NO.422 神のことばとの戦い


”テキスト:黙示録19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。
17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
20 すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。”

本日は「神のことばとの戦い」という題でメッセージをしていきたいと思います。
終末の日の大きな特徴は、不信の民、冒涜の民が「神のことば」に対して、戦いを挑むこと、
主につく人々は、神のことばと戦いにはせ参じる、そのことを見ていきたいと思うのです。

順に見ます。

”11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。”

ここで馬について書いてあります。馬とは何のたとえかというと、
ヤコブ書に馬のくつわが教師のたとえ、馬は教会のたとえと書かれています。
ですから、ここでの馬も教会のたとえと
理解できます。白い馬とは、義の教会、また、この馬には、主御自身が乗っておられますから、
この教会は主につく教会であることがわかります。

”それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり”

この方はもちろん、主イエスです。さて、ここで使われている、「忠実また真実。」ということばは、
この戦いが何に対しての戦いであるかを暗示します。
当たり前のことですが、それぞれのことばには、それぞれの意味あいがあります。
主イエスに関して多くの称号が使われていますが、それぞれのことばには、それぞれの
秘めた意味あいがあるのです。

主が「羊飼い」であると称号された時、そこには、牧会される方としてのイエスの意味あいがあり、
「世の光」といわれた時には、正しい啓示を与える方としての意味あいがあります。
さて、それでは、「忠実また真実。」と呼ぶことにより、聖書は何をここで語ろうとしているのでしょうか?

それはこういうことでしょうか。
「忠実また真実。」ということにより、聖書はこの方が忠実なかた、誠実な方、約束を守る方であることを語ります。主は自分のことばに忠実な方として、「御子を信じる者のひとりとして滅びることなく」
とのことばを守り、主を信じるものを救い、守り、いやされます。
また、彼は真実であり、嘘や偽りがありません。彼が「私は世の光である」と言われた時、その
ことばは偽りでなく、彼を真に信じる者は、キリストから、光を得、真実を見るようになりました。
その結果、私達は今がどの様な時なのか、また、キリスト教会の今の真の問題は何なのか、正しく理解するようになったのです。彼の言葉は偽りでも嘘でもなかったのです。

さて、馬は戦いに用いられるものであり、その馬に乗られる方が、「忠実また真実。」と
呼ばれるという時、実は、そのことは、この戦いが誰に対して向けられたものなのか、その敵は
どの様な種類のものかを暗示しているように思えます。戦いである以上、必ず敵がおり、相手があるはずだからです。

忠実の反対のことばは、不忠実であり、真実の反対のことばは、偽り、嘘といったことばです。
実はこの戦いが、不忠実なもの、また偽る者、嘘を語る人々に対するものであることが、
想像できるのです。

今はどの様な時代、今の教会はどの様な教会でしょうか。私が理解する限り、
今は、「ことばは神である」といわれた方のことばに関するあらゆる種類の冒涜、
暴言、不忠実、偽りがまんえんしている時代です。
もちろん、私は教会に関して語っているのです。

神学校は牧師を育てるところであり、牧師は教会を指導するものですが、悲しいことには、今の神学校は、あらゆる種類の冒涜教理、冒涜神学を率先して、広めるところ、冒涜者達のばっこする
ところとなってしまいました。
多元主義というヒンズー教も仏教もキリスト教もミックスするような恐るべき、
混交主義は、神学校、また愚かな神学校の教師達をもとに教会に広められています。
また、かつてあのルターが命がけで勝ち取った、偽りの教え、カソリックとの分離は、
同じく、神学校の冒涜盲人教師をもとにしたエキュメニカル運動により、崩されつつあります。
同じくあの偽り者ピーターワグナーを始めとするしるしと不思議を吹聴し、みことばを
巧妙にすりかえるトランスフオーメーション、パラダイムシフト等は、アメリカフラー神学校、及び、
何の吟味もなく追随する愚か者の日本の神学校教師により、日本の教会に広がっています。

