NO. 421 旅人の墓


”マタイ27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。
10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」”
 

本日は旅人の墓という題でメッセージしたいと思います。
かつて、主が値積もりされた価、銀貨30枚をもって、人々は「旅人の墓」を買いました。
このことの意味あいを考えたいと思うのです。

テキストを順に見ます。

”1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。”

この日、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議しました。
これは、何か?これは、背教の極みであることを知りましょう。
子供が親を殺す、これは、親不孝の極致です。
また、生徒が教師をナイフで刺し殺す、これは、何か?
これは、三尺さがって師の影を踏まずどころではない、忘恩の極致です。
それでは、神が特別に送ったその一人子を捕まえて、「神の民」が、全員一致で死刑にする、
これは、何か?これこそ、背信に背信を重ね、不信に不信を重ねた神の民の罪の極致の姿であることを知りましょう。

彼等は最後の一線を超えてしまいました。
もう、神の慈愛や、許しや、寛容の限度を超えてしまったのです。
後は、ただ、言い逆らう者に与えられる裁きを待つだけだったのです。

事実、この後、救いと恵みと祝福と選びは、この民から取り去られ、
彼等は神の裁きへと入っていきました。
さて、同じことが終末にも起きるでしょう。
ここで、彼等は「油注がれた者」イエスを死刑に定めた様に、終末の日において、
全ての神の民、全世界のキリスト教会のトップ
はこぞって、70週の終わりに、神により「油注がれた人々」をカルト、
反逆者として、死刑に定めるでしょう。そしてこれは、また神がその「新約の神の民」に与えていた、寛容、慈愛、許しを断ち切る日でもあります。

”2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。”

この日、ユダヤ人は、イエスを死刑にしたかったのですが、しかし、そのために
直接手を下すのではなく、ワンステップ置いています。すなわち、
ローマの総督ピラトに渡し、彼の手により死刑に処したのです。
このことが終末に関して語ることは何でしょうか?

想像できることは、終末の日においても新約の神の民は直接カルト、異端であると名指しにした人を
を死刑にするのではないこと、逆にローマの手を借りるということでしょうか。
現在においてはローマ帝国は存在しません。しかし、ローマの末裔、すなわち、ヨーロッパ各国からの
移民によってできた国、アメリカは存在しますので、この国主導で、カルト処刑の働きは進むのでしょう。
 

”3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、”
 

ユダはイエスを売りました。そして、銀貨三十枚がその代価だったのです。

”4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。”

ユダは後悔し、その金を神殿に投げ込んだのですが、しかし、祭司長達はそれを神殿の金庫にはいれませんでした。

”7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。”

この金は、陶器師の畑を買うために使われました。
さて、このことを考えて見ましょう。「陶器師」ということばで何を聖書は語っているのでしょう?
陶器師は何かといえば、すぐわかることは、主なる神御自身が陶器師だということです。

それでここでいわれている「陶器師の畑」とは、神御自身の畑という意味あいであることがわかります。
畑の意味あいは?
畑は麦が育つ場所です。麦は命のパン、みことばと関係することばです。
ですから、ここでいう畑とは、命のみことばを聞いて育つクリスチャン、神の民の育つ所という意味あいと考えられます。その畑を彼、キリストは、自らの命の値段をもって買い取られたのです。

このことで思い出すのはいつも正餐式で読まれることば、パンに関することばです。

”1コリ11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」”

渡される夜とは、死に渡される夜との意味あいであり、すなわち、このパンには、
主の命がかかっていることがわかるのです。

それで、私たちは、神がそのみことばに関して語るその重さについて理解すべきと思われます。
この世界、俗世界にはあるひとつの畑があり、そこに麦が育ちます。
これこそ、この畑こそ、陶器師の畑であり、この場所こそ、神が目をとめている場所なのです。
そして、それは、他でもない、陶器師自身の命、キリストの命を持って買い取られたものだというのです。

”旅人たちの墓地にした。”

旅人ということばで思い出すのは、旅人、寄留者として歩んだアブラハムのことです。
以下の様に書かれています。

”ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”

彼、アブラハムは、この世において、旅人であり寄留者として歩み、テント生活をしていました。
土地も家も持たなかったのです。これは、この世に定住しない、旅人であり寄留者として歩むクリスチャンの型です。
さて、このアブラハムが唯一所有し、買いとった土地があります。それは、墓であり、
マクベラの墓です。このことの意味あいは何でしょう?何故彼は地上に土地を持たないのに、何故例外的に墓を買ったのでしょう?

