NO.423 死体とはげたか

テキスト:
”マタイ24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
28 死体のある所には、はげたか(eagle:KJV)が集まります。”
 

本日は死体とはげたかという題でメッセージしたいと思います。
マタイ24章に書かれている「死体のある所には、はげたかが集まる」という謎めいたことばを見ていきたいと思うのです。

テキストを順に見ます。

”23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。”
 

この箇所は終末のキリストの再臨について語っています。そして、それとともに、
再臨を語る偽預言者、偽キリストの働きを語っています。

本物が来る前に偽物が来るので惑わされるなといっているのです。
何度も外れたものみの塔の再臨に関連する偽預言や、韓国の太った強慾キリスト、
文鮮明の偽キリストを始め、多くの異端が偽キリストを擁していることは、誰でも知っていることですが、これからますます、この手の偽預言者、偽キリストがあらわれるでしょう。

あの嘘つき狼少年ピーターこと、ピーターワグナーも同じく再臨に関する
嘘話を始めようとしています。彼ら、第三の波系の嘘つきどものたわごとは、
すなわち、キリストの再臨は2段階であり、最初の再臨の時、キリストは、霊として
来臨し、そして勝利者、黙示録に書かれた男の子である、使徒、預言者に受肉すると語ります。

そして、その受肉したキリストを受けた使徒、預言者は、地上におけるキリストとしての
権威を帯びる、彼らに敵対する者は反キリストであり、これらの反対者を削除、
抹消しなければ、二度目のキリストの再臨はない、などとの
ヨタ話を真面目に吹聴しています。

しかし、この教理、すなわち、「肉体を持たないキリストの来臨を語る教理」こそ、かねてから、
使徒ヨハネが預言していた、終末の異端であることを思い出しましょう。
多くの人々がこの偽りに惑わされたいくでしょうが、しかし、主につく人々は、これらの偽りの中で、永遠の命を失う道よりも正しくみことばに立つことを選びましょう。

「できれば選民をも惑わそうとして」

選民ということばはいかにも意図的な訳であり、終末の艱難は、イスラエル人のみにしか関係しない、
クリスチャンは安心していいのだと、偽りの平安、まどわしの安心を与えようとするかの訳ですが、
しかし、こんな偽りにほいほいと乗ってはいけません。

終末の日に主につく民、クリスチャンを惑わそうとする働きがあることは聖書の多くの箇所が語ることです。ここで「選民」とわざとらしく訳されたことばの原意は、主により選ばれた12弟子の様な
選ばれたクリスチャンをさすことばです。
選ばれた人、主に名指しで働きに召された人さえ、惑わそうとする動きがあるのだから、まして
普通の信者は大いに惑わされるはずとの解釈がこの部分の正しい解釈です。

"25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。"

主はこの様に偽預言者が大きなしるしや不思議を行うことを前もって語りました。
しかし、悲しいかな、現在のペンテコステを始めとするキリスト教会の現状は、こんな主のことばなど、
何にもきかなかったかの様な惑わされた状況です。

しるしや不思議を行う、それからついでに悪霊も下すトロント、ペンサコーラ等の怪しいリバイバルに
なだれを打って、突進、自滅壊滅しています。
聖書は前もって偽預言者は、しるしや不思議を行うことができる、しかし、彼らは
主の名前で預言してもそれは実現しない、未来を見通すことができないことを語りました。

それで、聖書的には、怪しいしるしや不思議があっても、日本リバイバル大預言が外れたピーターワグナー、ベニーヒン、ビルハモンなどは全くの偽預言者なのですが、しかし、悲しいかな聖書も主の警告もどっかにすっとばしたかの様な愚かなクリスチャンがこの国には多い様です。
「俺俺詐欺に気をつけよう」と前もっていわれても、自分の大事なお金を振り込んでしまう人には、
正直あまり同情できません。彼らは警告を知っていながら、だまされるからです。

同じ意味あいで、前もって主の語られた「偽預言者が大きなしるしや不思議を行う」との警告を全く聞かず、悪霊リバイバルに狂奔する人々には、同情の余地がないといえると思われます。

”26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。"