しかし、終末の日、神のことばといわれる方が起こそうとする戦いはこれらのみことばを曲げようとする
愚か者どもに対する戦いであることを知るべきです。

”義をもってさばきをし、戦いをされる。”

裁きとは断罪されること、罪を犯すものがその酬いをうけることをさします。
人を殺すものは裁きを受けます。
人の家に押し入り、金を奪ったり、また命を奪うものは警察に追われ、捕まって裁判に
かけられたりします。

ここでいう「義をもってさばきを」する方は誰をさばき、誰を断罪するのでしょうか?
もっとも予想されることは、「神のことばを変えて偽り」とした人々への裁きが行われることです。
また、彼は「戦いをされ」ます。
この戦いはどの様なもの、誰に対してのものでしょうか?
これも同じく、みことばに関する戦い、終末の日におけるあらゆる偽りの狭義、空想話、神学校で繰り広げられている、バルトだのカルトだのあらゆる種類のヨタ話に対する戦いであることが予想できます。

さて、この方、ことばなる方は、戦いに出ているのですが、しかし、ただ一人でなく、馬がおり、
白い馬に乗って戦いに出ていることがえがかれています。馬は先程書いたように、義の教会、
主につく戦いにはせさんじる教会、主につき、その戦いに出ることをいとわない勇気ある人々の集まり、
エクレシア、召会、アッセンブリー、会衆、すなわち教会であることがわかるのです。

その様なわけで私達は知らなければなりません。教会には多くの面、働きがあるのですが、
終末における主につく教会の一面、すなわち、馬によって明らかに示されている、「戦いに参加する」もの、その日、主の戦いに用いられるものとしての教会の役割を
知らなければならないのです。以下の馬に関する記述により、この動物に関して聖書が
語る「戦う動物」としてのたとえを理解できます。

”ヨブ39:
19 あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。
20 あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるか。そのいかめしいいななきは恐ろしい。
21 馬は谷で前掻きをし、力を喜び、武器に立ち向かって出て行く。
22 それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。
23 矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。
24 それはいきりたって、地を駆け回り、角笛の音を聞いても信じない。
25 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。”

「それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。」と書いてあります。剣はみことばに
関するたとえであり、馬はみことばの戦い、教理論争を恐れない勇気ある教会のたとえであることがわかります。

剣の戦いという概念は今のクリスチャンが忘れ去ってしまったものです。
残念ながら、日本の教会には、みことばが冒涜され、「ことばは神である」と言われた
方の名前が辱められてもそのために剣を持って戦おうという人々はあまり多くはいないようです。
どんなひどいことをいう人、冒涜的な教理ををいう人であっても兄弟姉妹なので、お互い寛容にならなければならない、決して批判的なことをいってはいけない、そうでないと「愛」がない人と
呼ばれてしまうから..だとのことです。
しかし、失礼ながら、これは、腑抜け、腰抜けの論理です。

かつての日、赤穂の武士達は、城は断絶、己が身が、浪人となっても、しかし、腑抜けでも腰抜けでもありませんでした。彼らには、今は亡き主君の意志を継ぎ、その無念を果たすために刀を取り、剣を取る、
勇気があったのです。結果、主君の仇は打ち取られ、彼らは今に至るまで、忠臣と呼ばれ、
その誉れをとりざたされています。

私達の主、「ことばは神」といわれた方も同じく、今仇の手により冒涜され、
キリストは実は復活しなかった、聖書の記述は民衆の願望を描いたもの、史実ではない、
進化論は科学的(創世記は神話)等のあらゆる冒涜話は教会にまんえんし、神学校を舞台に繰り広げられているのではないでしょうか?

