NO.428み使いをそしる

「霊の戦い」の危険性について

”テキスト:2ペテロ2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
10 汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。
11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。
12 ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。
13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。”

本日はみ使いをそしるという題でメッセージしていきたいと思います。ペンテコステ、カリスマの
集会で提唱されるいわゆる「霊の戦い」に参加することにより、
知らず知らず、み使いをそしる行いに加担する危険性について見ていきたいと思うのです。

彼等ピーターワグナー等が提唱する「霊の戦い」とは、
要するに地域を支配する霊に戦いを挑む、また勝利するということの様です。
それは一見聖書的に見えなくもないのですが、しかし、果たして神は聖書の中で、
その様なことを勧めているのか、いないのかを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。”

罪を犯した御使いは地獄に引き渡され、
閉じ込められてしまったのです。しかし、それは、未来永劫にというのでなく、
さばきの時までです。さばきの時、すなわち、終末におきる不敬虔な者の裁きの時には、
この御使いは、再度、解き放たれます。それが終末の霊の大洪水の日であり、
また黙示録に書かれた「底知れないところから上ってくる獣(アメリカ)」の日です。
この悪霊のリバイバルはアメリカから起きて来るのであり、アズサストリートリバイバル、後の雨運動、ペンサコーラ、トロントなどはその悪霊の洪水の始まりです。
 

”5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。”

かつての日、「義を宣べ伝えたノアたち八人の者は保護」されました。同じく終末の時も、
正しく正義のみことばに立ちつづける人は守られるでしょう。
逆にピーターワグナー等の偽り者に聞き従い、新しい啓示などにひかれ、
みことばを捨てる人々、教理を曲げる人は裁きに入るでしょう。彼等は洪水、霊の洪水の中で、
惑わされ、滅びます。

”6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。”

かつての日、ソドムとゴモラの町とともに火で滅ぼされた人々は、不敬虔で、無節操な人々でした。
「ことばは神である」といわれた方のことばを投げ捨て、新しい神々、カンザスシテイの偽預言者や、
ベニーヒンの様な外れ預言者の後に聞き従う、無節操な人々の行く末は火による裁きの日です。
しかし、これらの偽りにくみせず、最後迄義を追い求めるロトの様な義人はこの霊の火から守られます。

”8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。”

さて、ここで義人ロトはその町で行われる不法な行いに心を痛めていたことが記されています。
不法とは、すなわち、神の律法、みことばの教えを破ることです。
さて、ピーターワグナー等、第3の波系の人々が語っていること、行おうとしていることは、大胆にも
神のことばに挑戦し、これをねじ曲げようとしていること、すなわち、不法であることを知るべきです。
彼等はこれから教会は勝利の時代を迎える、もう携挙などという悲観的な教理を
強調すべきでない、また、携挙とは、体が携えあげられることではない、そうではなくて心があげられること、昂揚することがすなわち、携挙なのだなどというとんでもないすりかえを語っているのです。

この様なおそれげもなくみことばを改ざんする冒涜者こそ、不法の者であり、またこの様な見え透いた教えについく愚か者こそ、終わりの日に裁きを受ける人々であることを知るべきです。
しかし、これらの第3の波系の冒涜教理の流布に心を痛める人々こそロトの様に終末の火の裁き、偽りの霊の火から助け出される人々です。

”9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

ここでは、敬虔な者は誘惑から救い出されること、また不義な者はそうでなく、誘惑に入り込み、結果として裁きを招くことが書かれています。

この「誘惑」という原語は、イエスの荒野の誘惑と同じことばが使われています。
また、主の祈りで、「私達を試みにあわせず」と祈るその「試み」と同じことばです。
さらに黙示録3章で「全世界に来ようとしている試練の時」といわれている「試練」
も同じことばです。
ですから、この誘惑とは、終末の日全世界に訪れる大きなある特定な「誘惑、試練の時」のことを
語っているのです。
この「試み」とはわざわざ主の祈りの中に含まれ、特別に祈られてきたある特定の
試みの時なのです。