私はこんな風に思います。
私達、クリスチャンは、この地、この世において名声も財産も地位も得る必要はない、また
土地も家もこの世の財産を積む必要はない、しかし、唯一気をつけること、力を注ぐべきことがあり、買いとることがある。
それは、墓である。墓の意味あい、それは墓は死後、入るところであり、死後の行き先を暗示する場所である。墓を買うこと、これに注意を払い、価を払うということは、すなわち、我々は死後のことに
注意を払い、価を払い、財産を使うべき、そのことを示しているように思うのです。

さて、上記、「旅人たちの墓地にした」とのことばは、明らかに「旅人であり」、「墓を買った」アブラハムのことと関連があると思われます。

ですから、この陶器師の墓には、「旅人」が入れるのです。
この陶器師とは、創造者のことであり、イエスキリストのことです。この方が自分の命をもって買い取った墓には、唯一「旅人」のみが入れるのだということを心にとめましょう。
旅人とは?すなわち、上記ことばによれば「信仰の人々として死」んだ人のことです。
そして、「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」人のことです。

逆にこの世にすっかり飲み込まれ、この世との境のない人々は、旅人の名に値しません。
彼等はこの世の人として死ぬことになるでしょう。この旅人の墓に入るようになるかどうかは、
不明です。
 

主イエスのその尊い命の価をもって買われた畑は旅人の墓となりました。
逆のいいかたをするなら、主は、この旅人の墓を買うために自分の命を犠牲にしたともいえます。主イエスのしたことは、聖書の他の箇所にある様に、畑に隠してある宝を見つけて、大喜びで、自分の全財産を売り払って畑を買いとった人の様なのです。彼がこの世でその命に値付けられた価は、ほんの
銀貨30枚に過ぎませんでした。しかし、彼は大喜びでこのわずかな価銀貨30枚でーそれが彼のこの世における全財産なのですー畑を買い取り、そして、
その畑の「宝」を買い取ったのです........こう書きながら、私の胸に迫るものがあります。

”8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。”

血はまた、聖霊のたとえです。この畑、主の命をもって買い取った畑にはまた血に関する名前が
ついています。すなわち、ここには、聖霊の働きがあるのです。
そしてもう一つ言えることは、血は当然、主イエスの流された血、死ぬときに流した血をあらわします。
以下のことばをまた、思い起こします。

”1コリント11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。”

ここで書かれているのは、杯すなわち、ぶどう酒は、主の血の契約であること、そして、
それはパンと同じく主が「渡される夜」すなわち、主が命を落としたその夜、
分けられたということです。
このこと、杯、ぶどう酒すなわち、聖霊の働きには主の命がかかっていることをこの箇所は、
暗示しています。また、「この杯を飲むたびに、..主の死を告げ知らせるのです。」も
それを語ります。

ですから、我々は主のパンである、聖書のことばを読む時、また聖霊の働きを感じる時、
知らなければなりません。このことの裏に一人の人の命がかかっていることを。

単に正餐式の時だけ、厳粛にしていればいい、そういうものではないのです。
私達が聖書を勝手に改ざんする偽りものどもに戦いを挑む時、それは単に教理論争、
信条の問題、学問の問題ではありません。それは、
私達の主とする方の命がかかっている問題なのです。

かつての日、赤穂の武士達は、自分達の主君が一方的に切腹させられたことを
おめおめと見過ごしにしませんでした。
彼等は命がけで、主君の無念を晴らしました。

彼等はこの国で尊敬される忠臣です。我々はその子孫であり、
この国は腰抜けの国ではなく、我々は主君の冒涜を見過ごしに
するほど、寛容ではなく、また腰抜けのクリスチャンではありません。
この主の命のかかっている「ことば」を改ざん、冒涜する者どもは非難を覚悟すべきです。
 
 

"
9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。
10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」”

このことばは私がさがした限りエレミヤ書にはありません。

しかし、何はともあれ、この箇所は、エレミヤが、「銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である」と預言したと語っています。

くり返しますが、主がその命の値段として、この世から、いえ神の民から値積もりされた
価、値段は銀貨30枚でした。日本の銀貨が今、100円ですから、これを30枚としても、たったの3千円にしかなりません。そして、そのお金は、旅人の墓を買うために用いられたのです。

そして、旅人、すなわち、この世の寄留者のみその墓に入ることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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