これらの冒涜に耳をふさぎ、御身かわいさに、また「愛のない人」と呼ばれたくないために、
口をつぐむ人々を何と呼ぶべきなのか?
「愛があり、常識もあるクリスチャン」?
いいえ私が思うには、それはただの腰抜けでしょう。

さて、これらの腰抜けが語るよた話はともかく、この箇所にみことばなる方が乗る「馬」が書かれていることは事実であり、これは、終末の日に主の戦いにはせ参じる勇者が現れることを語っています。
彼らは、信仰の勇者であり、主に誉れを受ける人々です。

”12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。”

目は炎であることが書かれています。炎はペンテコステの日に使途達に下った聖霊に通じ、
これは、霊のたとえです。この方は裁きのために来られるのですが、その時、
炎、霊に関することばが書かれているのです。

これは何を意味するのか?私が思うに、この方と剣を交える者、恐れげもなく、
「ことばは神である」といわれた方のみことばに戦いを挑み、これを偽りとみなす
愚か者に対して、その日、主から「霊」に関する裁きが行われることを語っているように思われます。
具体的には偽りの剣、みことばの改ざん、偽りの解釈、手前勝手な終末論をふりかざす愚か者は、
主の許しの下で、偽りの霊のとりこになっていくのかもしれません。
そして、その結果、「目」、見ることがやられていきます。
すなわち、惑わしの霊の下で、正しいことが見えなくなるのでしょう。それが「その目は燃える炎であり」と書かれたことばの意味あいです。偽りものどもは盲人となり、
結果として、獣の霊が聖霊に見えたり、獣法皇が信仰の模範みたいに見えてしまうのでしょう。
困ったものです。また、偽りの総元締、嘘つき狼少年ピーターこと、外れ預言で有名な大嘘つきピーターワグナーあたりが、すばらしい福音派の神学者みたいに見えて来たりするのです。
既にそんな眼病患者が多くなっています。これも困ったことです。そうです。もう既にこのみことばの預言は成就しつつあるのです。このことばが預言している日は時を知らない愚かなクリスチャンが夢想する
程、遠い先のことではありません。

「その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」

この日、主の頭に冠があり、そこに「ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた」ことが
記されています。
このことばの意味あいはどういうものなのでしょう?誰も知らない名である以上、誰も気付かない
名前であることが想像されます。
冠はオリンピックの優勝者が受ける月桂冠の様に誉れを受ける者が与えられるものです。
しかし、誰も知らない名前が書かれた冠では、何の競技の優勝者だか、誰もわかりません。
マラソンの勝利者なのか、サッカーなのか、はたまた体操の優勝者なのか、
わからないのです。
かつて、主は2000年前、地上に来られ、信仰の創始者、完成者として歩み、
神の前に冠を受け、誉れを受けました。しかし、この誉れを知る人は当時のユダヤの会衆(集まり=教会)指導者、長老、祭司長達の中にはほとんど誰もいませんでした。むしろ、彼に与えられたのは
あざけりの嘲笑、けいべつだったのです。

さて、終末の日、主につく者達が受けようとする冠も同じ様なもの、誰も知らない名前が書かれたものであることが想像されます。何をいっているのかというと、彼らは終わりの時代、その時代の教会指導者、また会衆(教会)の中ではむしろ異端視されると思われるのです。

”13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。”

馬に乗り戦いに出ていくものの衣に血がついている場合、この血は救急車の隊員や医者が白衣に付ける血とは意味あいが違います。医者の白衣に付くのは患者の血でしょうが、戦いに出る者の衣に付く
血は敵の血であり、戦いの結果の血です。
この血には戦いが想像されるのです。

血とは霊に関するたとえであり、このことばなる方と戦う者が巻き込まれていく偽りの霊による
裁きを物語ると思われます。すでにみことばに対して剣を持ち、いどむ多くの人がこの血を受けており、既に惑わしの霊の中にいます。

”その名は「神のことば」と呼ばれた。”

この戦う方は「神のことば」と呼ばれています。ですから、このことばから明確に想像できるように、
終末の戦いは、ことば、神のことばを中心にして戦われるものなのです。
ですから、終末の戦いはすなわち、みことばに関する教理合戦、解釈に関する戦いであることが想像できるのです。そうです、Q資料だの、近代神学、フェミニスト神学だの、曲解聖書訳だののあらゆる偽りに対する戦いが始まるのです。