具体的にはどういう時なのか?
私が今思うには、恐らくピーターワグナー等が提唱するクリスチャンに対する怪しい誘惑の時ではないかと思われます。
彼らは、クリスチャンに対して、怪しい誘惑を持ち出しています。
すなわち、完全なきよめに達する、勝利者は不死を経験するうんぬんの教理です。
あたかもエデンの園の誘惑の時、「神の様になる」と語った蛇の様な論理です。
これらの誘惑にのせられ、その気になる時が今、世界のクリスチャンの目の前にきつつあるのです。しかし、この誘惑は、エデンの園の誘惑、また主の荒野の試練の様なものであり、うかうかとその気にさせられた人はエバの様に命の木、永遠の命から外されてしまいます。

さてこの現代の誘惑に関連して2種類の人がいるとこの節では語っている様に思えます。
1. 敬虔な者たちは主からの悟りを受け、誘惑から救い出される
2. 不義な者どもは悟らず、さばきの日まで盲目になる。

ですから、はっきりいいます、偽預言外れまくりの偽預言者ピーターを見分けられない盲目な人々の
その見分けられない理由は、彼らが、不義に従っているからです。
怒らないで下さい。そう語るのは私ではなく、上記みことばです。

”10 汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。”
 

「権威を侮る者たち」と書かれていますが、このピーターワグナー等が提唱している
霊の戦いとはすなわち、権威を侮ることになります。
この働きに盲従し、参加する人々は実は、権威を侮ることに追従する様になるのです。

彼等、霊の戦いに狂奔している人々を、実は、聖書は「大胆不敵な、尊大な者たち」と
呼ぶことを知るべきです。

何故そういえるのか?それを見ていきます。まず始めに見なければならないことがあります。
「栄誉ある人たちをそしって」と書かれていますが、この栄誉ある人たちとは誰のことを
さすのでしょう?

新改訳の注にこれは「み使い」のとと書かれています。
その後の記述との関連を考えるとこの解釈には無理がないと思われます。

”11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。”

ここには明確にみ使いについて記してあります。ですから、前節の「栄誉ある人たちをそしって」とは
人間をそしるというより、実はみ使いをそしることを意味していることがわかります。
具体的には、地を(神の代理として)治めているみ使いをそしり、戦いをいどみ、
けなしている「霊の戦い」に関して語っていると思えます。

彼等は主の代理権威を持つみ使いに対して、理不尽な非難を行っているのです。そして、「 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」
すなわち、これらの霊の戦いに加わるクリスチャンのいいがかりに対しても、
み使いは、主のみ前に彼等をそしって訴えることはしていないといっているのです。
み使いと人間との力や勢力をくらべれば、それは大人と子供、雲泥の差でしょう。しかし、「勢いにも力にもまさっているにもかかわらず」み使いは勝手なことはしていないというのです。
 

私達クリスチャンの戦いが血肉に対するものでなく、空中にいる悪の霊との戦いであると
書かれていることは事実です。
しかし、全ての霊が悪霊ではないし、また全てのみ使いがサタンの使いというわけでもありません。
逆に神の権威の下で地を治めているみ使いもいるのです。
間違えてはいけません。

”12 ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。”

この様に神のみ使いの働き、その役割、神から与えられている権威に関して何も知らないで、
いきなり霊の戦いを挑んだり、宣言をする人々は、「自分が知りもしないことをそしるのです。」
何でもかんでもいきなり戦いを始める彼等は「捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じ」なのです、彼等のこの行いはわなとなり、捕らえられてしまうでしょう。そして、「動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」

私達は悪霊を追い出すべきでしょうか?
もちろん、追い出すべきです。その様に聖書で命じられているからです。

しかし、この悪霊追い出しと、地域における霊の戦いとは異なることだと知るべきです。

何故そういうのか?
説明します。
我々は政府により、任命され、その地の保安をあづかる、警察官に戦いを挑むべきでしょうか?
また、そんなことをして無事でいられるでしょうか?

