NO. 415 ヨセフについて 

”テキスト:創世記37:1 ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。
2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。
4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。
5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。
7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」
8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。
9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。
10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」
11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。
12 その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。
13 それで、イスラエルはヨセフに言った。「お前の兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」すると答えた。「はい。まいります。」
14 また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。
15 彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜しているのですか。」
16 ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。」
17 するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。」そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。
 
 

本日は「ヨセフについて」という題でメッセージします。

旧約の時代、自分の兄弟から売られたヨセフは明らかに新約の日に、
銀貨30枚で売られたイエスの型です。そして、このヨセフで代表される
人々がまた、終末の日に現れることをも聖書は預言しているように思えます。
何故そういうかというと、ヨセフの見た太陽と月と星の幻はまた黙示録にも現れてくるからです。
ですから、ヨセフの生涯は、主イエスの生涯に関する預言であり、なおかっ、終末の日に現れてくる
ヨセフの働きをになう人々の型なのです。

このヨセフの生涯を通して学んでいきたいと思います。

順に見ます。

”1 ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。
2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。”

ビルハ、ジルバは奴隷の女のことです。ですから、ここに書かれている、子供は、
奴隷の息子のことであり、これは、霊的には、「罪の奴隷」をあらわすものです。
ヨセフは彼等のわるいうわさについて父に告げました。
同じく、我々ももし、罪の奴隷となるなら、このことは、「伝えられる」ことを知りましょう。
聖書は、「奴隷は家にいつまでもいない、家を相続しない」ことを語ります。
我々が罪の奴隷となるなら、「主が備えた天の家」に住む、受け継ぐことはないことを
知りましょう。

”3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。”

誰よりも父に愛されたヨセフは、「これは私の愛する子である」と父なる神にいわれたイエスの型です。
そでつきの長服とは何だかわかりませんが、服が義に関することをよくさしますので、
義をまとうということでしょうか。

”4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。”

兄達はヨセフが父に愛されているのを見て、穏やかに話すことはできませんでした。
穏やかに話せないということは、ケンカごしだったり、憎しみを持って話すということでしょうか。
イエスの時代、兄にあたる律法学者や、パリサイ人もやはり彼に対して穏やかに話すことはできませんででした。逆にイエスのことばじりをつかんでやろうとばかり、けんがごしだったのです。
同じ様なことがらは終末に起きると思われ、終末の日、ヨセフの働きをになう人は
周りの兄、宗教的な人々からの反対を覚悟しなければなりません。

”5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。”

ヨセフの見た夢はまさに正夢であり、その後で実現しました。
他の兄弟の穂が彼の穂を拝むということは実現したのです。
後の日、エジプトの宰相となったヨセフに対して、兄弟達また父も頭を下げて食料を
もらう様になりました。正しくこの夢は実現しました。
しかし、兄達はこの夢を憎みまさにこの夢のために、ヨセフは憎しみを買ってしまったのです。
このことは、イエスの時に再現しており、イエスのことを誇大妄想狂と思い込んだ律法学者、
パリサイ人は、彼を告訴し、死に至らせました。以下の箇所は、彼らがイエスを夢見る者、
妄想を抱く冒涜者であると理解していたことを語ります。

”マタイ26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。”

さて、世の終わりにもヨセフの使命を帯びた人たちが現れ、それは黙示録12章で「男の子」と
書かれた人々なのですが、しかし、彼らも夢見る者達として、回りのクリスチャンから、
反感を買うであろうことが予想されます。
しかし、彼らはヨセフの様に正しく未来を見通し、神からの幻、夢を語るでしょう。

”6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。
7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」
8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。”

ヨセフの見た夢は麦の束に関する話です。麦はパンと関係があり、パンはみことばと関係があります。
ですから、ここで言われていることは、ヨセフの麦は全ての兄弟の麦に勝るということです。
この夢は正夢になり、父も兄も麦のききんで苦しんでいた時、ヨセフは大豊作で倉を建てたエジプト
の宰相となっており、麦がなくて困っている人に麦を売ったのです。そして、
彼ら兄弟は彼にひれ伏して麦を売ってもらう願いました。

このことは主イエスの時、再現されました。
その日、主イエスの日、パンではなく、みことばのききんに陥っていた、全イスラエルの人々はこぞって
彼の前に行き、彼からの恵みのみことば、命のパンにより養われたのです。

さて、さらにこのことは、終末の日、ヨセフの使命を帯びて現れる男の子において再現されるでしょう。
彼らを通して、人々を養うパンが与えられ、彼らの麦の束は、他の束にまさるでしょう。
しかし、そうであっても兄、すなわち、その時代の教会の権威からは、憎まれる様になるでしょう。
「こうして彼らは(兄達は)、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。」
と書かれている通りです。

”9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。
10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」”

さて、さらにヨセフは夢を見ました。
今度は、星、月、太陽に関する夢です。
この夢の意味あいは何でしょう?

