NO. 416 ヨセフについて(2)

”テキスト:創世記37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。
19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。
20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。
23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、
24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。
25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。
26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。
29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、
30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。
33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」
34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。
36 あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。”

本日は「ヨセフについて」(2)として、更にこの件を見ていきたいと思います。

順に見ます。

”18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。”

父の命を受け、またその使いを果たすべくやってきたヨセフを迎えたのは、兄達の
悪意、殺意です。
主も同じく自分の同胞、兄弟である民族から、憎まれ殺されました。
そして、同じく終末の日、ヨセフの使命を帯びて教会に来る人々も悪意の中で、自分の兄弟、姉妹の
間で殺されるようになるでしょう。

”19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。
20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」”

彼等、兄弟は、使わされた者、ヨセフを殺し、そして、その罪を「獣」のせいにしようと企んだわけです。
主イエスの時もそうであり、彼等、ユダヤの大祭司や、パリサイ人達は、自分達がイエスを殺そうと意図したのですが、彼を殺すという行為はローマのピラトに押し付けています。
ローマも獣の国の一つですから、自分達ではない、「獣が殺した」といえばいえるわけです。
しかし、これは詭弁に過ぎず、彼等の罪が消えるわけではありません。
事実、ピラトは、己の手を水で洗い、自分はこの死には関係がないことを宣言しています。

ですから、使徒信条とかいう、聖書にはない、しかし何故だか一部の教会が礼拝で朗読する文章の中で、「(主は)ポンテオピラトのもとで苦しみを受け」なんて毎回繰り返して朗読するのも考えれば、おかしな、そして怪しい所行です。

さて、このことも終末において、再現するかもしれません。
終末の日におけるヨセフの働きをなす人々も自分の兄弟のために苦しみを受け、そして
その苦しみには、獣すなわち、アメリカ主導のもとで行われるかもしれません。

しかし、そうであっても、彼等主につく人々を裏切り、告発する惑わされたクリスチャンの
罪が消えるわけではありません。

”21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。
23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、
24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。”

ヨセフは穴に投げ込まれました。同じく主もその同胞、兄弟により殺され、
そして、十字架で殺され、遺体は穴に投げ込まれたのです。

”24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。
25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。”

「乳香と没薬」とあります。
乳香は、祈りのたとえ、没薬は死者に用いるものなので殉教のたとえと考えられます。
主イエスも祈りの人であり、また殉教の死を成し遂げられた方です。
同じく終末のヨセフの働きをになう人々も祈りの人であり、また殉教の死の覚悟がいるでしょう。
彼等はヨセフの様に父なる神の命を受け、語るべきことをその兄弟に語るのですが、その報いは、
殉教の死です。この死を通して、黙示録に書かれた裁きは、惑わされ、迫害するクリスチャンの上に
確定し、下る様になるでしょう。
もう既に私達はこの時代に半分足をつっこんでいます。
これを見る目は幸いです。

”26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。”

ヨセフは銀貨20枚でその兄弟により売られました。これは、まさしくその兄弟、友により売られた主イエスの型です。そして、何と彼を売ったのは、兄弟12人のうち、他でもないユダが言い出し、売っているのです。12弟子の中で、イエスを売ったユダとまさしく符合しています。
それで、このことは偶然でなく、終末の日にも明らかにユダが兄弟を売ることが再現することを
予測できます。
終末の日においてユダが兄弟を売ることとは?考えてみましょう。
旧約の時代、神の民の国は、2つに分れていました。すなわち、北のイスラエルと南の
ユダです。イスラエルは不信の道を歩んでおり、ユダにみこころがありました。
同じく新約の神の民も2つにわかれています。カソリックとプロテスタントです。
カソリックは、背信、不信の道を歩み、偶像マリヤ崇拝を始めとするあらゆる
偽りに手を染めています。それに反対して立ち上がったルターを始祖とするプロテスタントに
みこころがあります。

しかし、悲しいかな新約のユダはいずれ、みことばなる方を裏切る様になる、このことを
聖書は予表している様に思えます。
他のいくつもの聖書の箇所はこのことを支持している様に思えます。
テサロニケ書に書かれた「背教」とは、まさしく、このプロテスタントの裏切りを語っていると
思えます。

”29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、
30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。
33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」”

兄弟達は、服に血をつけ、ヨセフが殺されたかの様に粧いました。
主イエスは実際に血を流して死なれました。終末のヨセフ、黙示録の男の子として
預言されている人々にも殉教が予想されます。

”33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」
34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。”
 

父はその子が死んだことを知り、嘆きました。
彼は慰められることを拒んだのです。このことは一人子を失った父なる神の嘆きを
示している様に思えます。

私達はあがない、一人子が十字架にかかって亡くなったことを語りますが、
しかし、このことには悲しみ、そして、犠牲、痛み、嘆きがあることを覚えましょう。
子もそして、父も痛みを受けているのです。
深い感情とどうこくがあるのです。

子供を失った父に「たいしたことではありませんよ」などというなら、逆にうらみを買ってしまうのではないでしょうか。まして、自分のたった一人の子が命がけで、救った人が、
息子の行為をけなしたり、悪口をいっていたのなら....。父はどう思うでしょうか?この人は、父の怒りをひき起こさないでしょうか?

「まして神の子を踏み付け...どんなに重い処罰に値するか」ヘブル10:29と書かれているではないでしょうか。このことばは、
この父の悲しみを知るとき理解できます。私達人間にも自然の感情、人としての思いがありますが、
神はそれ以上に深い痛みを持たれることを知りましょう。

黙示録や終末のことがらは難しく難解な様ですが、「一人子の命、その死の犠牲をないがしろにする
人々」への父の怒りと理解するなら、難しいことではありません。大筋は理解できるものです。

まとめますが、旧約の多くのことがらは、新約のイエスの時代に成就、再現しており、
そしてそれはまた終末において再度繰り返えされます。
聖書の焦点は明らかに終末にあり、このヨセフで予表されていることがらも終末に再現されるのです。
このことは、黙示録の中で、それとわかる様に記されており、12の星、太陽、月ととおに
登場する男の子こそ、それと思われるのです。
この男の子に関しては次回学びましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
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