”14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。”

さて、ここで「天にある軍勢」が出てきます。これは戦いに関する話であり、戦いである以上、
味方とともに敵、相手があるはずです。一体誰がどの様な人と戦うのか?
このことは主イエスの時代のことを考えれば理解しやすいと思えます。
主イエスの時代においてもこの「神のことば」に関する熾烈な戦いが起きました。
彼、ナザレのイエスはその故郷の地を出て、一路、エルサレムをめざしました。その都は、
当時の神の民の国の中心の都であり、中心的な祭司長、律法学者、パリサイ人達が住むところだったのです。彼らのもとへ上った彼イエスは、恐れげもなく、神のことばを無にし、曲げ、曲解する彼らに対して論戦を挑み、そして、その誤りを鋭く正したのです。
そして、この戦いの勝敗はどうなったのか?

彼、イエスは十字架につけられ、この戦いに敗北したかの様に見えました。
しかし、事実はそうではなく、「 天にある軍勢」すなわち、彼の後に従う、地に望みを持つのでなく、
天を国籍とする12弟子を始めとする軍勢は臆することなく、これらの「みことばを曲げる輩」に戦いを挑んでいったのです。彼らはまた、「まっ白な、きよい麻布を着て」いるもの、すなわち、神の義をまとうもの、そして、「白い馬」すなわち、主につく会衆です。
彼らは天下をひっくりかえし、このみことばに関する戦いに勝利を収めたのです。
教会は彼らの勝利の上に建てあげられました。

そしてこのことは終末の日にも繰り返されるでしょう。

すっかり変質した教理、教え、その腐敗と背信のまっただなかにこの白い馬に乗った、
主につく軍勢、堅くみことばにつく人々があらわれるでしょう。
彼らには勝利が与えられます。
 

”15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。”
 

神は侮られる様な方ではないと聖書に書いてありますが、いつまでも現在盛んに行われている
聖書のことば、神のことばへの冒涜が許されるわけではなく、逆にこのことに関する裁きが
背信の教会に対して行われます。否、もうすでにそれは起こりつつあります。

「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた」

これは、剣により、諸国の民が打たれる日を預言したものです。諸国の民とは?
諸国の民とは、旧約の日においては、エドム、バビロン、エジプト、アッシリヤ等であり、
これはまた現在の教会におけるいろいろな種類のクリスチャンの民をもさします。
これらの多くのクリスチャンの教派、教会の不信を裁くため、剣による裁きが行われると語っているのです。剣による裁きとは?剣はみことばのたとえであり、恵みのみことばが裁きに用いられると言うことをさすと思われます。

そんなことがあり得るのか?私はあり得ると思います。否、このことはもう既に始まりつつあります。

鋭い剣は、鈍い剣と異なり、切れ味抜群です。
すなわち、誰も太刀打ちできない、巧妙な
論理、教理によりクリスチャンが偽りに倒されていきます。
欧米において第三の波系の人々が語る再建主義、神の国を今、また五職の復活、
回復の教理、後の雨の教え等はまさに鋭い剣であり、みことばをもとに語られているので、
堅く主につかない人々はすぐに惑わされ、ずらされていきます。
また、ローザンヌ会議を舞台にして行われた世界の福音派をずらし、
別の福音へひっぱっていく試み、怪しい契約を誓わせたことがらなど日本では気付いている人は皆無の様です。これも鋭い剣です。

「この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。」

杖は牧者が持つものです。普通牧者が持つ杖は木製でしょうが、しかし、ここでは、「鉄」の
杖で牧することが書かれています。
これは何を意味するのか?木で叩かれるより、鉄で叩かれる方がずっと痛いし、
打ち所が悪ければ死んでしまいます。
鉄の杖は苛酷な牧会、厳しい支配を意味すると理解できます。
終末の日に、いい逆らう民、神のことばを守ろうとしない民、
それどころかあろうことか、聖書のことばに難くせをつけて、この箇所の女性べっ視の箇所は
書きかえるべきだと何か勘違いをしているフェミニスト神学、らい病に関して、聖書理解を改めるべきだと聖書に命令するかの様な、ヒューマニズム、人間中心主義の人々、またそれに賛同する人々に
裁きが下され、教会は鉄の支配、鉄の牧会への引きずりこまれていきます。

