No. 424 古びた着物


”詩編102:25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。
27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。
28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」”

本日は古びた着物という題でメッセージをします。
テキストに沿って
この箇所を見ていきます。

”25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。”

この着物に関する詩編の記述とともに、天地に関する記述が描かれています。
天地は何をさすか?今まで何度も見てきたように、天は「天の星の様になる」といわれたアブラハムの子孫、クリスチャンの住むところとしての教会のたとえ、また地も「地の砂の様になる」といわれたクリスチャンの住むところとしての教会のたとえです。

”26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。(
取り替えられてしまいます)”

ここではその天地と同じ意味あいで「着物」に関しても描かれています。それで、着物も天地と同じく
教会のたとえであることが想像できます。

それぞれの人の着物はそれぞれに帰属します。舞い子さんの和服が舞い子さんが歩く時、一緒についていくように、着物はその人についていくものです。
着物はキリストについていくもの、帰属するものとしての教会のたとえと思われます。
その意味あいで、かつて主が十字架につけられる前にキリストの着物がローマの兵隊によりわけられたのも、象徴的です。
ローマの兵隊はローマ、すなわち、ヨーロッパ白人文明の象徴でしょうか。
教会はローマ、すなわち、白人ヨーロッパ分明の中で分けられ、分裂しました。
世界最大のキリスト教団体が、「ローマ」カソリックという名称であることも、この預言の
成就でしょうか。他の教会団体は、同じくローマの一つの流れであるドイツを起点として始まるプロテスタント教会、それから、同じくギリシャ、ローマの流れ、ギリシャの名前のある、ギリシャ正教会もあります。これらは皆、ギリシャ、ローマの流れの中で、分裂した教会です。
ローマ兵により、
「わけられたキリストの着物」ということは、預言的なことがらです。

聖書のたとえは、主が我々に「たとえを解く」べく、与えられたものなので、これを解くのは弟子の役目です。たとえを解くコツはいくつかあるかもしれませんが、基本は聖霊により教えられること、
技術的なことをいえば、「新約のたとえ」と関係する旧約の記述を見つけだすことです。
私の理解では、「該当する旧約箇所」が見つかった時点で仕事の半分は終わっています。

衣、すなわち、着物と言うものはすり切れて、もう使えなくなると言う考えが聖書の見解です。すなわち、教会とは、すり切れてもう主の用に立たなくなるときが来ると聖書は語っているのです。

「そんな」と思うかも知れませんが、明らかに聖書はそう語っており、またそれは客観的な事実でもあります。旧約の教会(集会、会衆)がすり切れた着物の様になり、もう神の用を行うには耐えられなくなったのは、たとえば、主イエスの時のことでしょうか。
この日、旧約の教会(集会、会衆)は、もう神の義、栄光をあらわすには、ふさわしいものではなくなっていました。

王が着るには古すぎ、穴もあいており、破れや罪の汚れに満ちたものとなっていたのです。
その結果、王の栄光をあらわすはずであった着物、旧約の教会は、逆に神の恥や、
罪をあらわしていたのです。また、王であるキリストを拒絶しました。王を十字架で殺したのです。

その後、何が起きたのか?
それは、「あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。(
取り替えられてしまいます)」とのことばの実現です。

古い着物、すなわち、王の栄光をあらわす美しさと義に満ちるべきだったのに、逆に古くなり
、罪と反逆との
シミや、傷、破れに満ちた着物、旧約の着物は「取り替えられ」、チェンジされ、選手交代させられたのです。そして、主のまとう新しい着物の座とその光栄は、主イエスに従う12弟子を始めとした新しい教会がにないました。
彼らは王の着物として、栄光を受けました。
王がきらびやかな衣装をまとって登場する時、人々は、実は王を見ているのですが、
しかし、それとともに、王がまとう衣装にも目が行き、賞賛が着物にも与えられるのです。
「豪華な衣装だ。」「王の威厳があらわれている」

さて、主イエスの時、かつての着物はその寿命が尽き、古くなり、王の栄光を表さなくなったため、
新しい着物と「取り替えられて」しまい、結果として、空しいものとなってしまったのですが、
しかし、終末の日、この「着物の変更」というできごとは再度繰り替えされます。

教会時代も2千年を経て、その着物も大いにくたびれ、ほころび、また汚れと罪に満ちてきています。
かつての日、教会時代の始め、おニューのスーツの様にその持ち主をひきたたせた着物はもう
全く変わり果ててしまいました。

そのスーツは、破れと汚れに満ち、多くの王を冒涜する落書きまでその上に書かれています。
いわく、「この王は嘘つきである」、「復活も奇跡も行っていないのに、嘘を主張している」、などと
書かれているのです。私はカルトやバルトやその愚かな追随者のことをいっているのです。
また、「この王は恐るべき、女性差別者である」とも書かれています。
「天の父なる神よ」などとのキリストのことばは女性をおとしめる差別である。「天の父及び母なるよ」と書きかえろなどと主張しているのです。フェミニスト神学のことです。

さて、質問です。自分のこととして考えてみましょう。私達なら、自分に対して「お前は嘘つきだ」「お前は恐るべき暴力的な差別論者だ」などとの落書きが一杯書かれた洋服を着て歩きますか?どう考えたって、
誰もそんな人はいないでしょう。むしろそんな呪わしい服はゴミ箱に投げ込んで捨ててしまい、
新しく買った気持ちよい、別の服に着替えて出かけていきませんか?

