

さて、これは、出エジプトに関する記述であり、そして、出エジプトの記述は終末の日に起きてくる、
新約の民のこの世化した教会からの脱出、出エジプトの型であると理解できます。
何をいっているのかというと、終末の日に再度出エジプトがくり返されることを語っているのです。
終末の日に再度出エジプトがくり返されることを確かに聖書は暗示しているように思われます。
終末に関する記述、黙示録には、「ソドム エジプトと呼ばれる都」の記述があり、
また出エジプトの時の十の災害をほうふつする様なしるし、たとえば、水が血にかわるという
しるしが多く黙示録に記されています。また、モーセを暗示する様な預言者また、モーセの歌もしるされています。

そう明らかに終末の日に本番の出エジプトが行われることが予想されます。

さて、その日、教会がエジプト化し、この世とかわらないものとなるその日、実は、
「私はある」「私は存在する」といわれた方の名前の意味あいが深くうなずける日がなのです。
何をいっているのかというと、終末の日の教会の問題、また敵の攻撃はまさにこの一点、
「神の存在」ということに集中するようになるのです。

このことは本当か?少し歴史を振り返ってみるなら、このこと、今の時代が「神の存在」に対する攻撃に満ちていることがわかります。

ダーウインの進化論は、今まで常識だった、動物を、人を創造する神という概念をくつがえし、
何と人間も動物も偶然にうまれたことになってしまいました。
単純な構造のビールびん一つだって、偶然にできはしないのに、それより、万倍も精密、高度な構造の人間が偶然にうまれるはずはないのに、頭が良いというか、実質ただのあほたれに過ぎない人は
すっかりこんな嘘つき理論を受け入れ、神を追い出し、もう「存在」しないことにしたのです。

また、20世紀に猛威を振るい、世界に革命を起こした、共産主義は、無神論を
世界中になかば強制的に押し付けました。
無神論は文字どおり、神などいない、世界には物質しかないという考えです。
そうかつての時代には常識だった存在する神という考えはすっかり捨て去られ、もう神はいない、
ということが、科学的、常識的なこととなったのです。
そう私達は今はもう「神は存在しない」時代に住んでいるのです。

このことは、世の中だけでなく、キリスト教会でも同じです。
冒涜的な神学校、神学においては、神はいないということ、キリストなんて人は
実際は神でも何でもない、奇跡もただの神話に過ぎないという、カルトだのバルトだのの
神学がもてはやされています。

しかし、我々は思い起こさなければなりません。この様な時代をあたかも見越したかの様に、
前もって神は「私はある」といわれ、またイエス御自身も「私はある」(ヨハ8:58)といわれたことを。
 

”16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。
17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』”

「わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し」と書かれていますが、確かにこの日、イスラエルの民はエジプトにおいて大いに悩んでいました。
エジプトの民と、イスラエルの民とは、その民族も異なり、礼拝もその目的も異なっているので、
ことごとく、ぶつかり、違いがあり、イスラエル人は、もうこれ以上耐えられなくなっていたのです。

さて、このことは終末の日に対するたとえであり、この終末の日、主につこうとする民、
真のイスラエルなるクリスチャンは、同じくエジプト化したこの世についた教会で、

苦しみの中にいることを理解しましょう。

この世についたクリスチャンにとり、聖書は創作物語であり、彼らの道徳も規範も
この世と変わりません。そして、その様なクリスチャンにより、主につく人々は、
原理主義だの、宗教的に非寛容だの、ありとあらゆる根拠のない、いいがかりをつけられつつあります。

しかし、このこと、エジプトの民とイスラエルの民が同じ国内で共存することには、みこころがなく、
かえって、出エジプトすることにみこころがありました。
同じ様にこの方、「私はある」といい、その存在を主張される方を
真に神とする方はこれらのききん、みことばのききんの時代にあっても飢えることはなく、
逆に「乳と蜜の流れる地へ上」ることを知りましょう。
乳は、「みことばの乳をしたいもとめる」ということばが、ヘブル書にあるように、
みことばに関することばであり、要するに飢饉の時代にあっても主につく民には、
乳と蜜、すばらしいみことばの糧が与えられると語っているのです。
 

くり返しますが、「私はある」とモーセの時代に主がいわれたそのわけは、
終末の日、出エジプト記が預言する本番の出エジプトの日には、ほかならぬ、「神の存在」そのものが、
疑問視される、また神の存在に対する攻撃が許される時代であることを前もって神が御存知だからなのです。

これらの全ての冒涜は前もって語られていたのである、その
ことを思い起こしましょう。

今はまさにその時代、「神の民が神の存在を否定する」「キリストの
民がキリストの存在、神性を否定する」という、かねてから預言されていた時代なのです。

この日、これらのエジプトの民の妄言に追従する愚かな神学校教師、愚かな牧師にみこころがあるのでなく、堅く「私はある」といわれた方につく人々にみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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