実はこのことはもう始まりつつあり、地平線の向こうには、鉄の杖を持った怪しい使徒、預言者が
群れをなして全世界の教会を支配すべく、その権威と地位を主張しています。

もうすでに、欧米において、第三の波主導の変質教理、改版教義の下で、クリスチャンは、圧迫の下へ置かれつつあります。彼らはみことばを
曲げ、教理を変質させ、聖書の5職の教えを異常に強調し、使徒、預言者の位置をあたかもキリストの様に高い位置に置こうとしています。
その上でこれらの「油塗られた使徒、預言者に逆らう者は反キリスト」であるとの強引な解釈の上で、
全ての教会を傘下におくべく、支配権を強めています。このヒエラルキー、支配システムが完成した日、
多くのクリスチャンは、これらの使徒、預言者によるあらゆる苛酷な
要求の下で呻吟するようになるでしょう。これらの使徒達は巧妙にみことばをたてにとって、彼らの支配を正当化しようとします。しかし、この裁き、この動きは、神から出たものなので、誰も逆らいえないのです。「鉄の杖で牧す」と書かれているよとおりです。

”16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。”

これらの使徒、預言者は、あらゆる詭弁とあらゆる巧妙な聖書解釈を持って、またあらゆる不思議をもって、神の民に対して、自分達の権威、支配の正当性を主張するでしょう。
彼らはこれから、大いに教会を支配するようになるでしょう。
何故この様な偽り者の支配が教会において許されるのか?
それは今の教会が真に王である方を王としてあがめ、聞き従っていないから、
またこの「ことばは神」といわれた方を主としていないからです。
もし、彼らがみことばを正しいものと認め、それを尊重するなら、今、この時代に
何が起きているのかを理解するでしょう。

しかし、このことばを主としない、そのため、彼らは他の主、他の王、すなわち、怪しい
使徒、預言者を王や主の位置に置くようになるのです。

”17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」”

ここで「太陽の中にひとりの御使い」というように、太陽が裁きと関係してあらわれることを見ます。
このことの意味あいは?
太陽は天の星であるクリスチャンの集まり、教会の中で、ひときわ光り輝く、大きな「星」です。
すなわち、教会における偉大なクリスチャン、器、働き人のたとえです。
終末の日にこの働き人が悪く用いられ、不信の民を裁く為に用いられます。具体的には怪しい使徒達の
強権の下で厳しい支配が教会に与えられます。全てのクリスチャンはこれらの使徒に絶対服従する様、要求されるようになります。これは、私の想像や思い込みではなく、既に欧米で起こりつつあることがらです。

「中天を飛ぶすべての鳥に言った。」

鳥はたびたびいうように霊のたとえです。ですから、この日、多くの人が怪しい悪霊の洪水で殺される、
また悪霊に倒されることを語っているのです。誰が倒されるのか?それは、冒頭から明らかな
様に「ことばは神である」といわれた方のことばを踏みにじり、怪しい自己中心的な2段階再臨説を始めとする偽りの教えを喜んでいる人々、また進化論は正しい、聖書にも誤りがあるとの冒涜話に興じている愚か者、これらの「ことばは神であ」といわれた方に戦いを挑む愚か者のことです。彼らは当然の報いとして、これらの悪霊に倒されていくのです。

「肉を食べよ。」

肉を食べよとのことばも象徴的です。かつての日、ノアの日に聖書は、「全ての肉なる者の終わり」が来ていることを語りました。これは、御霊でなく、肉に従う人々をさします。同じく、
終末の日に鳥、悪霊のえじきになり、惑わしに入る人々も肉にある人々であることが予想されます。