荒野は都と反対のことばと思えますので、それで、この偽キリストは、都、すなわち、キリスト教会の
中心や、正統的な教会でないところから出ます。確かに預言者は荒野から出るものですが、
しかし、荒野から出る預言者なり、キリストが全て本物とは限らないわけです。
部屋は家の中の場所、家が教会のたとえなら、今度は、キリストがキリスト教会の中心に出現したというわけです。しかし、そうであっても偽物である、と主は言っているわけです。
偽キリストはあらゆるところから出現するわけです、何ともはや油断もすきもありません。

”27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。”
 

この箇所は正直よくわかりません。
この箇所に限らず、私にはわからない箇所がいくつもいくつもあります。
啓示は主から来るので、主が開かれないものを我々サイドでは、いかんともすることはできません、どうしょうもありません。

”28 死体のある所には、はげたか(eagle:KJV)が集まります。”

さて、この箇所ですが、この箇所の理解のためには、このマタイ24章のことばと対応する
旧約のことばを参照することが、解決の糸口です。
しかし、覚えておかなければならないことは、近年の聖書訳はかいざんされており、ますます、
理解しずらいもの、真理から遠いものとなっています。

現在の旧約の訳語は、新約と比較したり、参照がしずらい訳、構成となっています。
その例はいくつもありますが、たとえば、イエスという名前一つとってみてもわかります。
新約でいうイエスという名前と対応する単語、名前が旧約にあります。
その名前は何か?それは、ヨシュアという名前です。
しかし、イエスとヨシュア、これは全然違う名前ではありませんか?
誰が旧約聖書ヨシュア記を読んで「これはイエスと同じ名前だな」などとわかるでしょうか?
何でこんなにも違う、発音になっているのか?
不思議かつ不可解です。ただ、わかるのは、何故だか、現在の聖書訳は、旧約と新約の関連性を調べるには
不適当、わかりにくいとということです。
同じことは、たとえば、マリヤという名前にもいえます。新約聖書にはいくつもマリヤという名前が出てきます。イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤ等です。随分この名前が人気のある名前であることがわかります。さぞかし、旧約で有名な女性なのでしょう。さて、それでは、マリヤとは旧約の誰か?
この名前の発音からではわかりません。実はマリヤとは旧約のミリアム、モーセの姉であるミリアム
のことなのですが、しかし、これも発音からでは類推不可能です。

こんな風に旧約からのヒントを理解させまいとする不思議な方向が今の聖書訳にはあるようです。
さて、こんなことを踏まえて、しかし、聖書がいうように、私的解釈に陥らない、すなわち、
他の箇所、旧約をも参照してこの部分を解釈していきましょう。

この箇所と関連する旧約の箇所は以下と思えます。
 

”ヨブ39:26 あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。
27 あなたの命令によってか。わし(eagle:kJV)が高く上がり、その巣を高い所に作るのは。
28 それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。
29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。
30 そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。”

マタイ24章にもそして、この詩編の箇所にもKJV訳のいうeagleという単語が使われています。
それで、これらの箇所は関連があることがわかります。
日本語ではかたや「はげわし」、もう片方は、わしなので、関係ないように思えてしまいますが、
そんな怪しい聖書訳の惑わしにだまされてはいけません。
繰り返しますが、最近の聖書訳は真理に気付かないように意図的に訳されているようにさえ思えます。

この詩編の箇所を見ていきましょう。

”26 あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。

たか、わしは鳥であり、鳥は霊のたとえと思われます。
ここでは、良い霊というより、死体と関係があるので、災いをもたらす悪い霊のたとえと思われます。
南にその翼を広げるとありますが、旧約の神の国、イスラエル国は南北に二つにわかれていました。

すなわち、(北)イスラエルと南のユダです。これらは新約の2つの神の国、
カソリック、プロテスタントの予表と思えます。「南にその翼を広げる」とは、すなわち、南のプロテスタントも悪い霊の下に入るということでしょうか。

”27 あなたの命令によってか。わし(eagle:kJV)が高く上がり、その巣を高い所に作るのは。”

高いところは低いところ一般信徒ではなく、キリスト教会の指導者のいるところです。
しかし、その場所も悪霊使いどもの支配の下に入ります。
これは、第三の波の運動の中で実現しています。日本においても、
キリスト教会のペンテコステ、福音派の名だたる牧師、教師、教派、教団がこの怪しい霊の影響下に
入っています。

