NO.414 自分の目で見る


”テキスト:イザヤ6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」
11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」”

本日は「自分の目で見る」という題でメッセージしたいと思います。

終末において大事なことは、「自分の目で見る」ことなのだということを考えていきたいと思うのです。
テキストを順に見ます。

”9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

教会生活において大事なこと、クリスチャン生活において大事なことは、何でしょうか?
いわく、教会へ行くこと、そして礼拝のメッセージを「聞くこと」、
これが大事だといわれます。
そして、それから、それから、聖書を読むこと、また信仰の良書を「読むこと」、これも大事だといわれます。これらに何の異論があるでしょう?

しかし、異論をいう人がいます。否、異論を唱えるみことばがあります。
それは、このみことばであり、ここでは、(メッセージを聞き続けても)しかも「悟らない」ことについて諸いてあります。また、聖書を見続けても、読み続けてもなおかつ、「知らない」ことについて
諸かれているのです。

そんなわけで、
終末において大事なこと、否、クリスチャン生活全般において非常に大事なことがあります。
それは、聞くだけでなく、「悟ること」そして、読むだけ、見るだけでなく、「知る」ことなのです。

分かりやすくいうなら、「聞く、見る」は一つのこと、しかし、「悟る、知る」は
また別のことであるということでしょうか。
ここには、レベルの違いがあり、単に「聞く、見る」ことが、その人を救うのでなく、「悟る、知る」
ことを求めないと、終末の日には、危ないのだということを知って下さい。

"
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」"

「この民の心を肥え鈍らせ」と書いてあります。
これは何をいわんとしているのでしょう?私の考えでは、肥えることは、
食べることに関連し、おいしいものをたくさん食べることに関連している様に思えます。
心は楽しみにより、おいしいものにより、肥え太るのです。

そして、また食べることはパン、みことばに関連しているのでしょうか。

この世的なことをいうなら、今の時代は、楽しいこと、娯楽、楽しみに満ちています。
今の時代こそ、心が肥え太る時代といえるでしょうか。
以前、戦後のころの子供の楽しみといえば、時々来る、「紙芝居」のおじさんです。
おじさんが自転車に紙芝居を乗せて広場に到着すると、ひまな子供がたくさん集まります。
でもすぐには紙芝居は始まりません。
まず、飴やら、何やら、駄菓子を5円とか、10円で売ります。それを一通り売り終わった後、
おじさんが紙芝居を始めます。
太鼓をたたいて、鞍馬てんぐやら、黄金バットやらをおじさんが、7色の声で熱演するわけです。
みんな物語りに引き込まれて「本当に面白いな」と堪能するわけです。

昔の子供の楽しみなんてその程度でしたが、今はそんなことはありません。子供、そして
大人もあらゆる楽しみに満ちています。

テレビ、ラジオ、CD, DVD, あらゆる雑誌も販売されています。
テレビは楽しい番組、好奇心を満たす番組に満ちています。
美女も美男もとっかえひっかえ出てきます。

たとえば、この間のアテネ5輪では、みんあ遅く迄テレビを見ていたようですし、また
新聞も1面から、どの面も金メダルや日本選手の活躍で満ちています。
本当に世の中楽しいことだらけであり、私達の心はあのことで、満たされ、このことで満たされていくのです。

しかし、この様な楽しい状態、みんなで、テレビの楽しい番組に浮かれている状態は、
実はある種の人々、人々の目を真実から、話し、自分達の都合の悪いことから離そうとの
戦略であると聞いたことがあります。
主権在民、民主主義の時代なのですから、多くの国民の目を他のところに行かせ、
真実に気がつかせなければ、政治を支配すること、否、世界を支配することは可能だからです。

事実、オリンピックの間もアメリカのイラク侵攻は止まず、多くの血が流されています。
また日本でも、日本が戦争ができる国にならないと、国連理事国になれないなどと
アメリカの高官からの圧力があったりします。また、日本の首相が国連理事国入りを望む声をあげたりしています。
この先には恐ろしいことが待っている気がします。
 

その様なわけで、「人々が楽しいこと、心がハッピーになることのみに心を向けている」その時、
その裏では「事態が恐ろしいことに向かっている」ということがあり得るということを覚えてください。