”19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。”

この日、獣と地上の王達が、馬に乗った方と戦いを交えることが書かれています。
馬に乗った方は主イエス、すなわち、神のことばといわれた方であり、
その日、獣のその軍勢は恐れ多くもこの方と戦い起こそうと不遜な
考えを起こします。

それで繰り返しますが、
しかし、もう一度書きます。終末の日には、神のことばを中心にした戦い、争い、
具体的には教理論争が起きることを聖書は明らかに語っているのです。
どんな戦い、戦争でもそれに参加する兵士は、命と生との間を行き来します。
同じく、この戦いへの参加、態度により、全ての神の兵士、イスラエル、すなわち
クリスチャンは、生と死、二つの間を選ぶことになることを知ってください。

はっきり言っておきます。この戦いに中立などありえません。
全てのクリスチャンがこの戦いへの態度により、はっきりと選別されてしまうでしょう。

「獣と地上の王たち」

このみことばに対する戦いは具体的にどのように始まるのでしょうか?
ここに書かれているように、獣、具体的には、獣の国、アメリカこそこの
戦いをもたらす鍵となる存在なのです。
この獣の国は、ありとあらゆる国を攻撃し、爆弾を落とし、人を殺しています。
日本においては原爆による30万の人を含む100万以上の人々がこの国に殺されています。
ベトナムでは、300万人、アフガン、イラク等、この殺人国により殺された人は数しれません。
この国が殺人国なのは戦争や軍事の面だけではなく、キリスト教の世界でもそうなのです。
この国は命の教えであるキリスト教の教理を変えて意味のない人間的な教えへと変えること、
また異端的な教えを広げることに余念のない国です。すこし考えても、
ものみの塔、モルモン教、また統一教会、あらゆる異端がこの国発でばっこ、広がっています。
その上最近は、いろいろいいがかりをつけて、福音的な教会をカルト呼ばわりする運動さえ、この国発で広がっています。
ですからここでさしている獣の軍勢とは具体的には、獣の国発の偽りのキリスト教運動、ムーブメント、リバイバル
運動等をさすと思えます。

もっと具体的に言えば、(悪霊の)第三の波、嘘つきピーターワグナーを始めとする、
怪しいリバイバル運動もその一つです。

ですから、この怪しい獣の国発のリバイバルを吟味も見きわめもなく、盲目的に受け入れている、
この国の盲人牧師ども、盲人キリスト教雑誌、新聞、出版社達は一体自分達が何をしているのか、
立ち止まって考えるべきなのではないでしょうか。

自分達がしていることは実は恐るべきこと、黙示録で名指しされている獣の軍勢、獣の働き、反キリストの
働きに加担することがらなのだということを少しは考えるべきなのです。

このアメリカこそ、歴史上の全ての国にまさって、もっとも「黙示録の獣の国」に近い国、この獣の国のあらゆる要素を
満たす国であり、まさにその国に該当する可能性のもっとも高い国なので、このことは非常に現実味のある
ことがらであることを知るべきです。

「地上の王たち」

この方、ことばなる方と戦いを交える人々が「地上の王達」であることが書かれています。
地上とはこの世のことであり、現在のこの世界の宗教の指導者、支配者ということです。
かつて主イエスの時も地上の王達である祭司、長老や律法学者達は、ことばなる方イエスと戦いを交えました。同じく、終末の日には、あらゆる教派、教団の指導者達は、この方のことばに逆らうようになるのでしょう。すでにカソリック、ギリシャ正教、英国国教会、ルター派等あらゆる教団のトップは怪しい発言を発しています。「イエスの復活を信じない」と語って英国国教会のカンタベリー大司教を始め、
冒涜者になり下がっています。

これらの反対者が「地上」の王であることも暗示的です。今の神学は、
ますますこの世的、地上的なもの、人間的なものになっています。

”馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。”

