NO.418 三日目の解放

 

 
 
 

テキスト:”創世記42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」
3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。
5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。
6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。
7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。
9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。
11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」
12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」
13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」
14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。
15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。
16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」
17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。
18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。
19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。
20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。
21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」
23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。
24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。
25 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。”

本日は「三日めの解放」という題でメッセージしたいと思います。
かつての日、兄弟によりエジプトに売られたヨセフの下でその10人の兄弟は、3日間の間、
牢に閉じ込められ、3日目に解放され、穀物を与えられます。
このことのたとえの意味あいを見ていきたいと思うのです。
 

順に見ます。

”1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」”

かつての日、ヤコブ及びその子供達は、みな、ききんの中にありました。
ききんとは穀物のないことであり、このことのたとえの意味あいは、穀物、麦、パン、すなわち
命のパンであるみことばのききんがあるということです。

そして、終末の日にも同じことが起きます。
すなわち、アジアの地に移り住んだイスラエル民族の子孫は、その日、ききん、すなわち、
神のみことばに対する飢え乾きを覚える様になります。
そして、エジプトにあるという穀物、すなわち、神のことばを求めようとするのです。

”3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。
5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。”

それで、「ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行」きました。
この人たちの熱意、願いは何も悪いことではないように思えます。
彼等は飢えており、穀物を求めており、きちんとお金を払おうという意志があるからです。
しかし、彼等には他の人の様にスムースに穀物をもらえないまでんでした。何故か?
理由がひとつだけあります。
それは、この穀物はヨセフを通してしか受けることができず、そして、
この10人の兄弟はかつてヨセフを殺そうと試み、また彼を売ってしまったのです。
今、その酬いを受けているのです。

”5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。”

これらの穀物を買いに行く人々は、たとえききんがあり、穀物がないとしても、
エジプトへ行き、求めれば穀物を買うことができました。彼等には特別な困難はありません。
しかし、イスラエルの息子たちには、その地で困難が待ち受けており、
スムースに穀物を受けることはできず、逆に監禁されてしまいます。何故でしょう?

それは彼等が穀物を売る人、ヨセフに
対して行ったかつての惡のためです。

同じくアジアにいるイスラエル民族の末裔は、このヨセフすなわち、イエス
へ行った惡のため、穀物、すなわちみことばに預かることに遅れ、また困難に会います。
「カナンの地にききんがあったからである。」と書かれていますが、アジアの地はキリスト教の福音に触れることに大変長い間、遅れていました。そうです、ききん、すなわち、神のことばへの飢餓状態が
随分長い間続いたのです。日本だって、永年鎖国し、キリスト教の福音が許可されてから、まだほんの100年少ししかたっていないのです。日本に限らず、ききんは他のアジアの地をも長い間おおっていました。

”6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。”
 

さて、ききんにある兄弟とは異なり、「ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者で」した。片やききんにあり、食べる物に窮する人々があり、片やその穀物を大いに持ち、
その穀物を売る権利を一手に引き受けている人がいます。そして、これら両者は兄弟なのです。
これは、アジアにいるかつてのイスラエルの子孫とキリストとの関係を端的に表すものです。
穀物を売る権利がヨセフ一人の手にあったように、私達の霊の穀物、神のみことばを
誰に与えるか、与えないか、またききんにとどめられるか否かは、ひとえにヨセフすなわち、キリスト
の手にあることを知るべきです。

そして、かつての日、彼等兄弟達は一致結束して、この兄弟ヨセフを追放、迫害、穴に投げ込み、売ることにしましました。
怒ったヨセフがその後、穀物を彼等に売り惜しんだとして、何の不思議があるでしょうか?
同じくアジアに散らばるイスラエルの兄弟部族に対して、彼等に売られた兄弟、イエスキリストがみことばのパン、穀物を彼等には売り惜しんだとして、やはりここには不思議がありません。

「ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。」と書かれています。
それで、この様なききんの後、終末の日にアジアの各国がこの兄弟である、ヨセフを伏し拝む日が
来ます。すなわち、アジアの国々がキリストを伏し拝み礼拝する日が来るのです。
それは、黙示録に記された日のことです。その日、太陽の上がる方角、すなわち東の地、アジアで、キリストを拝することが起こり、その結果、神の印がイスラエルの子孫に印されます。

”7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」”
 

ヨセフは彼等が自分の兄弟であることを理解しましたが、それにもかかわらず、「彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい」ました。
このことばは暗示的であり、また
長い間成就してきました。
この福音、キリストの福音は、長い間、アジアの国々にとっては無縁でした。
まさに、ヨセフ、キリストはアジアにいる自分の血肉の兄弟に対して、「彼らに対して見知らぬ者のようにふるま」ったのです。
何故そうしたのか?それはいわずとしれた、我々が彼に対して行った数々の非礼のゆえです。
 