いえ、単に影響を与えているだけでなく、彼らは居をかまえています。
「巣を高い所に作る」と書かれている通りです。
これらの愚かな日本の各教団は、怪しい偽予言者達を受け入れ、信者に紹介し、そして、
その怪しい本やビデオの販売を推薦したりしています。
まことにこれらの「人食い鷲」どもは、この日本の教会の高い所、牧師や教団リーダーの推薦を得ており、またちやっかり入り込んでいるのです。

”28 それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。”

岩と書かれていますが、岩は「この岩の上に教会を建てよう」と主にいわれた主の弟子ペテロ、すなわち、弟子、牧師、教職者のたとえでしょう。普通こんな人が近寄れない場所に巣をつくるのは難しいのですが、
しかし、驚くべきことには、終末の日には、その近寄りがたい切り立つ岩、すなわち、キリスト教会の
中心的な教師や、指導者がこの鷲にやられるようになります。そう、終末の日には多くのことが逆転するのです。悲しいかな、今、このことは成就し、今のキリスト教会の指導的な教師は怪しい、それこそ、
悪霊の鷲の様な人々で満ちています。私はピーターワグナー、ベニーヒン、ビルハモン達のことをいっているのです。

”29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。”

獲物とはキリスト教会でこれらの悪霊の器のえじきになる人々のことです。
今の時代をみわけず、キリスト教会で主催される集会、聖会なら、どこでもいいわとばかり、吟味もなく、これらの怪しいリバイバル集会に参加する人々はえじきになっていきます。
「その目は遠くまで見通す」ということは、要するに監視する、見張ると言うことでしょうか。

聞く耳のある人は聞いてください、今のキリスト教会の動向は監視されており、見張られています。
某国においては、ネット上の、犯罪まがいの噂をよく聞く評判の悪い大きなキリスト教の掲示板に近付くとあらゆる個人データが抜き去られるとの噂を聞いています。
どこの国のことか、私にはわかりませんが、本当なら恐ろしいことです。
また、ピーターワグナー主導のセルチャーチ運動においては、参加者はあらゆる個人データ、活動記録を報告し、そのデータは一括してピーターワグナーの主催するグループへ集められると聞いたこともあります。人のすることは好きずきなので、干渉するいわれはありませんが、こんな怪しい人物、嘘つき予言者を信用して何もかも個人データを知らせる人は、まあ物好きということになるのでしょうか。

”30 そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。”

鷲のひなは血を吸います。えものの血を吸うのです。
血を吸われれば死んでしまいますので、これは良いこと、祝福ではありません。
血は主イエスのあがないの血に通じるかもしれません。すると、吸われた人はあがないから外され、
救いから外されていくことになります。また、血は正餐のぶどう酒に通じます。聖霊のたとえです。
その場合、悪霊に触れたため、聖霊が去っていくということをいっているのかもしれません。

どちらにしても悪霊の鷲や、そのひなとたわむれる、具体的には悪霊の器を神の器と勘違いしている人にはろくなことが来ないことがわかります。

何故彼らはそんな勘違いに入るのか?その理由が、「殺されたものがある所に、それはいる」とのことばです。殺される、死は罪に通じます。それで、罪に陥る人、不法に入る人は結局悪霊と聖霊の区別がつかない、そう語っているように思えます。

このことは重要だと思うのでよく聞いて下さい。
神は恐るべき区分をすでに起こしつつあります。罪を犯すものは悪霊をみわけることができないのです。
この区分は理屈や教理ではありません。どうぞ知ってください。

さて、この節はまたテキストであるマタイ書の「 死体のある所には、はげたか(eagle:KJV)が集まります。」とのことばと似ておりまた、説明するものです。
死体とは要するに殺されたものと同じことを言っているのです。
テキストのマタイ書の警告は反キリストに惑わされないことを語っています。
それでは、反キリストを見分けるコツは何でしょう?どうすれば、だまされないのでしょうか?
それに関連して、聖書は、「 死体のある所には、はげたか(eagle:KJV)が集まります。」
と語ります。要するにだまされるのは、悪霊のえじきになるのは、死人、すなわち、罪に入っている
人だといっているのです。

そうです、この終末にあって、いかに私達の信仰の歩み、主につく聖別された歩みが
大切でしょうか。
これは生と死の区分をもたらします。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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