そうです、その通りです。そして、主もそうするといわれ、洋服を取り替えると上記みことばで語っているのです。
そして、はっきりいいますが、この洋服の変更、これこそが今の教会に関してこれから、否、今起きつつあることがらなのです。

そう、今、古い教会すなわち、神の栄光をあらわすというより、神への冒涜をあらわす教会は、神の前から、捨て去られようとしているのです。

そのゴミ箱行き教会のまっ先先頭にカルトだか、バルトだかをしゃかりきに宣伝する冒涜教会、冒涜神学校が進むでしょう。彼らはきわめつけの愚か者です。

”27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。”

ここでは、着物と主御自身が対照的に書かれ、着物は古びるがしかし、主は変わることがなく、
年が尽きることがないことが書かれています。
このことばは、また新約の「天地はすぎゆかん、されど我がことばは過ぎゆくことなし」とのことばと対比します。

この2つの表現は似ています。

すなわち、
1. 天地は過ぎゆくが、
2. キリストのことばは過ぎゆかない
と書かれているのです。

これは、
1. 着物は古びるが
2.しかし、主御自身は変わることない
との表現と同じことをさしていると思われます。

具体的にいえば、
1.教会は古び、寿命、耐用期間が尽きていくが、
2.神御自身、キリストは変わらず、神のことばも変わらない
そう語っているのです。

それで、あの冒涜の教会、カソリックが語る、「聖書には間違いがある。しかし、
教会には間違いがなく、法皇には間違いがない」などという言い分は、本末転倒の
とんでもない、大間違いのたわごとであることがわかります。

彼らは偽りを語る教会を基準にして、恐れ多くもみことばの方を変えることを選び、
「進化論はあまりにも科学的なので否定できない」(聖書の創世記の記述は間違い、誤り)
などと語っています。

この冒涜法皇の語っていることは聖書のことばに挑戦する全く正反対の主張なのだということを知りましょう。
今はどういう時か?今は衣替えの時、古くなり、どうつくろっても
どうにも着物の体をなさない、機能を発しない、逆に持ち主である方、キリストの恥を表すことしかしない着物がすてられようとしている時です。

捨てられる教会とは?それはいくつもありますが、例をいうなら、冒涜に精をだし、やれ、「聖書の女性べっ視の記述はけしからん、”天の父なる神”という
主の祈りのことばは父のみが神であるとする女性べっ視である。”天の父母なる神よ”と書きかえろ」などとトンでもない主張を恐れ多くも「ことばは神である」といわれた方に向かってする
愚か者フェミニスト神学を始めとする人々が捨て去られようとしている時代なのです。
 
 

”28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」”

さて、冒涜、高慢、増長、わがままの限りをいう愚かな着物、古びて煮ても焼いても食えない、
へ理屈ばあさんの様になり捨て去られる古い着物、教会が一方であると共に、同じ終末の日に主の前に残る人々がいます。
それが上記みことば、「あなたのしもべらの子孫」と呼ばれる人々です。
彼らは、「あなたの前に堅く立てられ」、主の前から古い着物の様に捨てられることはありません。
彼らはたとえば、主イエスに従ったペテロを始めとする12弟子の様な人々です。
彼ら12弟子は主のしもべであり、今、この時代にあって彼らの後にならおうと志す人々は、「あなたのしもべらの子孫」といわれる人々です。

それで、今、厳かにそして、真剣にいわなければならないと思うことがあります。
 

それは、かつて主イエスの時、12弟子の時と同じ様に今、再度、古い教会に対してよりわけ、選別が起ころうとしている、否すでに起きつつあるということです。このことを理解してください。
かつての日、イエスについたペテロを始めとする12弟子もまた、当初は、旧約の古い集会、教会に属していた人々でした。
しかし、彼らは堅く主につき、その結果、古い着物とともに神に捨てられることはなく、逆に新しい着物、新しい教会の中心的な働き人として用いられました。
しかし、一方、古い着物とともに残り、多数派、正統派として残ったつもりが、古い着物、教会とともに神の前に捨て去られてしまった多くの人々がこの時代にはいました。
かつての日、多くの人々は、モーセ、アロンに連なる大祭司の側にいたのに、
それでもよりわけられてしまったのです。

今、同じ区分がこの時代に対して行われるのではと私は思っているのです。
かつての時の様に多数派につき、正統派についてるのたから、勝ち組、間違いはないとはいえない
時代に入りつつあるのです。

多数派、正統的教団と自負する多くの教団がもうすでに古い着物の体をなしています。
神学の潮流においては、カルトだかバルトだか、聖書の奇跡も信じない様なトンでも神学が、「新正統主義神学」なんていう、正統派まがいの名前を
つけていることを覚えましょう。

多くの古い着物が流され、捨てられる中で、しかし、主の弟子のすえは、「あなたの前に堅く立てられ」ることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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