「荒々しいことばで彼らに言った」

それのみか、ヨセフは自分の兄弟に対して、優しく、受け入れるというより、「荒々しいことばで彼らに」語ったのです。このことばもアジアの人々に対して成就しているといえるでしょうか。
ヨーロッパの人々に対して、やさしく、また明確に表されたキリストの福音は、アジアの人に対しては、
必ずしもそうではありませんでした。
何か難しいもの、難解なものとなり、その神髄はなかなかアジアには伝わらない長い
歴史が続いています。

 ”8ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。”

兄弟達は自らの兄弟である、ヨセフを目の前にしてもそれが彼だとは気がつきませんでした。
兄弟なのにわからない?
あまりあり得ない様ですが、しかし事実そうだったのです。
同じく、私達、アジアにいるイスラエルの子孫もかつての自分達の兄弟、キリストに対しても
同じ様な態度をとります。否、今とっています。
キリストといえば、碧眼、金髪の西洋人であると我々アジアの人々は思っています、しかし、
実際は何と人種的に彼は我々と同じ、いいえ、それどころか、我々の兄弟なのです。そう、
確かに我我は彼をそれと気付いていません。
 

”9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。”

この日、かつてヨセフの見た夢は成就し、彼等兄弟達は彼に穀物を買いに来ました。
同じくその日、すなわち、アジアに散らばる、かつてのイスラエルの同族がこの兄弟、すなわち、
イエスキリストから穀物すなわち、命のパンを願い求める日は近付いています。否、その日は
到来しつつあります。

”11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」
12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」
13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」
14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。
15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。
16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」”

穀物を願った兄弟達は、ヨセフに荒々しく返事をされ、また間者であると決めつけられました。
これは、理不尽な様にも思えます。
しかし、彼等兄弟はかつて、その兄弟にさらに理不尽なことを行ったことを知るべきです。
同じく、アジアそして、日本が何故、今だに、キリストの福音にあずかれないのか、また、
その穀物にあずかれないのか、それにも理由があります。キリストはこの国に対して理不尽に接しているのではなく、
受けるべき当然の酬いをもって報いていることを知るべきです。

17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。”

さて、この様にして荒々しくヨセフに対応されてしまった兄弟達は、3日の間監禁所に閉じ込められてしまいました。すなわち、期待していた穀物も受けることがなく、3日の間、不自由な身となってしまったのです。この三日間ということばには、よく考えるなら、語りかけがあるように感じられます。
このことの意味あいは何でしょう?

1000年を一日という聖書の考え方に照らすなら、この3日間は、3つのミレニアムということも
できるでしょう。すなわち、3つのミレニアムにまたがる期間の間、彼等兄弟達は、穀物から遠ざけられ、
そして、監禁されているということなのでしょうか。

そして、その様に考える時、このことは、不思議にも現在の実情、アジアの実情とも
合っているように思えます。
すなわち、このアジア、イスラエルの子孫が住むと思われる地域においては、三日間、すなわち、
3つのミレニアムにまたがる期間の間、ほとんどまともにキリストの福音、すなわち、この穀物は伝わりませんでした。
逆にこの地域は、あたかも監禁されたかの様に、仏教や儒教、ヒンズー教の様に空しい教え、むなしい道徳の中で過ごしていたのです。
何故こうなっていたのか?それは、唯一、穀物を売る権利を持つ人物ヨセフすなわち、キリストの
許しがなかったからなのです。

”18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。
19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。

さて、彼等の監禁はしかし、3日間で解けました。そして、彼等は解放され、家族に穀物を持って帰ることができました。そう、それは3日目に起きたことです。
このことの例えの意味あいは?
もちろん、アジアにいるイスラエルの子孫が3日目すなわち、3つめのミレニアムの時に、それまでの監禁、束縛、呪いから解放され、穀物を受ける、そのことをさしていると思えます。

このことが正しいのなら、今、3つ目のミレニアムの時に生きる私達、しかもアジアに住む私達が、
知らなければならないことがあります。
それは、もうここで預言されているその時代に我々は生きているということです。

このことが正しく、聖書がまさにそう語っているのなら、これから、アジアは全然別の時代を迎えるはずなのです。もちろん、キリスト教会について私は語っています。
かつての日、3日の監禁の後、兄弟達がヨセフから穀物を受けた様に、これから、アジアで神の穀物すなわち、みことばが溢れてくるはずなのです。
そして、かつての日、兄弟達は、ヨセフの兄弟であるというその理由で、ききんにあえぐエジプトにおいて特別な位置を占めた様に、同じくキリストの兄弟である、アジアの人々は、このみことばのききんの時代にあってもキリストの前に特別な地位を占めるはずなのです。

このこと、この日をさしてかつてパウロは以下の様にいいました。

”ロマ11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。”

そうです、その日は世界のキリスト教会においてもすばらしい祝福の日となるはずなのです。

”20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。”

ここでヨセフは「弟」について語っています。何故、突然弟について彼は語りだしたのか?
そのことには意味があります。彼等、ヨセフを捕らえ、殺そうとし、穴に投げ込み、売ってしまった兄弟に何かを思い出させようとしているのです。
新改訳では、「末の弟」と訳されていますが、原語を見るとこのところで使われていることばは、
必ずしも「末」というわけではなく、単なる「若い兄弟、年少の兄弟」をもさす様です。
すなわち、ヨセフは「末の弟」というより、単に「弟」について語ったとも訳せます。
何をいっているのかというと、ヨセフはすなわち、「弟」ということにより、これらの10人の兄弟がかつて犯した罪、「弟=ヨセフ」に関する罪を思い出させているのです。

”21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」”

そしてこのヨセフの「弟を連れてこい」とのことばは、確かに兄弟達にその様な反応をもたらしました。彼等はかつての「弟」に関する罪を思い出したのです。
彼等が互いにいった、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。」とのことばは、
まさに正しく、彼等はかつて弟に対して行ったその罪のゆえに今、困難、苦しみの中にいるのです。
そして、これは、未来に関する預言であり、イスラエルの部族、アジアに散らばった、彼等が、
かつて殺した弟、イエスキリストの血のゆえに受ける困難の日をも預言するものです。
アジアの苦難、またこの地が長い間、福音から、遠ざけられてきたその理由はまさに、
この弟殺しのゆえであることを語っているのです。

”23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。”

しかし、彼等、兄弟は、そばにいるヨセフがその当の弟であることには気付きませんでした。
彼等はそうとは思わなかったのです。そして、
その理由を、聖書は「彼と彼らの間には通訳者がいたからである。」と書いています。

このこと、間にいる通訳者について考えてみましょう。
英語で通訳者をinterpreterといいます。そして興味深いことには、この同じことばは、
また聖書解釈についても使われます。何をいっているのかというと、通訳者は、(聖書)解釈者に通じるということを語っているのです。
この場所では、通訳者の存在が兄弟がヨセフを正しく理解することを妨げています。
そして、このことは、皮肉にも現在のキリスト教会の現状にも通じるかもしれません。
特に日本の聖書解釈者についていえる様に思えます。

失礼ながら、しかし、はっきりいわせてもらうなら、彼等はこのヨセフ、すなわち、キリストがこれらの
イスラエルの兄弟達、すなわちアジアの同族と同じ人種、同じ血をわけた存在であることを正しく述べていません。通訳ということばを使うなら、事実と異なった通訳をしており、また聖書解釈というなら、
聖書を正しく解釈せず、誤った理解、誤ったガセネタを人々に伝えています。

いわく、聖書のいうセム族、すなわち、黄色人種とは何の関係もない、白色人種の
中東略奪民族を「イスラエルの真の子孫」であると間違った通訳、誤った聖書解釈をしているのです。そうです、
彼等は「黄色と白」の区分もできない色盲であり、聖書を読めない盲人、役立たずの通訳です。

”24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。”

その日、兄弟達の悔恨のことばを聞いた時、ヨセフはどうしたでしょうか?
彼は泣いたことを聖書は述べます。
そんなわけで、誰であっても盲人通訳者、色盲通訳者の道を選ばず、この時代に正しい神のことばを
述べようと志す人々は知るべきです。
彼等は、正しくキリストの思い、このアジアの民に対するキリストの思いを伝えるべきです。
何を伝えるべきか?それは、彼、キリストは、このアジアの兄弟達が自分の罪を知り、悔い改める日を待ち望んでおり、その日が来たなら、それを涙をもって、
喜こばれる、そのことです。

このことを伝えず、逆に獣の国アメリカゆかりの悪霊リバイバルや、偽りエキュメニカル運動、また
悪霊の第3の波系のパラダイムシフト、トランスフオーメーションなどを伝える愚か者は、このヨセフ、キリストの涙を理解しない、
百害あって一利なしのこの時代における役立たず教師、牧師であることを知るべきです。
 

”25 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。”

さて、この様に兄弟に対して荒々しい態度であったヨセフですが、しかし、結局は兄弟の求めに応じて、
穀物を袋に満たし、また銀を与えたのです。
すなわち、その日、キリストはアジアにいる自らの血族のため、穀物、すなわち命のパンを与え、また銀、これはあがない金をさすのでしょうか、を与えます。
ですから、アジアの人々がキリストに求めるその日、主は答えてくださることを見るのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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