これら獣の国のヨタ話神学、冒涜神学を得意になって吹聴する愚か者神学者、
阿呆たれ神学校教師どもを始めとする冒涜者は、聖書的に自分達が一体、何をしていることになっているのか知るべきです。
ここに書かれているように、彼らは「すばらしい現代神学を紹介している」のでもなく、
欧米の最先端の神学潮流を学生に教えているのでもなく、ただ、ただ、「馬に乗った方とその軍勢と戦いを交え」ていることを知るべきです。

欧米からのヨタ話神学とは?
すなわち、フェミニスム神学だの、エコロジー神学だの、「見え透いた嘘」を
ちりばめた神学等のことです。
これらについては別途書きましょう。
 
 
 
 

”20 すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。”

さて、恐れ多くも「ことばは神である」といわれた方のことば、聖書のことばに戦いをしかけた
獣とその仲間の末路はろくでもないことになりました。
同じくあらゆる冒涜神学、冒涜訳聖書を推進している獣民族の末路も碌なものではないでしょう。
もちろん、それらの冒涜神学を得意になって吹聴している人々も同じです。

「獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々」とは霊的なものに関係するように読めます。ですから、トロント、ペンサコーラを始めとする獣リバイバルに奔走する
人々と関係あると思われます。
彼らは裁かれます。

”21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。”

「口から出る剣」とは明らかにみことばに関する表現です。口から出るものは普通「ことば」です。
また剣とは、「御霊の剣、神のことば」との表現があるように、これも神のことばに関する表現なのです。
ですから、終末の日、神のことばに対して戦いを挑むふらちな輩は、その日、そのことば自身により、
殺されていくのです。

剣や刃物は良く用いれば有用ですが、悪く用いれば災いをもたらします。
包丁を正しく用いればおいしい料理ができますが、悪く用いればそれをもって、家族が殺されたりします。
神のことばは幸いであり、恵みをもたらすものなのですが、しかし、これを冒涜する者に対しては災いとして用いられ、
死をもたらすものとなることを知りましょう。

たとえば、神のことばにも間違いがあると公言するあのトンデモ教会、カソリックでは、
このことばが人々に災いをもたらすものとして用いられています。
この教会においては、救いは信仰によるとは名目だけであり、実際には良い行いが救いのため、天国に入るためには必要と説かれています。しかし、この教理はこの教会の信者に重い重荷を負わせ、不安と、
絶望を与えます。何故かと言うと、どれ程良いことを、善行を行ったら天国へ入れるのか誰もわからないからです。苦行に苦行をかさね、ひざで歩いて聖地まで巡礼しても、自分が本当に天国へ入れるのかどうか誰もわからないのです。

しかもこの教理を「聖書」をもとに、神の権威、教会の権威のもとに宣言されるので、
誰も反対し得ない、皆、先の見えない信仰生活を送るしかないのです。
これは、何か?みことばを侮る民が当然の様に陥った、「ことばにより殺される」状態です。
恵みをもたらすはずのみことばは彼らにとり、殺すものとなったのです。

「すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」とのことばももうわかると思いますが、
霊に関する表現、悪霊の惑わしに関する描写です。

みことばを真実としない愚か者は、ありとあらゆる悪霊の惑わしに入っていくということです。
キリストは2回に渡って再臨するなどと偽りに加担する愚か者は悪霊にやられていきます。
あの黄色人種セム
族にしては、色の白い偽ユダヤ人が本物に見えてしまうというのも、色盲の悪霊(?)に
やられているのでしょうし、眼の前に史上最大の獣の帝国を見ても、
「いつかヨーロッパを反キリスト」が出てくるなんてヨタ話が正しく思えるのも、こちらは近視の霊(?)
にやられているのでしょうか。

トロント、ペンサコーラに働く霊が聖霊に見えるなんて言うのは明らかに冒涜の悪霊にやられているのでしょう。

いうまでもないことですが、エコロジー神学だの、フェミニスト神学だの、多元主義だの聖書改ざんに荷担する冒涜神学を教会に持ち込む愚か者どもはいづれ自分の行いの実を見るようになるでしょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
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