星は、光を与える存在、世を照らす存在としての神の民のたとえでしょう。
暗い夜に光る星が、地上を照らす様に、世や教会は、星であるクリスチャンを通して、
光を与えられるからです。
 

主イエスは「私は世の光です」と言われた様に、光御自身であり、この方を通して、
我々は光を与えられたのです。啓示の光は与えられ、示唆は与えられたのです。

さてこのことは終末において、ヨセフの使命を負う人々により再現されます。
何故なら、以下の様に、黙示録において、ヨセフの夢とそっくりな
幻が再現されているからです。

”黙示録12:1 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3 また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。”

この男の子こそ、ヨセフの使命をになう終末の働き人と理解できるからです。
この男の子を通して、終末の日に啓示の光が現れることが期待できそうです。
そして、その啓示は、太陽や月、すなわち、信仰の先祖からのもの、また12の星、すなわち、
自分の兄弟のものにまさるでしょう。
かつての日、「太陽と月と十一の星が」ヨセフを拝んだ様に、その日、
この終末の男の子の啓示は多くの人がうらやむもの、近寄り、拝する物となるのでしょう。

”11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。”

しかし、この星、太陽、月の幻はヨセフの兄達をねたませ、彼に良い感情をもたらさなかったのです。
同じく、終末のヨセフの働きをになう人々もその「光」のゆえに、教会の権威、指導者から、
ねたまれるものとなるのでしょう。

”12 その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。
13 それで、イスラエルはヨセフに言った。「お前の兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」すると答えた。「はい。まいります。」
14 また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。
15 彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜してい

るのですか。」
16 ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。」
17 するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。」そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。”

ヨセフは父の命を受け、その命令に従い、使いに行ったのです。しかし、その結果は、
兄達の憎しみをかい、ほらあなに投げ込まれ、エジプトへ売られてしまいました。

これは、父なる神の命を受け、この世に下り、父なる神のことばを伝えに来たのに、
その結果は祭司長達のねたみと憎しみを買い、あげくには、殺され、ほらあなに葬られた
主イエスの予表です。

終末の日にも父なる神の命を受け、使いとして来る人々がいるのですが、彼等もろくな目に会わないでしょう。

本日はここまで、後は「ヨセフについて 」(2)に続きます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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NO. 416 ヨセフについて(2)

”テキスト:創世記37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。
19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。
20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。
23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、
24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。
25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。
26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。
29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、
30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。
33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」
34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。
36 あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。”

本日は「ヨセフについて」(2)として、更にこの件を見ていきたいと思います。

順に見ます。

”18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。”

父の命を受け、またその使いを果たすべくやってきたヨセフを迎えたのは、兄達の
悪意、殺意です。
主も同じく自分の同胞、兄弟である民族から、憎まれ殺されました。
そして、同じく終末の日、ヨセフの使命を帯びて教会に来る人々も悪意の中で、自分の兄弟、姉妹の
間で殺されるようになるでしょう。

”19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。
20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」”

彼等、兄弟は、使わされた者、ヨセフを殺し、そして、その罪を「獣」のせいにしようと企んだわけです。
主イエスの時もそうであり、彼等、ユダヤの大祭司や、パリサイ人達は、自分達がイエスを殺そうと意図したのですが、彼を殺すという行為はローマのピラトに押し付けています。
ローマも獣の国の一つですから、自分達ではない、「獣が殺した」といえばいえるわけです。
しかし、これは詭弁に過ぎず、彼等の罪が消えるわけではありません。
事実、ピラトは、己の手を水で洗い、自分はこの死には関係がないことを宣言しています。

ですから、使徒信条とかいう、聖書にはない、しかし何故だか一部の教会が礼拝で朗読する文章の中で、「(主は)ポンテオピラトのもとで苦しみを受け」なんて毎回繰り返して朗読するのも考えれば、おかしな、そして怪しい所行です。

さて、このことも終末において、再現するかもしれません。
終末の日におけるヨセフの働きをなす人々も自分の兄弟のために苦しみを受け、そして
その苦しみには、獣すなわち、アメリカ主導のもとで行われるかもしれません。

しかし、そうであっても、彼等主につく人々を裏切り、告発する惑わされたクリスチャンの
罪が消えるわけではありません。

”21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。
23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、
24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。”

ヨセフは穴に投げ込まれました。同じく主もその同胞、兄弟により殺され、
そして、十字架で殺され、遺体は穴に投げ込まれたのです。

”24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。
25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。”

「乳香と没薬」とあります。
乳香は、祈りのたとえ、没薬は死者に用いるものなので殉教のたとえと考えられます。
主イエスも祈りの人であり、また殉教の死を成し遂げられた方です。
同じく終末のヨセフの働きをになう人々も祈りの人であり、また殉教の死の覚悟がいるでしょう。
彼等はヨセフの様に父なる神の命を受け、語るべきことをその兄弟に語るのですが、その報いは、
殉教の死です。この死を通して、黙示録に書かれた裁きは、惑わされ、迫害するクリスチャンの上に
確定し、下る様になるでしょう。
もう既に私達はこの時代に半分足をつっこんでいます。
これを見る目は幸いです。

”26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。”

ヨセフは銀貨20枚でその兄弟により売られました。これは、まさしくその兄弟、友により売られた主イエスの型です。そして、何と彼を売ったのは、兄弟12人のうち、他でもないユダが言い出し、売っているのです。12弟子の中で、イエスを売ったユダとまさしく符合しています。
それで、このことは偶然でなく、終末の日にも明らかにユダが兄弟を売ることが再現することを
予測できます。
終末の日においてユダが兄弟を売ることとは?考えてみましょう。
旧約の時代、神の民の国は、2つに分れていました。すなわち、北のイスラエルと南の
ユダです。イスラエルは不信の道を歩んでおり、ユダにみこころがありました。
同じく新約の神の民も2つにわかれています。カソリックとプロテスタントです。
カソリックは、背信、不信の道を歩み、偶像マリヤ崇拝を始めとするあらゆる
偽りに手を染めています。それに反対して立ち上がったルターを始祖とするプロテスタントに
みこころがあります。

しかし、悲しいかな新約のユダはいずれ、みことばなる方を裏切る様になる、このことを
聖書は予表している様に思えます。
他のいくつもの聖書の箇所はこのことを支持している様に思えます。
テサロニケ書に書かれた「背教」とは、まさしく、このプロテスタントの裏切りを語っていると
思えます。

”29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、
30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」と言った。
33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」”

兄弟達は、服に血をつけ、ヨセフが殺されたかの様に粧いました。
主イエスは実際に血を流して死なれました。終末のヨセフ、黙示録の男の子として
預言されている人々にも殉教が予想されます。

”33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」
34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。”
 

父はその子が死んだことを知り、嘆きました。
彼は慰められることを拒んだのです。このことは一人子を失った父なる神の嘆きを
示している様に思えます。

私達はあがない、一人子が十字架にかかって亡くなったことを語りますが、
しかし、このことには悲しみ、そして、犠牲、痛み、嘆きがあることを覚えましょう。
子もそして、父も痛みを受けているのです。
深い感情とどうこくがあるのです。

子供を失った父に「たいしたことではありませんよ」などというなら、逆にうらみを買ってしまうのではないでしょうか。まして、自分のたった一人の子が命がけで、救った人が、
息子の行為をけなしたり、悪口をいっていたのなら....。父はどう思うでしょうか?この人は、父の怒りをひき起こさないでしょうか?

「まして神の子を踏み付け...どんなに重い処罰に値するか」ヘブル10:29と書かれているではないでしょうか。このことばは、
この父の悲しみを知るとき理解できます。私達人間にも自然の感情、人としての思いがありますが、
神はそれ以上に深い痛みを持たれることを知りましょう。

黙示録や終末のことがらは難しく難解な様ですが、「一人子の命、その死の犠牲をないがしろにする
人々」への父の怒りと理解するなら、難しいことではありません。大筋は理解できるものです。

まとめますが、旧約の多くのことがらは、新約のイエスの時代に成就、再現しており、
そしてそれはまた終末において再度繰り返えされます。
聖書の焦点は明らかに終末にあり、このヨセフで予表されていることがらも終末に再現されるのです。
このことは、黙示録の中で、それとわかる様に記されており、12の星、太陽、月ととおに
登場する男の子こそ、それと思われるのです。
この男の子に関しては次回学びましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
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NO.417 終末の男の子

”テキスト:黙示録12:1 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3 また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
18 そして、彼は海ベの砂の上に立った。”

本日は「終末の男の子」という題でメッセージしたいと思います。

テキストから順に見ます。

”1 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。”

ここで、一人の女が出てきます。
そして、それとともに太陽、月、12の星に関して記されています。
これは、創世記のヨセフの見た夢とそっくりです。
ですから、明らかにこの箇所はヨセフの箇所と関連があることを知りましょう。
黙示録は決して親切な書、説明過剰な書、誰にでもわかりやすい書ではありません。逆に、
たとえと謎に満ちているのですが、しかし、だからといって何も解釈の方法がないかというと
そんなことはありません。

たとえば、この箇所がヨセフの箇所と似ている記述であるという様に、そこかしこにヒント
はあります。しかし、そうであっても御霊の知恵を求めない人は間違えてしまいます。

さてこの女は何ものかということを見ていかなければなりません。
この女は、「太陽を着て」、かつ「月を足の下に踏み」かつ「頭には十二の星の冠をかぶっていた」のです。すなわち、かつてヨセフの夢で見た、太陽、月、星の全ての要素をその身に持っているわけです。
かつての日、ヨセフの夢においては、11の星は自分の兄弟をさすことが明らかになっています。
11は12人の兄弟の数から、ヨセフを除いた数であり、この解釈には間違えようがないと思われます。