さて、世の中のことを書きましたが、私が真にいいたいことはキリスト教会の現状です。
キリスト教会も世の中と同じく、否、更にノー天気に、「楽しいこと、心がハッピーになることのみ」に
目を向けつつあることを知ってください。

世の中の人も段々目が開け、アメリカが世界の警察官だ、アメリカは正義と自由の国なんていうヨタ話しをまともには信じなくなりました。
この国には裏がある、どうも怪しいということに気がつくようになったのです。
しかし、残念ながら、このキリスト教会において、終末のヨタ話にうつつを抜かし、
楽しいことのみに目をとめ、真実を見ようとしないクリスチャンが多い様に思えます。
彼等の心は「神は愛なので、どんな人も一度クリスチャンになったら、どんな罪を犯しても、また
犯し続けても決して裁かれることはない」なんていう聖書にはない教理で満たされ、肥えています。
心はハッピーなのです。
「何やっても天国?これって最高じゃん」というわけです。

また、終末の日、ユダヤ人は艱難に会うが、教会は天に挙げられ、艱難に会わないという、
これまた、聖書には根拠のない、異端教理、「2段階携挙説」により、これまたハッピーなのです。
何しろ、艱難時代は来るが、自分達は特別なので、高みの見物であり、何の災いにも会わないと言うので、これは最高なのです。

こんな様に、「心を肥え太らせる」ことは、それと知らずに滅びに追いやる第一歩なのです。
聖書にも「人々平和無事なりという時、滅びにわかに襲い来らん」と書いてあるではないですか。

「その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」

たとえ、聖書黙示録には恐ろしい滅びのことが書かれていたとしても、
クリスチャンの実際の時間、多くの時間は、テレビや映画に向けられ、また、
キリスト教会のお気楽新聞、お気楽雑誌に向けられ、毎日、トレンデイドラマやら、
音楽番組に引き付けられているなら、その耳は「さとく」なるでしょうか?
はたまた、その目は「鋭く真実」を見分けるでしょうか?

いいえ、むしろ、その耳は遠く、その目は堅く閉ざされるのです。
ですから、私達は知らなければなりません。

聖書の暗号は1997年よりもう既に終わりの時代に入ったことを告げ、そして、
事実世界は終わりの様相を明らかに見せているのに、
世の中の真実を告げる新聞はますますお気楽になり、楽しいことばかり告げる様になっていることを。

同じく、否、それ以上にキリスト教会の新聞や雑誌は教会内の怪しい働きについては、
告げず、楽しいこと、ばかりを語る様になっていることを。
そして、その結果、私達クリスチャンの「耳は遠く、その目は堅く閉ざ」されつつあるのです。

「自分の目で見」

そんな風にキリスト教会において、新聞も雑誌も楽しいこと、心を肥え太らせることばかり告げ、
真実を告げなくなった時、大事なこと、非常に大事なことは「自分の目」で見ることなのです。

最近では、アメリカの牛に関して、BSE(狂牛病)のため、全頭検査は必要無いなどと「科学的な委員会」の報告があったとのことです。どうみてもアメリカがごり押ししている様に見えるのですが、20ヶ月以下の牛の検査には、科学的な
根拠はない、などとの「意図的な結論」が出された様です。
もう、日本の国は日本の国民を守らず、国民が狂牛病になろうとなるまいと、ただただ、アメリカの
意志を行うことに心を用いる様になっています。

そんな時はどうすべきか?
それは、自分で判断し、自分の目で見ることなのです。
アメリカのゴリ押しに日本の国や、日本の御用学者が迎合したとしても、
狂牛病にかかった牛を食べて病気になってしまうのは、自分なので、自分で判断すべきなのです。
国も御用学者も、自分のことしか考えていないので、我々は自分の目で見、自分の目で判断しなければならないのです。

同じく今のキリスト教会においては、教え込まれた教理や、教えこまれた教会史観に基づき、
多くの窓わしがあるので、自分の目で見ることが必要なのです。

いわせてもらうなら、今の時代、日本の教会は、どの教団の教会もまたキリスト教メデイア
も、等しく夢を見ている、現実と離れた夢を見ている様な時代です。それで、自分の目でみることが
大事なのです。

主もかつてこういわれました。

”ルカ12:
56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
57 また、なぜ自分から進んで(自分自身で)、何が正しいかを判断しないのですか。”
 