確かに我我の世界にはチンピラとか、ヤクザとか時々警官と争う人がいますが、彼らはその結果として、ろくな目に会いません。
警官と争っても誰にも尊敬されませんし、その結果もろくなものではありません。
逮捕されたり、場合によっては、銃で打ち殺されます。

同じく霊の戦いを行い、むやみに神の代理主権、神の使いとなっている、み使いに
戦いに無謀にも戦いを挑む人はろくなことには会わないことを知るべきです。

警官にこん棒をもって襲い掛かると、逆に叩かれたり、撃たれたり、自らの身に深刻な害を及ぼす様に、
同じく霊の戦いなどとその気になって、神の定めた権威、み使いに与えられた権威を
犯す者は実は、神に逆らっているのであり、ろくな目に会わないでしょう。
 


13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。”

彼等が意味もわからず行っている霊の戦いとは、権威に逆らう「不義」であり、「霊の戦い」という
いかにもよさそうな、企てに隠されている偽りを見抜かず、盲従する愚か者、彼等はその酬いとして
「損害を受けるのです」
 

”彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。”

飲むとは、酒、霊のたとえと連鎖があり、すなわち、怪しい霊のリバイバルに入れ込む人々に関することがらです。リバイバル聖会大好きの彼等に関して、「彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。」と書いてあるのです。

”彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。”

あの聖会屋ベニーヒンやピーターワグナーらの語ることは、すなわちだましごとに過ぎない、
偽りの不真実に過ぎません。
2回に渡るキリストの再臨のうち、最初は霊でくる、などとは聖書に根拠のないだましごちであり、
またその霊を受肉した使徒、預言者は、地上におけるキリストの様なものになるなんていうのも、
とんでもない嘘話、だましごとです。

私達が世界の歴史を振り返って見るなら、偽りユダヤのもっともらしい誘惑、
だましごとを本気にして、同調し、その結果、国を滅ぼした
例にいとまがありません。

あの反キリスト革命、フランス革命はその一つであり、
ユダヤのたくみな扇動に踊らされ、その気になって、自由平等博愛の
すばらしい社会が訪れるなんて、盲信し、王や貴族を殺し、ギロチンにかけた人々は、
結果として、国を滅ぼしました。

嘘をその気になって受け入れ、しゃかりきに革命に走った人々を通し、
この国は殺りくと、裏切りと反キリストの運動、教会閉鎖、
困窮と争いに満ちてしまったのです。

それは、彼らフランスの民衆が、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たち」となり、王や貴族を殺したからなのです。彼らは、うまい話に乗り、幻想を抱き、
結果として国を滅ぼしたのです。

歴史は何度も繰り替えし、ロシア革命においても同じ様なストーリーが組まれました。
このロシアにおいても、扇動された人々が、王や、支配者に対して、
反抗し、「権威を侮る者たち」となりました。
その結果、豊かなロシアは困窮と、混乱と殺りくの国と変わり、教会は閉鎖され、
神はいないという無神論が国をおおいました。
権威にさからい、革命を企てた人々も、革命の中で、自分の命を落としていきました。

これらの「革命」という名の甘言、偽りが、今、新たに
キリスト教会に対して持ちかけられていることを知るべきです。

嘘つき狼少年ピーターこと、ピーターワグナーを始めとする第三の波系の「霊の戦い」という
偽りこそ、この革命、キリスト教会という20億の人口を持つ大国に対してしかけられた、用意周到な
革命であることを知るべきです。
この偽りに扇動される愚か者教師、キリスト教会のリーダー達は、自分達が何をしているのかを
正しくさとるべきです。

彼らは歴史から何一つ学ぼうとせず、ただただ、扇動に乗り、このキリスト教会の分裂、争いに
荷担し、結果として、「権威ある者をそしる」反逆に多くのクリスチャンをいざなっているのです。
知恵ある者、目の見えるものはこれらの偽りに荷担せず、かえって、
愚か者を愚か者と呼び、彼らの偽りをただす様つとめましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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