するとこの女の12の星の意味あいもわかってきます。この12の星は、旧約においてはイスラエル12
部族をさし、また新約においては、イエスの12弟子の(信仰の)子孫をさすと思われます。
太陽、月に関してはヨセフの箇所で、父であるヤコブが父母をさす旨語っています。
その伝でいえば、新約の教会における信仰の先祖達、信仰の父母をさすとでもいえるでしょうか。
この女は終末の時代をあらわす黙示録に登場するのですから、基本的には、教会をさす、すなわち、
12弟子から始まり、かつその伝統の中に太陽や月の様な光を放つ信仰の先祖をも含む、教会をさすとでも考えた方が妥当でしょう。
教会は色々なたとえをもって語られています。
いわく羊であるクリスチャンを飼う場所としての牧場、また魚としてのクリスチャンが集まる場所としての海等です。それぞれのたとえはそれぞれの意味あいがありますが、この箇所では、
女としての教会の意味あいについて語っています。エペソ書で男女の結婚に関して、「この奥義は偉大であり、これはキリストと教会をさす」といわれている様に明らかに教会に関して聖書は女としての
面を語っています。

”2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。”

さて、教会を女として聖書が書く時、その語ろうとしている一つの意味あいは、「子を生む存在」としての教会の一面を語ろうとしている様に思えます。

女が子を生むという時、思い出されるのは最初の女、エバが子を生んだ事柄です。
かつて蛇に惑わされ一敗地にまみれた彼女に関して、後の日のリベンジ、蛇への勝利のことばがかつて与えられました。
「お前の子孫(蛇の子孫)と女の子孫との間にうらみを置く。お前は(蛇の子孫)は彼のかかとを砕き、彼はお前の頭を砕く」との預言です。

そんなわけで、女の望み、蛇への勝利の望みは彼女が生む男の子にかかっていました。
この男の子は、かつてエッサイの根から生まれ、ダビデの子イエスキリストは当時のタルムード崇拝の蛇学者どもに
勝利を得たのでした。彼等蛇学者の頭は砕かれ、イエスの教えは圧倒的な勝利を得ました。
しかし、また「かかとを砕く」とのことばも成就し、彼、主イエスは十字架で肉体の命を失いました。

さて、このことは終末の日、この巨大な女、新約の教会においても成就し、
さんざん教会を荒し回る蛇学者、蛇神学者、及びそのシンパどもにより、振り回され、害された
女が逆転に転じ、リベンジを試み、そして勝利を得る日がきます。それを預言しているのがこの箇所です。
その日、この教会、女は男の子を生みます。これは、かつての主イエスの誕生で予表されています。また後の日においては、イエスが生まれた日に匹敵する女の勝利の日です。
 

「産みの苦しみと痛みのために」

この女は産みの苦しみをしていたのですが、このことにも隠れた意味あいがあります。
それは以下のことばと関係があると思われるからです。
 

”マルコ13:8民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。”

ここでいう「産みの苦しみ」とは、終末の苦しみ、また艱難時代の苦しみをさします。
それで黙示録の巨大な女、教会の産みの苦しみとは、すなわち
艱難時代の苦難と関係がある様に思えます。

”3 また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。”

竜とは何かというと、以下のとおり、悪魔、サタンのことです。

”黙示録20:2彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って”

さて、この悪魔、サタンは、「七つの頭と十本の角」を持っていることが書かれています。
この「七つの頭と十本の角」とは黙示録13章では、獣の国、終末に起きる特別な
国の特徴と一致します。するとこの箇所は何をいわんとしているのか?
これはこういうことでしょう。すなわち、終末の聖徒の苦難、悪魔からの苦難は、
獣の国、具体的にはアメリカ主導でくるということを語っていると思えます。

ですから、くり返し、くり返しいいますが、終末の日の主につくクリスチャン迫害の
動きはこの国、アメリカ主導で来ることを忘れてはいけません。

世の中の人だって、今世界でもっとも狡猾、残忍、破壊を好み、他国を不幸に陥れることに
熱心な国がアメリカであることに気付きつつあります。そうであるのに、
真理を知っていることになっているクリスチャンと名がつく人々がいつまでも
騙されたままでいいはずがないでしょう。

さて、この竜とは後の節を見るとこれはまた蛇であることが書かれています。
それで、この箇所にはかつての日、エデンの園の登場人物である、女と蛇が再度、登場していることがわかります。そして、その女が男の子を産むというのです。
この男の子ここそ、「蛇の頭を砕く」女のすえです。ですから、くり返します。この箇所の下地、ベースには、明らかに創世記の女と蛇とのうらみ、リベンジ合戦の物語りがあります。
逆にこのことを念頭に置くなら、この箇所の理解はスムーズです。この箇所の記述の中心は
世の終わりになって、創世記の記述が成就し、女のリベンジが成功し、女のすえ、すなわち、教会が最後に生み出す信仰者により、蛇の頭が砕かれる、そのことを語っているのです。
 
 
 
 
 

”4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。”

さて、竜もまた、何が楽しいのかその悪魔の手先になっている蛇民族、いずれ悪魔と共に永遠の裁きを受けることになっている、世界一愚かな某民族も、おめおめと追い出されるかということで、抵抗をします。
そして彼等の教会かく乱は成功し、その1/3は地に落ちます。すなわち、そもそもクリスチャンは、天にあり、世のものではないのですが、情けなくも再度この世に戻り、この世とかわらないものとなる人々が1/3は、あらわれるのです。
 

”また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。”

竜は男の子の誕生を監視し、生まれ次第殺すべく用意します。全てのメール、fax,電話通信をキャッチするアメリカそして、それを牛耳るユダヤ民族を持ち出すまでもなく、現在のあらゆる個人の動向、特にクリスチャンの動向は監視されています。

ユダヤゆかりのキリスト教掲示板なんかへ寄ればパソコンのあらゆる個人情報は抜き去られる恐れがあります。日本を含めあらゆる国のキリスト教団体には、ユダヤのスパイ網がしかけられていることを知らなければなりません。

そして、あらゆる情報に通じる彼等、竜の心を行う彼等は、男の子がうまれる、すなわち、自分達の存在を脅かす人々のことを聞き付け、「竜は子を産もうとしている女の前に立っていた」のです。
 

その理由は、「彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。」すなわち、
自分達の潜在的な敵になりそうな人々、団体をキャッチし、彼等がそれと気付かないうちに
色々とうわさを流したり、悪評を流し、倒してしまおうとするわけです。

どんな方法で?
彼等が牛耳っているキリスト教メデイアが効果を発します。何故だか、クリスチャンは、カルトという呼称に弱いらしいので、倒したい相手を「カルト」呼ばわりなんかも有効かもしれません。
 

日本は知らずしかし、アメリカにおいては、不思議な「カルトハンター」が活躍しており、それは民間による自発的な組織ということになっているが、しかし、その実、意図的な動きをしています。
彼等は1500以上ものアメリカの教派、教会をカルト認定しましたが、その中には、
実は非常に福音的、主に熱心な教会も多いのです。
彼等が掲げる「カルト度チェックリスト」なんてのもありますが、これには何らの聖書的関連はなく、ただただ、この世的な人間の標準です。
「指導者の権威が強い」等、どこの教会でもありそうなことをいかにもわざとらしくリストに掲げ、
どこでも自分の気に入らない教会にカルトのレッテルを貼っているユダヤ臭の強い人々です。
願わくば、こんな腹に一物ある人々が日本の教会で活躍することのないよう、こんな働きにすぐ乗せられる愚か者のキリスト教新聞、雑誌、教会のなからんことを祈ります。
 
 
 
 
 

”5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。”

女は男の子を産みます。そして、その子は「御座に引き上げられ」ます。
このことばの裏には殉教がそしてもしかすると復活が予想されます。
何故なら、かつての日、2000年前、ナザレに生まれた男の子も殉教、復活そして、
最後に「御座に引き上げられた」すなわち、昇天をしたからです。
この男の子も同じ経験をすることが予想されます。

以下の2人の預言者は、実はこの男の子を別の表現で記したことがらかもしれません。

”黙示録11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

この2人の預言者も殉教、復活、そして昇天を行っています。
すなわち、「御座に引き上げられ」ているのです。ですから、これらの2者が同じである可能性が大いにあります。

尚、以下の記述も終末の男の子の一面を示すたとえと思われます。

”マタイ2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」”

かつての日、神の民の国の長であったヘロデは自分を脅かす存在である、キリストを殺すべく、
2才以下の「男の子」を皆殺しにしました。
これは、終末の日、蛇、竜を脅かす存在となる予定の男の子をみな殺しにすべく企む人々の
予表と思われます。その日、全世界の教会の長は、カルト撲滅の命を発するでしょう。そして、
この日、用意周到なデマが流され、「恐るべきカルト」と名指された人々が死に渡されるでしょう。
彼等は人の前、また堕落した教会にあっては異端との汚名の下で死ぬかもしれません。しかし、彼等の本当の名前はこの黙示録に記された「男の子」です。
 

”6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。”
 
 
 
 
 

男の子は明らかに殉教しますが、しかし、それを産んだ女、教会は荒野に逃げました。「そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」のです。
荒野の意味あいは何でしょう?私が思うに、荒野の反対のことばは、都と思われます。
都は中央の教会、伝統的な教会組織でしょうか。私達の主が「都の外」で苦しみに会った様に、
終末の日は、都、伝統的な教会がおかしくなってしまう日であり、その都の外、
荒野にみこころがあります。いわゆる地下教会の様なことでしょうか。

1260日は、まぎれもなく、終末の大艱難の期間、3年半のことであり、
要するにその日、地下へ潜る教会のための備えがあると語っているのです。
ですから、終末の日について知らなければならないののは、その日、主につく人々には、
2種類の道があるということです。
ある人々は、男の子の様に殉教するでしょうし、ある人々は女の様に、生きてその期間の迫害を耐えることになります。
神は逃れの場所を用意され、それをさして、「そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」と書かれているのです。

”7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。”

ここに書かれている天における戦いとは、スターウオーズや宇宙戦争やら、妖怪戦争が起きるということではありません。
この箇所で記されている、ミカエルと彼の使いたち、竜などの戦いのもっとも理解しやすい例は、
かつての日、エルサレムで行われた主イエスとその弟子達と対する当時の宗教界の権威、
祭司長、律法学者達との論争、戦いです。

かつての日も「ミカエルと彼の使いたち」すなわち、主イエスとその弟子達による、「竜とその使いたち」すなわち、祭司長、律法学者達との戦いがありました。
彼等、祭司長、律法学者達は、神のことを行っているつもりが、実は人々を救いから遠ざけ、
実態は、「竜とその使いたち」になってしまっていたのです。

同じことが終末において再現されるでしょう。終末における、主の弟子達は、その時代における、
「竜とその使いたち」と戦うことになるでしょう。そして、その時代における、「竜とその使いたち」とは、宗教界の代表的な人々と思われます。

「勝つことができず」

この日、みこころの教会において、主につく人々の圧倒的な勝利が表されるでしょう。
この日こそかねてから、聖書に預言されている、教会の回復の日です。

ところで、勝つとか、負けるとかは、戦いのことばであり、相手のあることを意味しています。
このことを通して知らなければならないことがあります。
それは、今の教会の堕落、変質には何も原因、裏の意図がないわけではない、逆に、裏で画策している人がいるということです。すなわち、敵がおり、画策している人々がいるのです。
そして、その日、勝利者は「彼等に」対して勝利を得るのです。今の教会の問題、敗退の原因は、何でしょう?
それは、彼等が厳正な事実、すなわち、「敵」が存在し、しかもその敵がぼかすか攻撃しているのに、
それをいつまでたっても理解しようとしないことです。
「敵」が存在していることを理解しない、知ろうとしない以上、戦うすべはなく、
まして勝利はほど遠いのです。
それで教会は敗退に敗退、後退に後退を重ね、もう自ら神のことばを否定する様なことさえ、
語る様になっています。いわくキリストの復活は神話だ等の情けない不信仰なことばが横行しているのです。

しかし、この様な明き盲ばかりがいつまでの大手を振って歩く時代も変わり、その日、
目の開かれた人々はこの戦いに入っていきます。そう世界のど田舎、キリスト教の僻地、
ノー天気な夢を見ている島国のクリスチャンの間にも真実を理解する人々が現われてくるのです。

「天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」

その結果、蛇の民族、あの偽り民族主導の偽りは天、すなわち、みこころの教会において、
受け入れられなくなります。今、インターネットの中で暗躍したり、教会に潜り込んで、
何やら、吹き込んで、悪いことを企んでいる、しかし、それにしてはやってることが、何もかも
ばればれの偽りの人々の企みもその日、大いに暴露され、明確にされてしまいます。
しかし、これはあくまで、天における、主につく教会におけることがらであり、
地、すなわち、この世につく教会においては、偽りが幅をきかし、いえ、さらに
悪い偽りがまん延するでしょう。

”9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

悪魔、サタンが
世界を惑わすのは今、始まったことではありませんが、しかし、ここで、
古い蛇ということばに語りかけがあります。
それは、悪魔、サタンの心を行う、蛇民族のことです。
蛇民族、すなわち、悪魔崇拝民族のことです。そんな風に書くと、民族差別だ、なんて聞いた風なことをいう人が多いことは承知です。
しかし、愚かで、偽善的な人が知らなければならないこと、それは、他でもない、
聖書が自ら、「ユダヤ人だと嘘をつく悪魔礼拝者」について語っていることです。

そんなわけで、私達はノー天気で聖書もろくに読んだこともなさそうな人々のことは、気にせずに書いています。

蛇が全世界を惑わす、すなわち、蛇民族が全世界を惑わすという時、やはり2種類の意味あいがあると
思われます。

1. 第一に彼等蛇民族は、全世界を惑わし、嘘の世界に引きづり込み、偽りを世界に蔓延させているということです。ジョンコールマン、「300人委員会」によれば、世界の歴史、真実が彼等により、改ざんされることがよくわかります。現在でも「テロリストの脅威」などという、自作自演のシナリオのもと、
あらゆる偽りを世界に吹き込んでいます。
しかし、この架空のテロの脅威も、あの最初の事件、2001年9
月11日、世界貿易センタービルが2機の飛行機により、破壊された日、すたこら逃げた4000人の
ユダヤ人からも理解できる様に、全ては自作自演、嘘つき民族の悪らつな嘘に過ぎません。

2. もう一つの意味あい、蛇民族の偽り、嘘はキリスト教会において顕著であることを知るべきです。
どういうわけだか、蛇民族にすっかり気にいられ、あらゆる蛇の偽りの毒が蔓延しているのは、
仏教会でも、イスラム教会でもなく、ここキリスト教世界であることを知るべきです。
多くの忍び込んだ偽りものが長いキリスト教会の歴史の中で蔓延しており、
キリスト教会で名高い多くの人がその手の人です。

「彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」

蛇だけでなく、蛇の使いどももともに、地に投げおとされたことがここに書かれています。
蛇と蛇の使いは違います。蛇は、悪魔、サタンですが、しかし、
ものごと、蛇、悪魔だけで進むわけではないことをこの記述は示していると思えます。
かつての日、主イエスの時代にも蛇の思い、願いを体現した人々がいます。
それは、律法学者、パリサイ人達のことであり、彼等は「神の民を惑わしたい」との、
蛇、悪魔の願いを実行していました。

同じく終末の日にも「蛇の使い」がいます。
彼等は、世界のクリスチャンを惑わし、蛇の願っている、教理、信仰を彼等が持つよう、キリスト教会に画策し、成功します。
しかし、その日、彼等は天、みこころの教会から追い出され、地に落とされるのです。

”10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。”

さて、この日、蛇とその使いが天から落とされたその日に、「神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた」ことが書かれています。
ということは、逆にそれまでは、「神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威」は、天、すなわち、みこころの教会においても現われていないことが想像されます。
これは本当でしょうか?
私は本当だと思います。「神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威」はどの教会においても、とどめられています。

しかし、その日、これらは回復します。
神の救いは今、多くの教会において制限されています。
神は罪、また、多くの悪い霊、過った考えから救うことに「なっています」しかし、
これは多くの教会において、絵に描いた餅みたいなものになっています。
しかし、その日、神の救いを明確に見るようになるでしょう。

同じく神が「力ある」かたであることも今、多くの教会においては絵空事になっています。
誰もそういうだけで信じていないかもしれません。
しかし、その日、正しく信仰に立つ人々を通して、この神にこそ、「力」があることを
知るようになるでしょう。

また、神の「国」も表されます。神の国、王国とは、すなわち、神が王であり、神の
意志が行われるところです。
主の祈りに「天においてあなたのみこころが行われているように」とある
様に天はみこころが行われている教会です。
そして、地とは、「地においてもあなたのみこころがおこなわれますように」と書かれている様に、
まだみこころが行われていない教会です。

多くの教会では、今、必ずしも神の意志が行われているとは、限らない、
逆に人の意志、考えが行われているかもしれませんが、しかし、その日、
天、すなわちみこころの教会においては、教会は神の国となり、神の意志が行われるようになります。
 

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。”」

蛇、悪魔、サタンは我らを告発、訴える者です。
もちろん、このことはそうなのですが、しかしこの箇所にはもう一つの意味あいがあると
思われます。
すなわち、悪魔、サタンの意志をくんで、その代理、使いのようになって、
クリスチャンを神の前で訴える人々がいるということをいっているのです。
こういう人々はもう現われています。

たとえば、インターネットにおいては、クリスチャンが1/10献金をしているから、
また日曜日に安息日を守っているからという理由で非難している人々がいます。
これは驚くべきことです。さらに驚くべきことには、そんな非聖書的な主張をすっかり
受け入れて非難に同調する愚かなクリスチャン迄多いことです。

しかし、これらを含めいずれ、蛇とその使いの働きは天、すなわち、みこころの教会から
追い出されます。

”11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。”

その日、しかし、兄弟達の上に勝利がもたらされます。
このことは、大きなことです。
何故か?それは、連戦連敗だった教会が勝利を得たからです。
以前ハルウララという競馬の馬が有名になったことがあります。
何故有名になったかというと、この馬は100連敗だか200連敗だか、何しろ
全く勝てない馬だったからです。こんな馬が勝ったら、「ニュース」だとばかり、
大いに回りが盛り上がったものです。

さて、大変失礼ながら、教会も同じ様なもの、ハルウララみたいに連戦連敗、さらに
敗色が濃い状態であることを知ってください。
しかも自分達が負けている、騙されている、偽られている、そのことさえ気がつかない、ひどいまけっぷりなのです。
しかし、その日勝利が得られます。
これは、画期的なこと、それを知ってください。

彼等の勝利の原因は「小羊の血とことば」です。

「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

ここに死について書いてあります。ですから、何度もいうように、終末のみことばに関する
論争は、死をかけたものであることを知ってください。
かつて、主イエスの論争も結果として、彼の死をもたらしました。
同じことが終末に再現すると思われます。しかし、こんな時代に肉体の命のことばかり気にかけるのは愚かなことです。「肉体を殺してもたましいを殺し得ないもの」など恐れてはいけません。

”12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」”

天はみこころの行われる教会であり、ここからは、悪魔のわざが一掃され、
それゆえ、勝利と回復があります。これは、後の日、黙示録の時代のことであり、
現在天、すなわち、みこころの教会も、その回復はまだ十分とはいえないでしょう。
何故か?それは、くり返すようですが、敵が見えていない、問題の原因が見えていないからではと
私には思えます。
赤痢が発生するのは、その原因の赤痢菌があるからです。
これを消毒、殺菌しなければ解決しません。
教会が誤り、問題だらけなのは、その様なシステムがあり、それに貢献する
人々がいるからです。これを解決しないなら、問題は解消しません。

みこころの教会は回復し、神の栄光が洗われます。しかし、地、すなわち、
神のみこころを行わない教会には、わざわいがきます。
悪魔が激しく怒って下ったからです。悪魔による、大きな惑わしがあります。
このサタンが天から落ちる日はかつてイエスの時にもありました。
その時、男の子である、イエス及びその弟子は悪霊またサタンのわざに対して大勝利を得ました。
以下の通りです。

”ルカ10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」”

しかしこの時にも、また、地、すなわち、
神のみこころを行わない人々に、わざわいが来ることも事実でした。祭司長、
律法学者達はますます惑わしに入り、主イエス殺しに奔走していったのです。
そして、その結果裁きにはいりました。

”13 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。”

男の子は殉教者であり、女は殉教者を産む教会です。
竜、悪魔はこのみこころの教会を追い、迫害しようとします。

”14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。”

「大わしの翼」とは何のことだか、はっきりはわかりませんが、
しかし、一般に鳥は霊と関係あることばであることを思い起こすなら、聖霊の働きと
関係があることは推察できます。

女は、荒野に飛んでいき、そこが、女の場所であることが書かれています。
荒野は都の反対語と考えるなら、都すなわち、中心的な教会、多数派の教会から、
離れた教会、小数の地下教会の様な教会のことをさすと理解できます。「一時と二時と半時の間」とは、
すなわち、3年半の大艱難時代の期間のことです。
ですから、ここで書かれていることは、男の子、準強者は起きるとしてもしかし、
主につく教会は、地下教会として、不思議な神の助けの中で、艱難時代の間、守られるという
ことがらです。そうです、すべての人が殉教するわけではないのです。

”15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。”
 

水は繰り替えしていう様に、惡霊のリバイバルと思われます。
みこころの教会はこの惡霊の川からも守られます。
 

”17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
18 そして、彼は海ベの砂の上に立った。”

このみこころの教会は、終末の日、悪魔、サタン、由来の惑わし、また試みに会うことが
書かれています。そもそも、悪魔、サタンは試みる者であることをおぼえましょう。
全て、試験、試みは、ものごとの真価を表します。
競走率10倍の難しい試験を憂かってくる学生は、真に学力があることがわかります。
かつてのエデンの園における、試験、試みは、アダム、エバの真価、実態を表してしまいました。
また、同じく、主イエスの荒野における試みは、主の真の心をあらわにしました。
同じく、終末の日、サタン、蛇、竜の惑わし、試練が許され、私達の真の心があらわにされてしまう日
がきます。

まとめます。終末の男の子、太陽や月や星とともに記されている、黙示録の男の子は、
かつてのヨセフの働きを終末の教会に表すでしょう。
すなわち、かつてのヨセフが飢えた自分の兄弟に穀物を売るものとなった様に、この終末の
男の子は、すばらしい聖書のことばからのメッセージを私達にもたらすでしょう。
そして、その日は近い、すなわち、このヨセフで預言される男の子の出現の日は近いことを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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礼拝の案内

礼拝時間:毎週日曜日、午前:10:30-12:00 (午前は、新約聖書の講解)
                           午後:2:00ー3:30 (午後は、旧約聖書の講解)

集会場所の住所;
府中グリーンプラザ:東京都府中市府中町1-1-1 (京王線府中駅徒歩1分) 地図

ルミエール府中:東京都府中市府中町2-24

中央文化センター:東京都府中市府中町2-25 
 

最寄りの駅:京王線府中駅、JR武蔵野線北府中駅、JR南部線府中本町駅
 

日曜礼拝の場所(2004年)
 
10月10日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
 17日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
 24日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
 31日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
11月7日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  14日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  21日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  28日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
12月5日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  12日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  19日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  26日(日) 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
1月9日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  16日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  23日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  30日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
2月  13日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  20日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  27日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
3月6日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  13日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
  20日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室
   27日 府中グリーンプラザ
地下1F集会室

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