「自分の耳で聞き」

今のキリスト教会では、あのトロント、ペンサコーラの悪霊が「すばらしい神の霊」ということになっています。しかし、本当にそうか?自分の耳で主に聞くことが大事です。何故なら、このことで
惑わされるなら、害を受けるのは自分自身だからです。

「自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

自分の心で今の教会の現状、今、教会はまさに裁きに直面しているのだということを
理解するなら、その時、立ち返ることがあり、いやしがあるでしょう。

今のクリスチャンの問題、教会の問題は、自分達が病におり、教会は神の裁きに入りつつあるのに、
その病も問題も見えていないことです。
歯医者に来る人は歯が痛い人、骨接ぎに来るのは、折れた骨が痛い人です。
しかし、虫歯になっても痛みを感じない人、歯医者に来ない人ををどんな歯医者もなおすことはできません。

同じ意味あいで、今の教会は病んでおり、問題を抱えているのですが、しかし、
悲しいかな、それを語る人々がおらず、キリスト教メデイアもどの教会も
この罪を指摘せず、それゆえ、立ち返っていやされることがないのです。

”11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。”

多くの人の目が閉じられ、耳が閉ざされ、偽りの平和、架空の恵み、
聖書に根拠のない平安を語る偽預言者の作り話が教会を覆う日がきます。というより、
ずっと前から教会は偽りの中で、暮らしてきたのです。「主よ、いつまでですか。」と
イザヤは聞きます。その答えは、「町々は荒れ果て」るまで、
すなわち、偽預言者の声にすっかりだまされ、その気になった愚かな神の
民が律法も行いも捨て去り、荒廃する日までというのです。

今がその時であり、もう教会においては、「何をやっても許す神」ということで、
あらゆる罪がまんえんしつつあります。

「土地も滅んで荒れ果て、
12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」

放任、自由教育を受け、自由意志が大事なのだから何やってもいいよ、お菓子も食べ放題、文句があれば、先生でも遠慮するな、なんて、教わった子供はどうなるか?
しつけも、礼儀もない、他人をいじめても意に介さない、獣みたいな子供に育っていくでしょう。
同じく、
クリスチャンがどんな罪も許され、それで何をやってもいいのだと、何があっても天国いきだけは
保証されているという、偽預言者の声に聞き従って、放任クリスチャン、自由クリスチャンとして育っていく時、その結果はどうなるか?
それは、教会が移されること、他の国となってしまうことです。
すなわち、旧約に預言されている、バビロン、エジプトへの捕囚が実現してしまうのです。

”13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」”

これらの愚かな世代、偽預言者の甘い声に聞き従い、キリスト教会のあらゆるメデイアが語る、
お気楽架空のバーチャルリアリテイ(仮想現実)を信じる人々は皆、滅びに向かい、移されていくのでしょう。しかし、
ほんのわずか、「切り株」が残ります。そして、「聖なるすえこそ、その切り株」なのです。

何度もくり返す様ですが、終末の日は、ノアの日、ロトの日であることを聖書は明確に
記しています。ノアの日、ロトの日の特徴は何か?
ノアの日には、ノアを始めとする小数の人々が残り、あとの人々は皆、滅んでしまったということです。
ロトの日の特徴は何か?同じく、その日、ロトの家族のみが救われ、それ以外のソドム、ゴモラ
の全ての人は滅んでしまったということなのです。ですから、ノアの日、ロトの日という
ことにより聖書が明確に語っていることはその日、滅びを逃れる人々は少ない、限られている、
そのことなのです。
そして、そのことは上記ことばの「聖なるすえ、その切り株」のみが残るとのことばと符合します。

そして、この「聖なるすえ、その切り株」の特徴は何か?
それは、彼らが自分の目で今の時代を見分け、また自分の耳で神の語ることを理解したからであると
想像できます。

再度繰り替えしていいますが、今の時代は、現実を隠し、また迫っている裁きを告げない、
キリスト教メデイア、また偽預言者の声に満ちた時代です。
そして、人々の心は「肥えて鈍くなっている」時代です。また、『聞き続けても、悟らず。見続けても、知らない時代なのです。

真に悟ること、知ることにみこころがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー